「毒親」だった母と27年間、距離を置いてきた。うちに引っ越してきたのをきっかけに見えてきたことがある

何が人にその行動を取らせるのか、私たちは想像することしかできない。母に尋ねることができるとしたら、返ってくる答えが何か確信している。

地元紙でフリーランスの記者として働く私にとって、一番知られているのは書き手としての顔だ。しかし、この12年間、私にとって本当の仕事は母親の面倒をみることだった。

私がパートナーらと暮らしていた家に母が移ってきて、ひさしぶりに同居生活が始まった。物忘れがひどくなる母のことを、老化現象だろうと甘く見ていた。ある日、「ミシンをどこへやった?」と繰り返し聞いてくるようになった。「ハワイに置いてきたじゃない」と何度言っても、「そんなことない」と言い張る母。「たった今、使っていたところなんだから。あなたがどこかにやったんでしょ」と責められた。

ミシンなんてないとこちらが言えば言うほど、母のイライラは募っていくばかり。解決策として、ミシンを買うことを提案してみたところ、「いらない!自分のがいい!」と意固地になった。そして、存在しないミシンを見つけることにますます躍起になった。

それから数日後、仕事から帰宅すると母の姿が消えていた。保安官事務所に連絡を入れると、高齢の女性が近隣の家々にミシンについて尋ね回っていたと教えられた。母はブドウ畑をさまよっているところを保護された。家が見えているのに、どうやって帰ればいいかわからなくなってしまったようだ。

認知症という診断を受けたのはそれから間もなくのことだ。薬を処方され、シニアセンターの「みんなでランチ」というプログラムに参加することになった。送迎、ランチ、アクティビティ、介護を受けられるプログラムで、当時は費用を公的な医療保険制度で全額カバーすることができた。

母は誰かの役に立ちたがったが、これは危険をはらんだ。ある時は、よろよろとイスの上に立ち上がり、天井で回るファンを止めようとした。バーナーの火をつけずに古いガスコンロのスイッチを入れたこともあった。

母の担当医は、常に誰か見ておく必要があると判断した。フリーランスという働き方を選んだことで、母の介護をしながら自分のキャリアを積み上げていくことができた。母を「みんなでランチ」に送り出したと同時に、フルスロットルで自分のことに取り組む。取材、執筆、買い物、家の掃除…。母が外出している4時間にやるべきことを詰め込むのだ。

アルツハイマー協会のアンバサダーであるエリザベス・サントス氏は、実用的な支援とともに、安心感を与えてくれた。サントス氏に「お母さんの導きに従ってみてください。何を求めているのかわかるでしょう」と言われると、ホッとした気持ちになった。

母が導き、私たちは従った。

ある夜、母は真っ暗な玄関先を指して、「どうしてあの人たちは踊っているの?」と聞いてきた。

「聞いてくるね」と言い、母の想像の中にしか存在しない人たちのところに理由を尋ねに行った。母のところに戻り、「パーティーをしているんだって。混ざりたい?」と聞いてみた。母は少し考え、「いや、大丈夫」と答えた。

家中をつま先立ちして歩き回ったこともある。「どうしたの?」と聞くと、「床が水浸し!」と大声で叫んだ。私はすぐにモップを取ってきて、乾いた床を拭いた。もう水はないか確認すると、「1カ所残っている」と母にしか見えない拭き残しを指さした。

過去には母と距離を置いたことがあった

暴力的な母だった。学校で集合写真を撮る前の日に、ナショナルジオグラフィックの本で顔を叩かれたことがある。母が入ってこないように子ども部屋のドアをおもちゃ箱でふさぎ、安全とわかるまでクローゼットに身を潜めた。デパートで陳列された商品の間をジグザグに歩き回ったという理由で、片腕をつかまれ、乱暴に引きずられたこともあった。

背中がひどく痛むと母に訴えても、見過ごされた。危うく下半身麻痺になるところだったため、2013年に緊急手術を受けたのだが、医師から病状について「先天性の可能性が高い」と伝えられた。

成績優秀な子どもだったのだが、定期的に悪夢に苦しめられた。学校から家に歩いて帰っているところで、家が近づくにつれて恐怖とパニックが増していくというものだった。

大学に入り、母とは最低限の連絡しか取らないようにして距離を置いた。父が亡くなり、母は生まれ育ったハワイに戻った。21歳だった私は、カリフォルニアにとどまることにした。それから27年。母と再び一緒に暮らすことになった。

母と暮らし始める10年ほど前から、セラピーを受けていた。医師にはPTSDと診断された。当時は多くの人がそうだったように、PTSDは戦争で傷ついた退役軍人だけが経験するものだと思っていた。母に怒鳴られたこと、髪を引っ張られたこと、頬を叩かれたこと、けなされたこと、これらのことは戦場で受けた筆舌尽くし難いトラウマに匹敵するのだろうか。ただの「昔ながら」の子育てではなかったのか。トラウマについてある程度の理解を深めたが、その根底に母の行為があったと認めるまでに数年かかった。

大人になり、母と暮らそうなんて微塵も考えていなかった。母を受け入れた理由は、私が引き取るほか選択肢がなかったからかもしれない。あるいは、今時の言葉で言うところの「タイガー・マム」の娘で、良い娘なら老いていく親の面倒をみるものだと教えられてきたからかもしれない。

