定期的に受けている乳がん検診。昨年もいつものように60分で終わって帰れると思っていた。私は40代半ばの女性で、気になる症状もなければ、把握している限り危険因子もない。乳がんになる確率が低いことは確認ずみだった。だから、放射線科の医師からマンモグラフィだけでなく超音波検査もしておきたいと言われた時は、不安よりも面倒臭さを感じた。
アメリカ・フロリダ州でシングルマザーとして3人の子どもを育てながら、乳がんを専門とする放射線腫瘍科の医師として忙しい日々を送っており、その日もいつものようにびっしり予約が詰まっていた。自分の胸のことよりも、仕事が溜まってしまうことの方が気がかりだった。放射線科の医師は速やかに追加検査に滑り込ませてくれた。
結果を持って戻ってきた医師の様子から、問題があると悟った。「右の乳房に疑わしい腫瘤が少なくとも5つあり、リンパ節の腫れも見られます」。冷静さを保つことに必死で、医師から告げられた内容で覚えているのはこの部分だけだ。
医師である私は、これまで乳がん告知をされた多くの患者のカウンセリングをしてきた。乳がんは誰でもかかりうる病気だとよくわかっていた。定期的にマンモグラフィ検査を受けていたので、自分に乳がんが見つかるとしても早期に発見されると思っていた。腫瘍量が多く、リンパ節にも転移しているとは予想だにしていなかった。
5つのうちサイズの大きな腫瘤2つとリンパ節を生検した結果、乳がんが確定した。両側乳房切除手術と乳房再建手術を決めた。左胸も切除することにしたのは、再発リスクを考えてのことだ。手術から目覚めた時、最悪の事態は終わったと思った。手術前に行った検査で、化学療法や放射線治療は必要ないと診断されていた。エストロゲン(女性ホルモン)の働きを抑える内分泌療法を最低でも5年間受けることになったが、毎日錠剤を飲み、数カ月ごとに注射を受ければいいというものだった。
最終的な病理検査の結果が出ると、当初の想定よりも病気が広範囲に及ぶことがわかった。この結果を踏まえ、友人でもある腫瘍内科医から化学療法とCDK4/6阻害剤を治療計画に加え、卵巣の摘出を提案された。自分でもカルテをざっと見ていたため、放射線治療が必要になるだろうことはわかっていた。知識は力だが、恐怖ももたらす。その瞬間、私が診てきた患者たちが経験した、化学療法と放射線治療によって引き起こされるありとあらゆる併発症を自分が発症する姿が目に浮かんだ。恐怖にのまれ、ひどく気落ちした。
マサチューセッツ州ボストンにあるダナ・ファーバーがん研究所にセカンドオピニオンを求めた。友人の見立ては適切だとわかっていたが、現実を受け入れたくなかった私は中立的な第三者の口から聞きたかった。予想通り、がん研の医師は意見を求めた治療計画と同意見を示した。治療後10年を再発ゼロで過ごせる確率は85%だと告げられた。
たった85%?と心の中でつぶやいた。4週間前まで健康な46歳だったのに。子どもたちが自分の家族を持つ姿を見られないかもしれないなんて、考えてもみなかったのに。すべての治療を行ったとして、15%の確率で転移する可能性がある。死ぬかもしれない。ショックだった。
「85%は悪くない数字ですよ」。がん研の医師は言ってくれた。
3人の子どものことを考えると、85%では十分ではなかった。生きる目的が多すぎて、できるだけ100%に近い数字でないと満足できなかった。
患者に言ってしまった無神経な言葉、まざまざと蘇った
積極的な医療的介入が必要ない早期のがん患者が、治療を希望する気持ちがわかった。私の場合はリスクが低いわけではないが、あらゆる選択肢をすべて試したいという気持ちは同じだ。がんはそれほど恐ろしい。発見が早期であろうが、がんの告知を受けるというトラウマを経験することに変わりはない。
過去に患者に対して言ってしまった数々の無神経な言葉が、まざまざと蘇ってきた。リスクが低い乳がん患者に対して命にはかかわらないと伝え、すぐに放射線治療を受けなくても、もし再発すればしたらいいのではと提案。患者は定期的に検診を受けるので、再発しても早めに見つかるだろうと説明していた。
私が患者たちに言っていた最後の部分が一番ショッキングなところだ。私も定期的に画像診断を受けていたのに、早期発見とはいかなかった。だから、 「万が一」を払拭するために、医師の勧めはそれとして、必要以上の治療を求める気持ちが今ようやく理解できた。
