国際法を踏みにじる国家の暴走を国際社会が阻止できず、罪なき人々の命が奪われ続けている。
ジェノサイドを止められない国連の「機能不全」を、どう捉えたら良いのか。日本は、国際社会でどのような立ち位置を目指すべきか。
ジェノサイドの予防や人道問題を研究し、「入門 人間の安全保障」(中公新書)などの著書がある長有紀枝さん(立教大学大学院社会デザイン研究科教授)と考えた。
「不完全でも不可欠」な国連
━11月の国連安全保障理事会で、スーダン内戦の停戦決議案に対してロシアが、ガザでの停戦決議案に対してアメリカがそれぞれ拒否権を行使し、いずれも否決されました。常任理事国による度重なる拒否権の発動で、国連の機能不全があらわになっています。
国際社会が今まで積み残してきたいろんなツケが、ここに来て露呈しているように思います。
現在の国際連合の仕組みは、第二次世界大戦が終わった当時、世界を構築し直そうとする時代のものとしては良かったのです。
しかし現在のような、国連の目的である「国際の平和及び安全の維持」に主要な責任を持ち、だからこそ安保理で拒否権という特権を持つ常任理事国のメンバー自身が、その「国際の平和」や国際秩序を揺るがすという事態は想定されていませんでした。
国連は、常任理事国の5カ国(米・ロ・英・仏・中=P5)とは無関係の国が行う侵略行為にしか強制行動がとれない。そこに構造上の最大の欠陥があるといえますが、安保理やP5の権限は、国連の憲法に当たる国連憲章に明記されています。
したがって、その権限を変えるためには、国連憲章そのものを変えねばなりませんが、そのためには、国連総会の3分の2の賛成とP5全ての国の同意が必要になる。このこともまた、憲章に明記されています。
P5の特権を維持するためには、都合がよい、というか、完璧に整えられたシステムなので、国連憲章の手続きに則って変えることはほとんど不可能で、現実的ではありません。
では、どうするのか。第三次世界大戦が起きるのを待って、「ガラガラポン」と再びゼロから全く新しい仕組みを作るのか。しかしそんな事態になれば、新たな国際機構どころか、世界の、あるいは地球の終わりを意味することになってしまうかもしれません。
日本初の国連職員で、国連事務次長を務めた明石康さんは、「欠陥のある国連を、構造的な限界の中で上手く使うこと、つまり『不完全であるが、現代の国際社会にとって不可欠な存在』としての国連という視点を見失ってはいけない」と過去に発言されています。
明石さんの言葉の通り、今ある国連の仕組みにどれほど構造的な欠陥があっても、私たちはその不完全さと不可欠さを認識した上で、国際法という国際社会のルールを徹底しながら、粘り強く知恵を絞って使っていく他ないのだと思います。
少なくとも、ロシアはもちろんのこと北朝鮮もイスラエルも今のところ、国連から脱退する意思は見せていません。193の国が一堂に会して議論する場はかろうじて残っている。それを私たちがどう捉えるか?国連に代わる安全保障上の機構は他に存在しないのです。
━国際刑事裁判所(ICC)は、イスラエルのネタニヤフ首相とガラント前国防相、ハマスの軍事部門トップであるデイフ氏の3人に、戦争犯罪や人道に対する犯罪の疑いで逮捕状を出しました。これに対し、ICCの決定を尊重すると表明する国がある一方で、フランスが逮捕に協力しない姿勢を示すなど、ICC加盟国の足並みは揃っていません。
イスラエルとハマスの双方に対して逮捕状を出したところに、ICCの矜持を感じました。ICCは、ジェノサイド罪、人道に対する犯罪、戦争犯罪、侵略犯罪という、国際社会全体の関心事である4つの重大犯罪を犯した「個人」を訴追し、処罰する裁判所です。ICCは、これらの重大犯罪に責任のあるものは何ぴとたりとも許さないのだ、という強い姿勢を明確に示しました。
ただ一方で逮捕状を出したことで、かえってICCの実効性を揺るがす結果になったのではないか、という指摘もあります。被疑者の逮捕を実際に行うのは加盟国ですが、逮捕状が出ても、加盟国がそれに従わなければ、ICCの信頼性や権威を下げることにつながるからです。
逮捕状が出ているロシアのプーチン大統領が9月にICC加盟国のモンゴルを訪問した際、モンゴルはプーチン氏を逮捕しませんでした。モンゴルはロシアと長い国境を接し、エネルギー面ではほぼ完全に依存している特殊な二国間関係のある国です。とはいえ「逮捕状が出ても、結局は逮捕し、責任を追及することはできないんだ」という現実を、国際社会に見せつけてしまった。
