京都アニメーション放火殺人事件(2019年)を受けて、日本新聞協会が2022年に公表した「実名報道に関する考え方」。
策定にあたり「子どもを亡くされた遺族らからも意見を伺った」と発表していたが、きっかけとなった京アニ事件の遺族への聞き取りはしていないことが、ハフポスト日本版の取材で分かった。
この声明に掲載された遺族の思いは、実名報道により状況が改善したケースが中心。日本新聞協会は「京アニ事件のご遺族を特段の理由から『招きたい』『外したい』といった議論はなかった」と説明する。
また、匿名を希望する遺族が増えた背景にある「インターネット上の誹謗中傷」について、改善策を具体的に示していないという課題もある。
京アニ事件の遺族・渡邊達子さんは、実名報道に一定の理解を示す。一方で報道機関に勝手に住所を載せられた経験も踏まえ、「反対する遺族の声にも向き合った上で、報道の自由と被害者の人権、両方を守れるような報道ガイドラインを作ってほしい」と望む。
*全2回。1月25日に、日本新聞協会の「メディアスクラム防止のための申し合わせ」に関する検証記事を公開する予定です。
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◆SNS普及による誹謗中傷の改善策、具体的に示さず
日本新聞協会は、全国の報道機関が倫理の向上を目指し設立した自主的な組織。「実名報道に関する考え方」は、同協会に所属する報道各社の編集幹部らでつくる「編集委員会」などが作成に関わり、2022年3月に公表された。
策定の大きなきっかけは、京アニ事件で実名報道について、大きな批判が寄せられたり、遺族から拒否する意向が示されたりしたことだ。
声明は、遺族などの匿名希望を考慮するかなど、5つの問いに答える形式。「被害に遭った人がわからない匿名社会では、被害者側から事件の教訓を得たり、後世の人が検証したりすることもできなくなります」などと見解をまとめた。
だが公開後、人権の観点からも「納得できる説明になっていない」などと批判が集まった。
ハフポスト日本版は、日本新聞協会の編集制作部長と編集制作部編集担当主管に取材。京アニで美術監督などを務めた渡邊美希子さんを失った母・達子さんと、兄・勇さんに意見を聞いた上で、声明の問題点を検証した。
その結果見えたのは、大きく分けて以下の3つの課題だ。
① 誹謗中傷に対する改善策が示されていない
② 策定の過程で、京アニ事件の遺族の思いに向き合っていない
③ 批判に向き合わずに「あくまで報道の自由を守る立場」という方針
1つ目は、インターネットの普及による、被害者への差別や誹謗中傷について、改善策が示されていないことだ。
達子さんは、事件直後から実名の公開を了承してきた。「美希子は何も悪いことをしていないんだから、逃げも隠れもする必要はない」という、自身の夫の言葉に共感したからだ。
実名報道についても、「実名がある方が社会的に理解を得やすい場合もある」と、一定の理解を示す。だが被害者や遺族であることを知られたくない人の気持ちにも、強く共感する。
そもそも、なぜ実名を拒む遺族が多いのか。背景の一つに、「本人にも原因がある」などと、犠牲者や遺族が偏見の目にさらされたり、責められたりするケースが後を絶たない問題がある。時には報道などを見て、生命保険の保険金を目当てに親族や知人らが家に来るケースもある。
日本新聞協会もこの声明で、「インターネットの普及や、それに伴う誹謗中傷により、遺族が匿名を希望するケースが増えている」と明言。「個人が尊重され、『実名で語ることができる社会』を理想にしたい」とし、「是正に役立つ報道に努めています」と記している。
だが、被害者遺族が直面する問題の改善策は具体的には示されていない。
達子さんの家族は事件から5年半の間、京アニ事件や被害者に関する記事を可能な限り保存し、その数は段ボール数箱にも及ぶ。だが「是正に役立つ報道」と思える記事は、数えられる程度しかなかったと感じている。
達子さんはSNSの普及により、一度でも名前が公になるリスクが大きくなっているとし、「被害者への差別や偏見を緩和する報道に力を入れる指針を作ってほしい」と提言する。
「実名で報じるならば、被害者遺族の人権を守る報道に、事件報道と同様に力を入れてほしい。日本新聞協会の声明の通り、報道は『社会のため』のもの。そして被害者遺族も社会の一員です。当事者の人権を守ることも、報道の責務だと感じるんです」
◆遺族の人権に向き合わない策定過程
この声明は、「実名報道を拒む遺族、被害者の置かれる実情に向き合っていない」という、事件報道の問題を改めて可視化したとも言える。
策定のきっかけの1つが京アニ事件で、日本新聞協会によると、作成の上でジャーナリズムの専門家、日本弁護士連合会(日弁連)の弁護士、そして子どもを亡くした遺族らの意見を聞いたという。
だがハフポストの取材に、日本新聞協会は京アニ事件の遺族には一人も話を聞いていないことを認めた。
その理由について、「策定の過程は公表していませんが、どのような方々にヒアリングするかという検討の中で、京アニ事件のご遺族を特段の理由から『招きたい』『外したい』といった議論はなかった」と説明する。
声明には、犠牲者の実名があったからこそ、市民の共感が集まり、ストーカー規制法や、飲酒運転に関する道路交通法の改正につながった事件や事故、遺族の思いが記されている。2人も「被害者も加害者も生まない社会」を目指して報道機関の取材を受けており、共感もするという。
だが実名報道によって苦しい思いをしたり、反対したりしている人の声は掲載されていない。
達子さんは「ひとえに『被害者遺族』と言っても、一人一人意見は違います。私も、夫や息子と異なるところもあります」と前置きした上で、「できる限りいろんな意見に向き合った上で、報道や法制度をどうしていくのが良いか、考えてほしいです」と話す。
