スマホを手放して気づいた。デジタルで繋がり続けることの弊害と、繋がりを失うことで増す愛おしさ

希薄なデジタル上のつながりは、私たちの生活に過度な負荷をかけている。
筆者のラーソンさんとガラケー
筆者のラーソンさんとガラケー
Courtesy of Greg Larson

このところ、レトロなテクノロジーが復活しつつある。

Z世代はスマホを捨て、代わりにガラケーを選んでいる。このトレンドは、皮肉にもTikTokから始まったようだ。

昔のローテク時代を懐古する「テックノスタルジア」は携帯電話だけにとどまらない。

2023年には4300万枚以上のレコードが売れた。NBAスターのデヴィン・ブッカー選手はパリ五輪の思い出をデジタルビデオカメラで撮影し、2000年代の「デジカメ」時代の復活を楽しんだ。ソニーは2024年、かつて一世を風靡したウォークマンの新モデルを発表した。

こうしたトレンドは、心身の健康悪化につながるとされる過多なデジタル摂取に対する集団的な反発からきている。私たちはデジタルの世界でつながればつながるほど、現実世界では切り離されているように感じているようだ。

常にオンライン生活をおくることにより、別の代償も生まれている。あらゆる人間関係や経験が記録され、永久に保存される環境を作り出してしまったのだ。

人間関係を失うのは、人生にとって必要で良いことでもある。ずっとつながっていると、その良さを経験することはできない。

7年前、私はラスベガスのホステルで陽気なイタリア人男性と会った。2回ほど言葉を交わし、Instagramを交換した。私たちはお互いをフォローしているため、彼の今のランニングの予定や恋人の名前、バリ旅行で最後に食べたものまで知っている。LinkedInで調べれば、元カノの今の職場も分かる。チャットアプリには、ベルリンのディスコで一緒に一度だけ踊った女性との会話が途切れたまま残っている。

彼らに会うことは2度とないだろう。しかし、この微かな「デジタル関係」が、彼らを完全に失うことを阻止している。こうした希薄なつながりは、私たちの生活に過度な負荷をかけている。

希薄な関係、溜め込みすぎてない?

人類学者ロビン・ダンバー氏の霊長類の大脳新皮質の大きさに関する研究は、この現象について幾つかの洞察を与えてくれる。

彼の研究によれば、人間の脳は意味のある150ほどの人間関係しか管理できないようだ。つまり、私たちの神経構造はテクノロジーが可能にした多くの関係を管理する能力を備えていないであろう、ということだ。

もちろん、すべてのデジタルのつながりを否定しているわけではない。インターネットのおかげで、甥が日本に引っ越してもビデオ通話することができたし、ノルウェーを訪れたときはFacebookのおかげでオスロに住む昔の友人に再会することができた。でもこうしたデジタルな交流は、現実の絆があるからこそだ。

私が指摘しているのは、デジタル版の「溜め込み」のことだ。カメラで撮った瞬間や2度と会わない人とのつながりを溜め込んでいる。

日本には「もののあはれ」という概念がある。外界の事物に触れて感じるしみじみとした情緒や感動のことを指す。物事は留まることをしないという無常感と密接に関係しているとも言われている。常に変わっていくからこそ、儚さを知り、今その美しさに意味が生じる、というのだ。

2024年にスマホからガラケーに乗り換えてから、私はこの考えに共鳴するようになった。iPhoneにはもう耐えられなかった。YouTubeに何時間も費やし、本をほとんど読まなくなった。それに、最も重要なこととして、スマホなど何のためにも必要なかった。

一部の友人とは違い、スマホでアパートの鍵を開けたり、ライドシェアを呼んだり、子どもの居場所を追跡したりしない。(私は独身で子なしだ)

だから、友人や家族の心配に反して、私はグレーの折りたたみ式のガラケーを約35ドル(約5500円)で購入した。予想通り、慣れるまでは変な感じだった。

1日中、何か思いつくたびに調べたくなる衝動に駆られた。「2001年のシアトル・マリナーズの指名打者を今すぐ知りたい!」と思いガラケーを取り出すも、スペルミスなしに「Seattle」と入力するのもやっとだと気づく。