同じことはイスラエルに関しても言えます。ICCの加盟国であっても、「絶対的な友好国」だったり、特殊な関係がある加盟国が協力を拒否するようなら、それはICCの権威低下を招くことになる。
そうだとしても、ICCが一切の政治的な側面を遮断して下した今回の決定は、独立した国際裁判所として本来の立場を貫いたものだと私は考えています。
「人間の安全保障」を貫くことが、日本の強みに
━日本政府はネタニヤフ氏ら3者に逮捕状が出されたことに対し、「捜査の進展を重大な関心を持って引き続き注視する」と述べるにとどめました。日本政府のこの姿勢をどのように見ていますか。また日本は今後、人道危機や他国の戦争犯罪に対する態度を含め、国際社会でどのような立ち位置を目指すべきでしょうか。
日本はICCへの最大の資金拠出国であると同時に、現在は赤根智子判事を所長として輩出している、特別な地位にあります。「引き続き注視する」という態度で良いのか?ということが問われています。
アメリカはICCに参加しておらず、ICCがイスラエルのネタニヤフ首相らに逮捕状を出したことに激しく反発しています。米下院ですでにICC制裁法案を可決するなど、ICCに対し経済制裁を科す動きを本格化させています。
赤根所長は朝日新聞のインタビュー(2024年12月12日配信)にこたえ、現段階でどのような制裁になるかは不明としつつも、制裁対象が一部の職員のみならず、所長はじめ複数の検察官、裁判官、あるいはICCそのものにまで広がる懸念を示しています。そうなると、米国に加え欧州の銀行もICCと取引停止になる可能性もあり、職員への給与も払えずICCの活動は実質的に機能停止に追い込まれることを危惧しています。
そのような事態になれば、私たちがガザやウクライナ、そしてアフリカの諸国でも目撃した深刻な国際人道法違反を止め、犯罪者を処罰するすべもなくなります。ドイツは日本に次いで第2位のICCへの資金拠出国ですが、過去の歴史からイスラエルに対しては米国同様の態度をとっています。
その意味では、大袈裟に聞こえるかもしれませんが、日本は国際社会が長年積み上げてきた規範を守る「砦」といえます。同盟国・米国からそれなりの圧力がかかることも予想されますが、そうした動きがあったとしても、米国とは一線を画した態度をとり、国際規範の砦としての日本の立場を貫くために、日本政府にとって最大の庇護者は私たち国民です。
日本政府のICC支援の方針を後押しすることが、日本政府がICCの最大拠出国として、その役割を果たす何よりの支援になり、ひいてはそれが、ガザやウクライナをはじめ、言語を絶する人道法違反、戦争犯罪にさらされている人たちへの連帯を示すことにもつながるのではないでしょうか。
私は、こうした立場を貫き、国際社会における日本のこれからの立ち位置を考える時、「人間の安全保障」(※)という概念がキーワードになると考えています。
(※)人間の安全保障(human security)・・・国連開発計画(UNDP)が1994年の「人間開発報告書」の中で提唱した。国家ではなく、一人ひとりの人間を対象とした概念で、紛争や暴力、飢餓や貧困からの自由を目指す。日本人初の国連難民高等弁務官だった故・緒方貞子さんは、「人びと一人ひとりに焦点を当て、その安全を最優先するとともに、人びと自らが安全と発展を推進することを重視する考え方」と説明している。
日本政府は1998年以降、「人間の安全保障」という考え方を外交の柱の一つに位置付け、途上国向けの援助政策の中で重視するとともに、首脳会議や国際的な演説の場でも繰り返し言及してきました。
日本は、外交の枠組みでこの概念を積極的に取り上げた国の一つです。「人間の安全保障」というキーワードは様々な批判に晒されつつも、日本を含む推進国の取り組みを背景に、国際社会で規範的な概念として普及してきた歴史もあります。
ICCの決定に対する態度を含め、日本があらゆる外交の場で「私たちは『人間の安全保障』を最重要の目標に掲げます」という姿勢を貫くのであれば、例え一部の国から冷ややかな扱いを受けたとしても、新興国・途上国のグローバルサウスを始めとした多くの国からは信頼と理解を得られるはずです。そうした一貫したメッセージを国際社会に発信することは、日本の強みになります。
ただそのためには、援助や外交政策のみならず、子どもの貧困対策など、あらゆる国内の政策においても「人間の安全保障」を打ち出して、「人権」や「人道」の重視を前面に出していくことが重要ではないかと思います。