大人になってもなお、母から「正しいことをしているね」と認められたかったのだ。

認知症が進み、母はイライラすることが減った。以前よりもハッピーで、かわいらしくなった。フォークシンガーのピート・シーガーの曲に合わせて、車イスで体を揺らしながら手拍子を打つ姿もあれば、真っ赤なクレヨンで完璧な眉毛を描いて寝室から出てきたことも。「みんなでランチ」の看護師さんたちは母を慕ってくれた。私の友人たちのお気に入りにもなった。

いつだか正確に思い出せないが、「私の子ども時代に暴力的だった人間はもう存在しない」という天啓があったことを覚えている。

「毒親」だった母は、すっかり小柄になり、笑顔があふれ、きらきら輝き、誰から見ても一緒にいて楽しい人になっていた。

何十年にもわたってとらわれてきた有害で有毒な子ども時代のトラウマが萎み、精神的に押さえつけてきていた力が緩んだ。

言語能力が低下し、 日に日に弱っていく母が何を求めているのか掴もうと最大限努めた。母は失禁したことを伝えるのを恥ずかしがった。汚した下着をクローゼットやハンドバッグに隠すこともあれば、トイレに流そうとして失敗することも。この失禁が、私がモップで拭った「水浸しの床」を想像した元になっていたのかもしれない。

母は転んで肩を脱臼したこともある。珍しい治療方法だったことから、何十人もの病院スタッフが集まってきた。医師はこちらが心配になるほどの力で引っ張り、脱臼した肩を元の位置に戻した。痛みが治まったのは奇跡に近い。

怪我したことをまったく覚えていない母は、三角巾をはめられたそばから外した。はめられては外すことを1日に何度も繰り返し、それが何週間も続いた。

地元のホスピスからシェリーが派遣されてきて、それから8年間にわたって在宅で緩和ケアを受けることができた。母が体を動かすことが難しくなってくると、床ずれや尿路感染、脱水をどう防ぐかに関心が移った。よなよな大量の洗濯物をたたみ、大人用のオムツに吸水シートを付ける日々だった。

支援を活用し、母は自宅で死を迎えることにしていた。苦痛を最小限に抑えるための処方薬などが入った「コンフォートセット」を用意するよう言われる日がやってきた。

私の孫、つまり母からするとひ孫がお別れを言うためにやってきて、一緒に経験した楽しかった出来事を語りかけた。ほとんど意識のなかった母だったがひ孫の声には反応し、手を握って声を出して笑った。これが意識のある母の最後の瞬間だった。翌夜、母は静かに息を引き取った。97歳だった。コンフォートセットは使わずにすんだ。

私のパートナーには決まり文句がある。「許そう、しかし忘れまい」。

母のことはすべて許した。子どもの頃に受けた暴力の痕跡が母とともに消え去り、子どもたち、孫たち、そしてひ孫たちの人生に影響が及ばないようにと手を尽くしてきた。自分自身を許す努力は死ぬまで続くことになるだろう。

何が人にその行動を取らせるのか、私たちは想像することしかできない。もし母に取材できるとしたら、より良い人生を送ってもらいたかったからという答えが返ってくると確信している。

母はすべてにおいて秀でていた。絵もうまかったし、裁縫の達人でもあり、普通の編み物もかぎ編みも器用にこなした。タイル張り、造園、フラワーアレンジメントもできたし、料理にいたっては伝統的な和食からユダヤ教のじゃがいも料理ラトケスまで作ることができた。

母の天才的な部分を引き継がねばと思い、フラワーアレンジメントのクラスを受講することにした。アマチュアながらも才能があったようで、娘の結婚式をはじめ様々なイベントのために幾度となくアレンジメントを作ってきた。2023年には、長女の棺にのせるために作ったことが一番心に残っている。花に向き合うたび、母のことを思い浮かべる。母は何をするにしても事もなげにやっていた。何年もかけて、自分らしく生きようとする母の選択と才能と努力への尊敬の念を抱くことになった。

母は仏教徒だったが、子育て中は宗教から遠ざかっていた。

15年後、偶然の出来事に少しばかりのカルマも重なり、私はチベット仏教カルマ・カギュー派の仏教徒になった。基本的な修行にトンレンというものがある。トンレンは「受け取ることと与えること」を意味している。この修行では、苦しんでいるの体から苦しみや悩みが煙として発散されるところを思い描き、その煙を自分の体の中に吸い込む、つまり「受け取り」、慈愛を吐き出す、つまり「与える」のだ。

まだ母が存命だった時にも、私はトンレンの修行をしていた。母亡き今でも、母の苦しみを吸い込み、慈愛を吐き出す。吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返す。トンレンによって、私は許しのリズムを見つけた。

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筆者のCarole Brodsky氏は、母親が認知症と診断された2006年からフリーランスの記者として活躍している。母親の死をきっかけに、アルツハイマー協会のアンバサダーとなり、カリフォルニア州にあるユカイアホスピスの事務局長でもある。

ハフポストUS版の記事を翻訳しました。