面白い看板を見て、友人に写真を送りたいと思っても、自分のガラケーでは白黒の粗い写真しか撮れないことを思い出す。

新しい場所を運転しながら、いつもナビしてくれていたGPSがないことに気づいたこともあった。

でもこのような挑戦は、私が望んでいた通りの変化をもたらしてくれた。

なんでも衝動的にgoogleで検索する代わりに、友人と私は想像力だけを使って答えを逆分析しようとする。写真を送る代わりに、電話でそのストーリーを話す。街の地図もほぼ頭の中に入ったし、読書も再開した。気まずい社交の場でも、スマホを見るフリをして隠れたりしない。

ネットで人とつながることも減った。結果、電話が嫌いな一部の友人たちとは疎遠になった。写真もあまり撮らない。しっかり記憶に収めるか、そのまま消えていくかだ。

ガラケーを置き忘れることもある。なんてレトロだろうーー。

失うことの「良さ」

折りたたみケータイに変えてから私が「失った」ものは、「もののあはれ」のように私の経験に深みを与えてくれた。明確な「終わり」が、想像する能力を私に取り戻してくれた。

連絡を絶った友人たちが、どこに住んでるのかを考えたり、もはやカメラに収めなくなった瞬間を記憶に残すために、今のその瞬間に集中したりすることができる。

これまで以上に、私は「情報」と「空想」の狭間を楽しんでいる。残念ながら、この空間は過度に繋がっている今の世界で縮小している。公園やバーで誰かに出会えば、数分以内にその人の恋人の有無や友人関係、さらにはペットの名前まで分かってしまうだろう。

こうした情報の氾濫は、私たちから想像したり謎に思ったり、そしてロマンスを感じたりする能力を奪ってしまう。

科学者の中には、偏在する情報を「環境汚染物質」だと非難する人もいる。意思決定への障害、仕事への満足度低下、社会活動の減少など、世界的な代償は1兆ドル(約158兆円)を超えると考えられている。

絶え間なく飛び交う過多な情報に抵抗することは、私たちが持つ対応能力では難しいということだ。

もしかしたら、決意を完全に手放す方がラクなのかもしれない。私のガラケーに人々が魅了されるのはきっとそのためだろう。

会話はだいたいいつもこうだ。

「どこで買ったの?」

「ウォルマート(量販店)だよ」

彼らは画面をタップしようとする。

「そうやっては使えないんです」と優しく伝える。

すると、驚くような反応が返ってくる。

「羨ましい。ガラケーに戻りたい」

羨ましがる必要はない。私たちの多くは、自分で思うほどスマホを必要としていない。

もちろん、ガラケーに乗り換えるのは容易ではない。もしiPhoneを引退させようとすれば、iPhoneは奇妙にも命の危険を察知する能力があるかのように、あなたに抵抗してくる。「私なしで、どうやってレストランのQRコードをスキャンするの?」「英語勉強アプリをせっかく続けてるのにどうするの?」「バスの中での気まずい時間をどうやって過ごすつもり?」

こうした不安の中には真実が隠れている。ガラケーに変えると、さまざまな”モノ”を失う。でも、それこそが重要なポイントなのだ。「もののあはれ」だ。

情報の氾濫から離れると、生活のリズムも変わってくる。立ち止まる時間が増え、これまでとこれからの道を振り返っている自分に気づくだろう。できれば、みんなは私のようにノートパソコンでYouTube動画を見過ぎないことを願う。

筆者のガラケー
筆者のガラケー
Courtesy of Greg Larson

更なる挑戦へ

この経験から、私はこの実験をさらにレベルアップすることにした。私は1年間、完全にオフラインで過ごし、それについて本を書く準備をしている。その時間を使って、慢性的なオンライン生活で衰退した手書き文字や社会的スキルを強化するつもりだ。怖いけど、楽しみでもある。

私は技術革新に反対するラッダイトではない。ただ、情報に汚染され過度につながったこの世界では、つながりを断つことが究極の贅沢だと気づいただけだ。

ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。

筆者のグレッグ・ラーソン氏はフリーランスのテック・ジャーナリストで作家。1年間のデジタル・デトックスをするため現在準備中で、その間はオフラインになり経験を本にする予定。

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