アメリカで黒人として生きてきたが、イギリス移住を決めた。新天地にも人種差別や不平等はあるが、1つ大きな違いがある【第2次トランプ政権】

アメリカを離れる決意につながった要因を1つに絞ることはできない。

2024年11月6日、午前4時。アメリカ・シアトル州にある自宅の寝室で妻とアメリカ大統領選挙の開票を見守っていた。結果が見えてくるにつれ、私たち夫婦の間である考えが明確になった。アメリカ社会の成り行きを目の当たりにする中で、国外への移住について数カ月にわたって熟考していたところだった。

大統領選の行方を見守っていたあの瞬間、数年にわたって実際にこの目で見てきたことや自分自身の体験も去来し、寝室に重い空気がたれこめた。もはや「この国を出たとしたら…」という仮定の話をする段階ではなく、実行に移す時が来たと感じた。

テキサス州リッチモンドで育った私は、祖父からは「奇妙な黒人」と呼ばれていた。その呼び名の裏にはアメリカ社会における黒人の立ち位置の複雑さがあるということを、幼い時期から理解していた。X-Menの漫画を読み、黒人以外の人種の人と付き合い、話し方も「礼儀正しすぎる」ということで、15歳にして「裏切り者」のレッテルを貼られた。

若いころから「黒人らしさが足りない」と見られる世界と「黒人すぎる」と見られる世界とを行き来して暮らしてきたため、複雑な人種的多様性をうまく生き抜けるように鍛えられていた。そのおかげで、南部テキサスの小さな町から西海岸にあるシアトルの大学の多様性責任者になるのに必要となる術を身につけることができた。

選挙集会で演説する筆者
Photo courtesy of Dr. Corey Clay
選挙集会で演説する筆者

アメリカを離れる決意につながった要因を1つに絞ることはできない。これまでの人生を通して経験してきたことの蓄積によるものだ。

かつて陸軍に所属していた人間として、忠誠、義務、尊敬、無私の奉仕、名誉、誠実さ、個人の勇気という軍が価値を置くものを心から信じていた。しかし、この国は掲げた理想を幾度となく打ち破ってきた。

ジョージア州フォート・ベニングで、訓練教官がランニング中に人種差別的な言葉をリズムにのせて歌っていた記憶が今でも頭にこびりついている。

つい昨年にも、ポートランド中心部のホテルにチェックインしようとした際、お金を無心していたホームレスが私に人種差別を意味する侮蔑の言葉を投げつけてきたことがあった。どんなに教育を受けても、どんなに立派な仕事に就いても、アメリカという国に根深く織り込まれた人種差別から完全に自分を守ることはできないと改めて痛感した。ある一定の人々にとって、私はどこまでいっても「黒人」以外の何者でもないのだ。

11月半ばの時点で、妻とともにイギリスの大学院プログラムなどに合格することができた。多くの大学ではすでに募集が終わっていたものの、私が願書を出した産業・心理学の博士課程と、妻の保健医療専門職の資格のプログラムは門戸を開いてくれた。新たに生活の基盤を築くには柔軟性のあるビザがいいと考え、学生ビザを取得した。

引っ越しには難儀した。特に愛犬のスコティッシュ・テリアの「ロスコ」の国際輸送の手続きは大変だった。シアトルの住宅市場の動向を観察し、資産を売却したのだが、国外に永住するのに十分な資金を確保できたのは幸運だと思う。

私たち夫婦が自分たちの運命を左右できるということには、紛れもなく特権的な面がある。私のことを「奇妙」だと呼んだ祖父には想像もできなかった選択肢だと思う。

アメリカの大学などでDEI(多様性や公平性、包括性)の取り組みへに反対が高まっていることだけでも十分説得力があるが、この取り組みを下支えするための根本的な仕組みがないということも同じぐらい懸念される。

私自身は旅立ちにあたり支援を得られたが、大学などにおけるDEIは悩ましい状況にある。DEIには論理的な土台が十分になく、多くの研究機関があるわけでもない。多くの論文がある確立した学術分野とは異なり、DEIの取り組みは実践例が乏しいことがしばしばある。

私がこの分野で成果をあげられている理由は、産業・組織心理学とDEIの原理を意図的に結びつけ、包括性(インクルージョン)について測定結果とデータに基づくアプローチができているからだ。 公平性 (エクイティー)の取り組みに方法論を組み合わせることは目新しいものではなく、標準的なものであるべきだ。しかしながら、大学などでのDEIの取り組みにはこのような基礎的なことが欠けており、素晴らしい志はあるものの結局、効果のないプログラムになり、後々にまで及ぶ変化を生み出せていない。

