1995年1月17日午前5時46分ーー。
イスラム教徒たちが朝の礼拝の準備を始めようとした時、阪神・淡路大震災が発生した。
1日に5回の礼拝を行うイスラム教徒の、最初のお祈りは夜明け前。神戸市中央区にある「神戸ムスリムモスク」ではまさに、礼拝時間の呼びかけ「アザーン」をしようとしていたところだった。
マグニチュード7.3の地震が神戸の街を襲った。1935年に建てられた日本最古のモスクは、奇跡的に損傷を逃れ、家を失った信者たちの「避難所」となった。
震災発生後に撮影された1枚の写真には、瓦礫の中で玉ねぎ形のドームと尖塔が毅然と建つモスクの様子が写されている。
自らも被災しながら、救いを求めてモスクを訪れる信者たちに震災当日から炊き出しを行ったパキスタン出身の男性がいた。
1980年から神戸で貿易業を営み、神戸ムスリムモスクでの礼拝に長く通っていた新井アハサンさんだ。
新井さん自身もモスク近くの自宅マンションで被災しながらも、すぐにモスクに駆けつけ、同じく災害に遭った仲間たちのサポートに当たった。
ハフポスト日本版はモスクで、新井さんに当時の様子を振り返ってもらった。
礼拝直前に発生した地震。覚悟した「最期の祈り」
モスクの近くにある自宅マンションの4階にいた新井さんは、人生で経験したことがないほどの衝撃に飛び起きた。いつも早朝に起きて行う、朝の礼拝の直前の出来事だった。
冷蔵庫の扉が開いて食材が飛び出し、キッチンの食器や調理器具も部屋中に散乱した。
子ども4人を含む家族に怪我はなかったが、子どもが寝ているすぐ前の棚の上に置いていたテレビであわや犠牲者が出るところだった。
テレビのコードが天井部分と繋がっていたため、不幸中の幸いで、テレビはギリギリのところで落ちずにすんだ。「大きなブラウン管のテレビが、もし子どもの上に落ちてきていたら」と考えるとゾッとした。
朝の礼拝前に手足を水で清めようとしたら、水が出ないことに気づいた。電気もガスも止まっており「これは大変だ」と、家の中ではまだ把握できなかった被害の大きさに気づいた。
余震が繰り返し発生する中、揺れが収まったことを確認して家族全員で朝の礼拝をした。「最期のお祈りになるかもしれない」と死さえ覚悟した。
「礼拝を終えて窓の外を見ると、自宅前の木造の民家は潰れていました。痛みを訴える声や、泣き声がそこら中から聞こえました」
パキスタンでも大きな地震は経験したことがなく、被災するのも初めてだった。
神戸ムスリムモスクは震災当時で既に築60年。塔も高くモスクに被害がないかと心配になり、新井さんは様子を見にいった。
マグニチュード7.3の地震に耐えたモスク
自宅から徒歩5分ほどのモスクへ向かう途中も、倒壊したマンションや、道路の真ん中で毛布をかぶって凍える人の姿を目にした。
悲惨な光景にショックを受けながらモスクへと急ぐと、遠くからまず塔を確認することができた。
「高い塔が倒れているのでは」と心配していたため、一安心した。
鉄筋コンクリート造のモスクはマグニチュード7.3の地震の揺れにも耐え、大きな被害を受けることはなかった。神戸市中央区三宮では震度7を記録した。
当時、モスク併設の文化センターにはエジプトとフィリピン出身のモスク関係者、2家族が住んでいたが、皆無事だった。
しばらくすると、家が倒壊した信者たちがモスクに避難してきた。地震当日、子どもたちを含む30人ほどが身を寄せた。
信者は、中東・東南アジア・アフリカなど様々な地域出身の人たちで、地震があまり発生しない国から来た人もいる。来日後まだ日が浅かったり、日本語に不慣れだったりと、異国での被災に皆が動揺していた。
今でも忘れられない、炊き出しの「チキンライス」の味
新井さん自身も「これからどう生活していけばいいのか」と途方にくれる中で、避難してきた人たちに食事を用意せねばと皆で必死に動いた。
市の指定避難所では、おにぎりなどの食料が配られ始めていたが、モスクは指定避難所ではないため、自分たちで食料を確保し炊き出しをする必要があった。