手術後2週間で職場に復帰した。もっと休めばいいと言ってくれた人もいるが、無力感を抱いていた私にとって職場に戻ることはコントロールを取り戻す意味合いもあった。
医師として、患者にはできるだけ早く元の生活に戻るように勧めている。そうすることで病気から気をそらすこともできる。私自身はというと、仕事を再開してよかったと思う半面、日中はずっと乳がん患者と話し、夜は自分の病気のことを考えるという日々は精神的な負担になった。
化学療法が始まっても、1クール終わるごとに2日間の休みを取ること以外はいつも通りの生活を送った。前投薬で吐き気や骨の痛みはやり過ごせたが、日常生活に支障が出るほどの倦怠感はどうにもならなかった。この間、私が優先させたことは、仕事に行くことと子どもたちのために生きることだった。
友人らと外出することはほとんどなくなり、ウーバーイーツの利用頻度が異常に増えた。子どもたちの成績が芳しくなくても気にならなくなった。洗い終わった洗濯物が山になっていても、キッチンの流しに使った食器があふれていても、どうでもよくなった。がんになり、いやが応にも自分自身を優先させるようになった。がんになる前に大切に思えた物事は、脇の方へと追いやられてしまった。
医師として患者に勧めたことを実践できない自分、そして学んだ
ただ一つどうでもよくならなかったのが、髪だった。きれいな髪をしていたので、髪の毛が抜け落ちていくのはとりわけつらかった。一時的とはわかっていても、髪の毛が抜けた姿の自分を見て、永遠に両胸を失うよりも自尊心が傷ついた。
がんになる前は、患者が髪の毛を理由に推奨された化学療法を拒否するのを不思議に思っていた。脱毛を起こさない治療方法が選ばれることもあったが、あまり効果的ではなかった。脱毛が嫌という理由できっぱり治療を断る患者もいた。
この人たちは命よりも見栄が大事なのだと決めつけていた。しかし、実際に髪の毛がごっそり抜け落ちるという経験をし、私にとってどれほどのアイデンティティと自信が髪の毛と結びついていたか痛感した。まわりの人たちはそれまでと同じように接してくれたが、私自身が自分でないように感じた。医師として、患者には生活の主導権を取り戻すために頭を剃ることを勧めていたのに、患者になった私はそうできなかった。
頭頂部から後頭部にかけてほとんど抜け落ちてしまったものの、抜けずに残っている髪をそのままにしておくことに慰みを見出した。がんにかかる前の私の姿だったから。もう二度と会えないかもしれない私の姿だったから。脱毛を経験したことで、次に患者に医師としての意見を伝える時には、引き続きこれまでと同じ提案はするが、自分の心に従うこともまた大切だと伝えるつもりだ。
つらさを語る上で髪の毛を失うことより大変だったのが、体内のエストロゲンを失うことだった。エストロゲンは女性の体づくりにかかるホルモンで、心臓や脳、骨といった様々な臓器を保護する強力な抗炎症作用もある。化学療法を受けると、女性の体内におけるエストロゲンの主な供給元である卵巣が機能しなくなることがある。女性はみんな年を重ねると卵巣機能を失う(更年期障害として知られている)ものだが、それは何年もかけて徐々に起こる現象だ。
だが、私の場合はある日起きたら更年期障害が100%の力で到来し、睡眠障害、気分の浮き沈み、疲れ、体重増加、関節痛、性欲減退などの症状が一気に襲いかかってきた。乳がんの80%ほどがエストロゲンの働きで成長することから、治療ではこのホルモンの分泌を抑え込むことが推奨される。エストロゲンを失うことによって引き起こされる症状は、治療を受けるのであれば仕方のないこととして受け止められている。
患者が挙げる悩みで多いのが、ホットフラッシュと体重増加だ。ホットフラッシュ対策にはサプリと処方薬を、体重増加には運動とカロリー制限を勧める。「運動もしているし、摂取カロリーも気にして生活している」と訴える患者に対し、「そうだろうけど、もっと頑張れ」と思っていた。いざ患者になり、私の悩みトップ2もまたホットフラッシュと体重増加が占めることとなった。ホットフラッシュは薬でうまく対処できている。しかし、体重増加には難儀した。