━「人間の安全保障」を打ち出していくときに、現在の難民受け入れに対する日本の消極姿勢のままでは、説得力に欠けます。日本は今後、難民の受け入れをどう広げていくべきでしょうか。
ロシアによる軍事侵攻からまもなく、日本政府はウクライナから避難してきた人々の受け入れを表明しました。40年ほど前になりますが、過去に日本は、ベトナム、ラオス、カンボジア三国から逃れてきたインドシナ難民も、人道的な判断で受け入れました。こうした前例は素晴らしいことだと思います。
とはいえ、島国日本には、パスポートを持ち、かつ飛行機代を捻出できる人しか辿り着けない現実があります。やっとのことで辿り着いた難民申請者の支援の拡充とともに、より多くの難民を受け入れるために、日本は第三国定住(※)の制度をもっと生かし、対象を広げるべきと考えます。
(※)第三国定住・・・難民キャンプなどで一時的な庇護を受けた難民を、当初庇護を求めた国から新たに受け入れに合意した第三国へ移動させること。難民は移動先の第三国で、庇護や長期的な滞在許可を与えられる。
難民の受け入れを拡充する際に、特に大事なことは、政府が理由や立場を明確にし、国民に説明した上で理解を求めることだと思います。「日本はエネルギーや食糧をはじめ、様々な物資を輸入に頼っている。こうした現実がある一方で、モノは入れるがヒトは入れない、という理屈は通らない。難民受け入れについても国際社会の一員として、応分の責務を果たすことが求められている」というような。
とはいえ、いきなり身の丈を超えた大量の難民受け入れは、現実的ではないと思います。この話を私はよくマラソンに例えるのですが、普段運動を全くしない人が突然フルマラソンを走るのは難しいですよね。でも軽いジョギングから始めて少しずつ距離を伸ばし、42.195キロの完走を目指すことはできます。
難民の受け入れも同じように、最初は少ない人数から始め、しかし徐々に、確実に増やしていく。方向性を示し、目標を掲げつつも、小さな一歩から始めれば、理解も得やすいはずです。
「人道的な視点に立った政治判断」の前例はある
━イスラエルに武器を供給している国や企業に対し、国際社会からは批判の声が上がっています。日本も無関係ではなく、防衛省はイスラエル製のドローンの輸入を検討しています。
私の専門外なので発言は控えたいのですが、一般的にこれは防衛省ではなく、政治の側の問題だと私は捉えています。シビリアンコントロール(文民統制)は、民主主義国家の基本です。
私は、防衛省のしかるべき立場の方々が、過去の戦争の大きすぎる教訓から国際人道法を徹底して守るべきという立場にいることも知っています。こうした局面で、道義的な観点や人道上の視点を一切持ち出さない日本政府の姿勢こそが問われるべきだと考えます。
人道上の視点に立って政治的な決断をした前例が、日本にもあります。
1997年9月、ノルウェーのオスロで開催中の対人地雷禁止条約の起草会議で条約案が採択された後の記者会見で、当時の小渕恵三外相は「カンボジアの地雷除去に協力する一方で、条約は認めないというのは、筋が通らない。世界の大きな趨勢(すうせい)を踏まえてやるべきことはやらなければならない」と述べ、条約に参加しないという政府方針に異を唱えました。
小渕さんのこの発言は、一部で「失言」と批判もされましたが、条約加入に消極的だった流れを一変させました。そして日本は同年12月、条約に署名しています。
アメリカが加入していないことから、この日本政府の判断はアメリカの公人たちからも衝撃を持って受け止められました。日本の政治家が、そうした道義的な決断をした時代もあったのです。
小渕さんは、日本がカンボジアの地雷をなんとかしようと支援している一方で地雷を廃絶しないのはおかしいという、極めて素朴な問題意識から、真っ当な判断をされたと思います。
対人地雷と、ドローンやその他の兵器、ICCに対する立場、あるいは難民受け入れを単純に比較することも、全てを同列に語ることももちろんできませんし、すべきでもありません。しかし、日本にも人道上の観点から政治的判断をした過去があることを、私たちは今こそ思い起こす時ではないかと思います。
▽長有紀枝(おさ・ゆきえ)
立教大学大学院社会デザイン研究科・社会学部教授。認定NPO法人「難民を助ける会」(AAR Japan)会長。研究者および実務家として、ジェノサイド予防や人道問題、紛争地の緊急人道支援、地雷対策などに携わる。著書に「スレブレニツァ あるジェノサイドをめぐる考察」(東信堂)、「入門 人間の安全保障」(中央公論新社)など。
【取材・執筆=國﨑万智(@machiruda0702.bsky.social)】