【演説全文】日本被団協・田中熙巳さん「日本政府は、原爆で亡くなった死者への償いせず」 ノーベル平和賞授賞式

日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞授賞式が12月10日、ノルウェー・オスロで開かれました。 代表委員の田中熙巳さんの演説全文を掲載します。
ノルウェーのオスロ市庁舎で行われたノーベル平和賞授賞式でスピーチをする日本被団協の田中熙巳さん(2024年12月10日)
ノルウェーのオスロ市庁舎で行われたノーベル平和賞授賞式でスピーチをする日本被団協の田中熙巳さん(2024年12月10日)
HEIKO JUNGE via Getty Images

核兵器廃絶を世界に訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞授賞式が12月10日、ノルウェー・オスロで開かれました。

日本被団協の代表委員で、13歳の時に長崎で被爆した田中熙巳(てるみ)さんの演説全文を掲載します。

【スピーチ全文】

国王・王妃両陛下、皇太子・皇太子妃両殿下、ノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、ご列席のみなさん、核兵器廃絶を目指して闘う世界の友人のみなさん、ただいま紹介いただきました日本被団協の代表委員の一人の田中熙巳(てるみ)でございます。本日は受賞者「日本被団協」を代表してあいさつをする機会を頂きありがとうございます。

私たちは1956年8月に「原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)を結成しました。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害を再び繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してまいりました。

一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという私たちの運動。二つ目は、核兵器は極めて非人道的な殺戮兵器であり、人類とは共存させてはならない、速やかに廃絶しなければならない、という運動であります。

この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。しかし今日、依然として1万2000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発近くの核弾頭が即座に発射可能に配備がされています。その中で、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、またパレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗に攻撃を加える中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚えます。

私は長崎原爆の被爆者の一人です。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆しました。1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとまもなく、真っ白な光で体が包まれました。その光に驚愕し2階から階下に駆け降りました。目と耳を塞いで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けていきました。その後の記憶はなく、気がついた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。しかしガラスが一枚も割れていなかったことは奇跡というほかありません。そのおかげで、ほぼ無傷で助かりました。

長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の家族の安否を尋ねるために訪れた時です。私と母は小高い山を迂回し、峠に辿り着き、眼下を見下ろして愕然としました。3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃虚が広がっていました。れんが造りの東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、見る影もありませんでした。

ふもとに下りていく道筋の家は全て焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらなお生きている人々が、誰からの救援もなく放置されていました。私はほとんど無感動になり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでした。

一人の伯母は爆心地から400メートルの自宅の焼け跡に、大学生の孫とともに黒焦げの死体で転がっていました。もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。祖父は全身大やけどで瀕死の状態でしゃがみこんでいました。伯母は大やけどで、私たちが到着する直前に亡くなり、私たちの手で野原で荼毘(だび)にふしました。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほど苦しみ亡くなったそうです。一発の原子爆弾は、私の身内5人を無残な姿に変え、一挙に命を奪いました。

その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当ても受けることなく、苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけないと、私はその時強く感じました。

長崎原爆は上空600メートルで爆発。放出したエネルギーの50%は衝撃波として家屋を押しつぶし、35%は熱線として屋外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋のいたるところに火をつけました。多くの人が家屋に押しつぶされたまま焼き殺されました。残りの15%は中性子線やガンマ線などの放射線として人体を貫き内部から破壊し、死に至らせ、また原爆症の原因を作りました。

その年の末までの広島、長崎両市の死亡者の数は、広島が14万人前後、長崎が7万人前後とされています。原爆で被爆しけがを負い、放射線に被曝し生存していた人々は40万人余りとされます。

生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられました。さらに日本政府からも見放されました。被爆後の10年間、孤独と病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けざるを得ませんでした。

1954年3月1日、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が死の灰に被曝し、大きな事件になりました。中でも第五福竜丸の乗組員23人全員が被曝し、急性放射線症を発症し、捕獲したマグロは全て投棄されました。

この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が始まり、燎原(りょうげん)の火のように日本中に広がったのです。3000万を超える署名が結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年の1956年第2回世界大会が長崎で開かれました。

この運動に励まされて、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日、「日本原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)が結成されたのです。結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明したのであります。「核兵器の廃絶」と「原爆被害に対する国の補償」を求めて運動に立ち上がったのです。

運動の結果、1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」が制定されます。しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するという簡単なものでありました。さらにもう一つ、厚生大臣が原爆症と認定した疾病にかかった場合にのみ、その医療費を支給するというものでした。1968年になり、「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」が制定され、数種類の手当を給付するということで、経済的な援助を行いました。しかしそれは社会保障制度であって、国家補償は頑なに拒まれたのであります。

1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。この調査で、原爆被害は命、体、心、暮らしにわたる被害であることを明らかにしました。命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態が明らかになりました。この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなりました。自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くしました。

1994年12月、この二つの法律を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されました。しかし、何十万人という死者に対する補償は全くなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けています。もう一度繰り返します。原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたいと思います。

これらの法律は長い間、国籍に関わらず海外在住の原爆被爆者に対し、適応されていませんでしたが、日本で被爆し母国に帰った韓国の被爆者や、戦後アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダなどに移住した多くの被爆者は、被爆者特有の病気を抱えながら原爆被害への無理解に苦しみました。

それぞれの国で結成された原爆被害者の会と私たちは連帯し、裁判などの活動を通して国に訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになりました。

私たちは核兵器の速やか廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を強めてまいりました。

1977年、国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが日本で開催されました。原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。この頃、ヨーロッパで核戦争の危機が高まり、各国で数十万人の大集会が開かれました。これらの集会で証言をするよう、日本被団協への依頼が続きました。

1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加し、総会議場での演説のほか、証言活動を展開しました。核兵器不拡散条約の再検討会議とその準備委員会で、日本被団協代表は発言機会を確保し、併せて再検討会議の期間中に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。

2012年、NPT再検討会議準備委員会で、ノルウェー政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受け止められ、「核兵器禁止条約」交渉会議に発展しました。

2016年4月、日本被団協が提案し、世界の原爆被害者が呼びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出しました。その結果でもありますが、2017年7月7日に122カ国の賛同を得て、「核兵器禁止条約」が制定されたのであります。これは私たちにとって大変大きな喜びでした。

さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけない、というのが原爆被害者の心からの願いです。

想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということを。みなさんがいつ被害者になってもおかしくない、あるいは加害者になるかもしれない、という状況がございます。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです。

原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には、直接の被爆体験者として証言できるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが工夫して築いていくことを期待しています。

一つ大きな参考になることがあります。それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきたNPO法人「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の存在です。

この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存・管理してきました。これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待します。私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。国内にとどまらず、国際的な活動を大きく展開してくださることを強く願っています。

世界中のみなさん、「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の締結を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験者の証言の場を各国で開いてください。とりわけ核兵器国とそれらの同盟国の市民の中に、しっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付くこと、自国の政府の核政策を変えさせる力になること、それを私たちは願っています。

人類が核兵器で自滅することのないように。

そして核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう。

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