もともと食事に気をつけながら運動する生活を送っており、身長172センチで引き締まった体型をしていた。化学療法を受けている間は、倦怠感で運動する気になれなかったと同時に食欲も減退していた。だから、治療が終わった時点で4.5キロ増量していたのはショックだった。患者に伝えていたのと同じ対処法を実践したが、数週間経っても体重に変化はなかった。患者たちのモヤモヤやイライラを身をもって体験することとなり、結果が伴っていないと患者たちを責めてしまったことに猛烈に罪の意識を感じた。
私が医学部生だった2000年代初頭は、更年期障害とうまく付き合っていく方法について学ぶ機会はほとんどなかった。女性はただ我慢すべきだとされていた。どうすればエストロゲンの量が減ってしまった体を強く健康に保ち、正気であり続けられるようにできるか。がんになった経験が、研究へと背中を押してくれた。
より多くのタンパク質、食物繊維、できる限り加工されていない食品を食べることが、エストロゲンが減ってしまった体を支えるカギとなる。添加糖や加工食品はできるだけ食べないようにするか、まったく摂取しないようにする。定期的に体を動かすこと、中でも特に筋力トレーニングは筋肉が弱ったり、骨量が減ってしまったりすることを防ぐ。心がすっきりするという利点もある。
こうして食生活と運動習慣を変えることは、エストロゲンの減少によって起こる様々な症状を打ち消す助けとなる。
すべての化学療法を終えた4週間後に放射線治療が始まった。治療は16日間で、月曜から金曜まで毎日行うというスケジュールだった。勤務するクリニックで患者となって治療を受け、世界がひっくり返ったように感じた。現実のことなのに、現実でないように感じられたと言っても過言ではない。治療が終わったところで、子宮と卵巣を摘出し、維持(メンテナンス)療法に入った。
まわりに打ち明けることで楽になった
直近の6カ月は目まぐるしく過ぎ去った。自分が受け持つ患者の治療をし、子どもたちのために生き続けるのに必死の日々。乳がんは秘密にしておくつもりだったが、髪の毛が抜け落ち、仕事以外の時間をベッドで過ごすようになるなど隠しきれなくなったため、自分の体験をまわりの人たちと共有することにした。
強く、自立していることに誇りを持ち、あまり人に自分を見せることをしない人間なので、病気という非常にプライベートなことを打ち明けるのは気まずかった。しかし、いざ悩みや弱さをまわりに打ち明けてみると、病気に向き合い、体に起きている変化を理解し、イラつきや恐怖を吐き出すことができるという発見があった。私の話に耳を傾けてくれた友人や同僚もまた、それまでは聞いたことがなかった健康についての悩みを打ち明けてくれた。患者とのつながりも深まった。患者としての顔も持つ主治医に、それまで以上に信頼を置いてくれるようになった。
放射線腫瘍医として15年にわたるキャリアを築き、自分のことをがんの専門家だと思っていた。しかし、「観客」として知るうることには限りがあった。自らアリーナフロアに立ち、患者としてこのおそろしい病気と闘うことで、これまでよりも医師として有能さを携えることができた。治療で患者の人間性を見失うことはもうない。
乳がんの治療を受けた経験は人生を変えるほどのインパクトがあった。おかげでより強くなり、困難に直面しても乗り越えて回復する力を備えられた。医師という職業に改めて意義と目的を見出すこともできた。
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筆者のCatherine Sue Hwang氏は、アメリカ・フロリダ州にあるがん専門医療機関「The AdventHealth Cancer Institute」で乳がん放射線腫瘍学部門を率いている。セントラルフロリダ大学医学部の准教授(臨床放射線腫瘍学)でもある。勤務時間以外は、3人の子どもたちが所属するバスケチームの応援に駆けつける日々を送っている。自身のInstagram(@breast_cancer_360)で乳がんの体験をつづっている。
ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。