京アニ事件で殺人などの罪に問われた青葉真司被告(一審で死刑判決、大阪高裁に控訴中)の京都地裁の公判では、犠牲者36人のうち19人の遺族らが匿名での審理を希望した。勇さんは「少なくとも『実名を肯定するのが圧倒的な多数派』ということはないと思うんです」と話す。
また達子さんも、「声明を出すことはありがたいのですが、多くの遺族が置かれている実情に向き合っている内容とは思えなかったというのが本音です」と打ち明ける。
例えば、日本新聞協会も匿名希望の遺族が増えた背景にあると指摘する「インターネットの普及や、それに伴う誹謗中傷」の問題。SNSの影響が特に大きくなった2010年代後半以降に起きた、京アニ事件以外の事件事故の遺族にも、策定の上で聞き取りしていないという矛盾がある。
また2022年の公表にも関わらず、2008年の「国民意識調査」の結果を引用。「事件に直接関係ないプライバシーに関する報道がされているか」 に「あてはまる」としたのは、一般の人が 77%、 被害者や家族は 3%だったとし、「一般の人のイメージと当事者の認識に大きな差がある現状を考慮に入れ、今後も理解が得られるよう努めていきたい」としている。
2人が、「被害者の人権を慮っていないのでは」と感じてきたのはこの声明だけではない。
例えば、青葉被告の京都地裁の公判の前。遺族が事件に起因する心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんでいることを受け、代理人が報道各社に実名を控えるよう申し入れた。
だが読売新聞、京都新聞、共同通信が、犠牲者の氏名を再度報じた。達子さんは「実名が一度必要なのは分かります。ですが、PTSDで苦しむ人がいるのに、すでに出ている名前を繰り返し報じる必要はあるのでしょうか。報道被害の責任は取れるのでしょうか」と憤る。
また同協会が優れた報道を表彰する「新聞協会賞」では2024年、京都新聞の京アニ事件に関する連載企画「理由」と公判報道が選ばれた。「事件報道における実名・匿名を巡る問題にも正面から向き合った」とするが、達子さんは「本当にそうなのか」と感じた。
勇さんは「メディアの自浄作用が働いていないのでは…と感じることが、5年で数多くありました」と話す。
◆被害者や遺族への誹謗中傷への「具体的な改善策」を
なぜ、被害者遺族に「当事者の人権に向き合ったとは思えない」と言わせてしまうような内容になったのか。
日本新聞協会は策定の前提について「実名報道には意義があるが、世間には理解されていない部分もあるという問題意識がありました」と説明する。
声明に対する批判については、「我々は報道の自由を擁護する立場であり、批判をもとにした議論は、編集委員会で議題として上がらなかったのでありませんでした」と話す。
達子さんは筆者の取材に、数年前から繰り返し「市民が知るべきことを伝えながら、被害者と遺族の心も守る。その落としどころを探ってほしい」と語ってきた。
それは、実名報道だけではない。その1つが、どこまでが「社会で共有すべき情報」なのかだ。声明には「社会で共有すべき情報を伝え、記録することが、報道機関の責務」という文言がある。
2人は3年前に、ある新聞社に勝手に住所を載せられた。また強引に美希子さんの顔写真を求める報道機関も多くあった。
日本新聞協会は、住所や顔写真などの具体的な報じ方について、「そこまで範囲を絞って、業界全体で議論する(必要はある)のか」とした上で「具体的には各社が決めることだと考えています」と話す。
また、被害者遺族への誹謗中傷や差別を緩和する報道を増やしてほしいという意見に対して「各社においてそれぞれ取り込まれるんじゃないですか」(原文まま)と他人事だ。
「日本新聞協会はあくまで報道の自由を守る立場にあり、編集上の問題や、報道や取材の仕方についてルール化したり、統一的な枠組みをあてはめたりしようとすることは性質上、馴染みません」
新聞業界には、放送における「放送倫理・番組向上機構」(BPO)のような機関はない。日本新聞協会に抗議の電話が来ることもあるというが、「指導する立場にはない」という。
確かに報道機関がそれぞれ、人権を守る報道の形を探ることができるのが理想だ。だが長年そうなっているとは言えず、何かしらの指針が必要だ。
達子さんは、実名で報じるならば「業界全体で、実名報道に否定的な人も含め、さまざまな遺族の思いに向き合う研修の場を設けたり、被害者学や人権に関する知識をアップデートする環境を整えてほしい」と望む。
勇さんはこれからも遺族として取材を受けるため、「被害者取材について、専門家や当事者と記者が協力して、時代に合った網羅的な報道ガイドラインを作ってほしい」と話す。
『性暴力被害取材のためのガイドブック』や『LGBTQ報道ガイドライン』といった前例はあり、被害者取材においても作成できるはずだ。
「報道陣には、まかり間違ったら相手を傷つけて、自殺にまで追い込む可能性のある職業だということを理解してほしい。必要であれば、日本新聞協会からの意見の聞き取りにも協力します」
〈取材・執筆=佐藤雄(@takeruc10)/ハフポスト日本版〉
実名報道・遺族取材を考える「ハフポストミーティング」を開催
「遺族取材」「メディアスクラム」の問題をテーマにした「第4回ハフポストミーティング」を、2025年1月29日(水)午後7時に、東京都内で開催します。
ハフポスト日本版の佐藤雄記者が2024年7月に開始したシリーズ報道『被害者と遺族の「本当」』をもとに、「被害者・遺族の人権と報道」について、読者の方々と語り合いたいと考えています。
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