壊れた椅子などの木材を使ってモスクの外で焚き火をし、ハラル食材で炊き出しをした。
当時、小学生と中学生だった新井さんの子どもたちにとっても、その時食べた炊き出しの「味」は今でも記憶に残っているという。中でも印象に残っているのが「チキンライス」だ。
「他に何もなく味付けは塩胡椒だけだったけど、鶏があったからお米と一緒にチキンライスを作りました。うちの子どもたちは今でも『あれが美味しかった』と言うほどです。食べ物がなかったから、本当に美味しかった」
その後、東京などの他地域から、次々とイスラム教徒の有志が2トントラックやハイエースで物資を運んできてくれた。
ガスの復旧に時間がかかり困っているところに、トラックで携帯用ガスコンロ30個を運んできてくれた信者もおり、新井さんは「とても助かった」と話す。
1000枚のナンをはじめとする様々なハラル食材がトラックで運ばれてきた時は「まるでハラルの店をそのまま持ってきたよう」だった。
日本の友人に助けられることもあった。水道が復旧せずに、生活用水に困っていたところ、日本人の友人が自宅の井戸水を分けてくれた。
新井さん自身、4カ月にわたってモスクでの炊き出しや避難者の生活再建サポートなどに奔走した。
地震当日からモスクには避難者だけでなく、自宅に留まる信者も礼拝に訪れていたが、先が見えない生活の中で、祈りを捧げることが被災した信者らの心を支えた。礼拝は震災当日から行われていた。
3月には、被災後の混乱の中でもラマダンの断食を行った。
「大地震」と「空襲」を生き抜いたモスク
神戸ムスリムモスクは、阪神・淡路大震災だけでなく、第二次世界大戦中の神戸大空襲も経験している。
1945年の神戸大空襲では、周辺の建物はほぼ焼失し焼け野原になったが、モスクだけは奇跡的に被害を逃れた。
神戸大空襲の被害は広く知られていないが、神戸市によると、戦災家屋は14万2586戸にのぼり、死者7524人と負傷者1万6948人が確認された。
空襲後、そして震災後のモスクの様子を写した写真は、今でもモスクの玄関近くに飾られている。
モスクは信者以外も見学することができるため、毎日来訪者がある。同モスクで2024年9月からイマーム(指導者)を務める神戸出身の藤谷勇介さんは見学客を案内するが、焼け野原や震災直後の写真を見て、質問をしてくる人も少なくないという。
2枚の写真が、モスクが乗り越えた戦禍と災害を語り継いでいる。
阪神・淡路大震災が「外国人×防災」を考えるきっかけに
阪神・淡路大震災の発生は、外国人居住者が増える日本で、在日外国人の防災について考え、様々なセクターが行動するきっかけとなった。
兵庫県では当時、日本語に不慣れな外国人が緊急速報や避難指示を理解できないまま犠牲になり、被災後も情報から取り残された。
その出来事から、日本語を勉強中の人にも理解しやすい、簡単な言い回しや言葉を使った「やさしい日本語」が考案され、今では全国各自治体の防災対策や医療現場でも導入されている。
日本には現在、358万8956人(2024年6月最新値)の外国人が住んでいて、それぞれ出身国で受けた防災教育の内容も違えば、地震が滅多に起こらない国もある。
バックグラウンドや防災に関する知識にも差があるため難しさも伴うが、神戸市をはじめとする各自治体でも、外国人と共に防災訓練を実施し、防災リーダーを育成するなど取り組みを強化している。
阪神・淡路大震災での学びは東日本大震災発生時に活かされた。自治体や報道機関による警報や避難指示も多言語化し、避難所で使う多言語指差しボードなども作成された。
阪神・淡路大震災の発生から30年。記憶の継承の難しさが浮き彫りとなる中、いつやってきてもおかしくない大地震発生時に、一人でも多くの命を救い被害を最小限に抑えるためにも、教訓を活かした防災対策が必要とされる。
(取材・文=冨田すみれ子)