ジョージ・メイソン大学、バージニア・コモンウェルス大学、ワイオミング大学などを見ても、それらの取り組みがいかにたやすく崩されてしまったかわかるだろう。ゴミくずのように、いとも簡単に放り投げられてしまうのだ。

高等教育機関における多様化を進めるべく奮闘してきた身からすると、公平性への取り組みが組織的に崩されていっていることに危機感を強めている。外部からの政治的圧力に教育機関内部の機能不全が相まって、最悪の状況を作り出している。立法を担う政治家が市民権の保護を弱体化させ、差別禁止法を弱めるような政策を作るとなると、不吉な予感はもう無視できない。立ち直る時は来たのだ。

太平洋岸北西部は自然の美しさと先進性を売りにしているが、アメリカにおける自由主義の限界を感じさせる場所でもある。シアトルに住む黒人として思うのは、一定の場所では黒人をほとんど見かけないため、独特の孤立感を味わうことになる。

職場で「過剰な注目」を浴びることは、そこで最も目立つ人間であると同時に最も見過ごされる存在でもあるということだ。自己を見失わないよう軸を持ちつつ、他人からどう見られているかを常に気にしながら生きるという心理的な負担を強いられるのだ。人種的正義を求める取り組みを放棄するのではない。生き残るためには、そもそも息をするために立ち上がることができる土台を見つける必要があることに気づくことなのだ。

奴隷制度とその現代的な現れは、アメリカにいまだ解けない歴史的な疑義という重い空気を漂わせている。最近の調査によると、黒人の大卒者は高校中退の白人よりも裕福度で劣るという結果が出ている。黒人のアメリカ人の平均寿命は、白人よりも6年短い。これらのことが示すのは、個人がどんなに努力をして偉業を成し遂げたとしてもいかんともしがたい社会全体に組み込まれた不平等が存在しているということだ。

イギリスに向けてアメリカを離れる日を、期待と身の引き締まる思いがないまぜになった気持ちで待っている。その翌日にはロンドンで誕生日を祝うことになるのだが、個人的な意味合い以上のものがある。自分たちの未来をどうしていくかを、自分たちで意図的に決めていくことを意味しているのだ。アメリカから逃げるのではない。よりよい何かを求めて走り出すのだ。

イギリスも人種差別や不平等という課題を抱えている。しかし、私たち夫婦にとっては大きな違いがある。同じ課題に直面するのでも、闘いを押し付けられるのと、自ら選んで挑むのは同じではない。

同じような選択肢を検討中の人たちに伝えたい。移住には巨額の資金と感情的な強靭さ、それに心構えが求められる。実際に乗り越えねばならないことは多い。移住先での仕事を確保し、必要なビザを取得し、海外への引っ越しをやり遂げなければならない。しかし、アメリカに留まるにしても、費用的に難しさが増していると感じる人たちが出てきている。

制度化された人種差別とトラウマについて広範にわたって研究してきた黒人の学者として、自分を守ろうとする本能的な「自己保存」が、どこか別の場所で繁栄するための決断という形で現れることがあるという結論に達した。アメリカにおける人種差別を乗り越えるには、過度に警戒した状態が絶え間なく続くこと、(マイノリティを)代表することの重荷、見える存在と見えない存在の間を行き来することによる疲弊という心理的負担が伴い、無視できないほど高い代償が求められる。

黒人としてアメリカで暮らすには、独特の意識が求められる。祖父が昔、私の中に見出していたものだ。おそらく独特の意識を持った黒人であるというのは、平和と繁栄を求め、先祖から受け継いできた知恵を携えつつも新たな道を切り開いていくためにアメリカを離れる勇気を持ち合わせていることを意味する。

弱体化することを望む場所にとどまることにノーを突きつけるのは、断固とした抵抗の手段だと認識しながら、新生活に向けて準備をしているところだ。

私たち夫婦の物語は唯一無二というわけではない。アメリカで黒人の専門家が直面する根強い困難と、新たな道を選択する可能性と、その両方が存在することの証しだ。新たな暮らしに向け、痛みや回復する力、単に生きる残るのではなく真に繁栄できるチャンスがどこかにあるのではないかという願いというアメリカでの複雑な経験もバッグに詰め込んでいるところだ。

ハフポストUS版を翻訳しました。