「自分の体は自分のもの」という当たり前が直面する危機。アメリカ大統領選で変わる女性の権利の行方

アメリカ大統領選は、女性の権利の行方にどんな影響があるのか。『SNSフェミニズム―現代アメリカの最前線』の著者で、アメリカのフェミニズム運動に詳しい井口裕紀子さんに話を聞きました。

アメリカ大統領選が11月5日に迫り、民主党のカマラ・ハリス副大統領と共和党のドナルド・トランプ前大統領が相手候補への攻撃を強めています。選挙の争点の一つとして注目されているのが、中絶の権利です。

女性候補であるハリス氏と、女性蔑視の発言を繰り返すトランプ氏のどちらが勝者になるかで、女性の権利の行方にどんな影響があるのか。『SNSフェミニズム―現代アメリカの最前線』の著者で、アメリカのフェミニズム運動に詳しい井口裕紀子さんに話を聞きました。

◇     ◇     ◇

――中絶の権利は、アメリカ社会にどのような影響を与えているのでしょうか。

米連邦最高裁判所が2022年に、中絶は憲法で認められた権利と保障していた「ロー対ウェイド判決」を覆した後、現在20以上の州で、中絶が完全に禁止もしくは厳しく制限されています。

中絶を受けられない州では、女性たちが身体的そして経済的な負担を負うようになっています。

そういった州に暮らす女性たちは、性暴力などによる望まない妊娠や、母体の生命に関わるような妊娠でも中絶が受けられません。

中絶するには、中絶が合法な州に移動しなければなりませんが、アメリカは国土が広く、州間の移動にはかなりの時間がかかるため、途中で命を落とす女性もいます。

また、費用を払えずに、自分の体に危険がある状態にも関わらず中絶を断念しなければならない女性もいます。

中絶禁止の州は合法な州に比べて最低賃金が低く、医療保険などの福利厚生が充実していないこともわかっています。さらに、そういった低賃金の仕事で働いている人の多くが、黒人など有色人種です。

社会的に立場の弱い女性たちが、家計を支えるための経済的な負担を背負いつつ、必要な医療を受けられずに生活や人生が脅かされている状況です。

――なぜ女性たちの生命や権利に関わる問題にも関わらず、中絶が禁止される事態になっているのでしょうか。

中絶の権利をめぐる議論はこれまでずっと、禁止派の「プロライフ」と擁護派の「プロチョイス」の間で、激しい論争が繰り広げられてきました。

背景にあるのは、宗教と政治、法律の3つが複雑に絡みあっている状態です。

キリスト教は胎児を殺すことを禁じているため、キリスト教保守派の「福音派」の多くはプロライフで、中絶は殺人だと主張しています。

一方、信仰に関わらず、個人の自由や平等、選択を重視するプロチョイスは、「子どもを産むか産まないかは、個人で決定すべき権利」と考えています。

プロライフは共和党、プロチョイスは民主党に結びつく傾向があります。

実際、中絶の権利を保障してきたロー対ウェイド判決は、共和党のトランプ氏が大統領に就任中に保守派の判事を3名指名したことで覆されました。トランプ氏は今回の大統領選でも「最もプロライフの大統領」と名乗っています。

一方、民主党のハリス氏はプロチョイスで、大統領に就任すれば中絶の権利を保障する連邦法を設定する考えを示しています。

中絶が宗教だけにとどまらず、政治利用され、そこから法律に結びついていることで、より問題が複雑になっているのです。

――中絶を取り巻く状況は、今回の大統領選挙にどのような影響を与えているでしょうか。

リプロダクティブライツは、身体や生殖に関する決定を自分で選択し、健康で安全な人生を送るための基本的な人権です。

「自分の体は自分のもの」という、いわば当たり前の権利なのです。

しかしトランプ氏が当選すれば、中絶禁止の動きがさらに拡大し、今以上に多くの女性がこの権利を奪われる可能性があります。

そのため、女性有権者が自分の体の自己決定権を守るために民主党を支持することが考えられます。

その一方で、女性有権者が一枚岩であるとまでは言い切れません。

2017年にトランプ氏が大統領に就任した後、アメリカでは女性主導で大規模なデモ「ウィメンズマーチ」が行われ、さまざまなマイノリティが団結して抗議の声を上げました。

しかし参加者すべてが中絶の権利を求めていたわけではありません。トランプ氏の政策や差別発言から反トランプの立場をとってはいたものの、中絶には反対という参加者もいました。

そういう点を考えれば、女性たちが中絶の権利の問題において一枚岩だとまでは言えないのですが、一定程度民主党に票が流れる勢いにはなると思います。

共和党のトランプ前大統領(左)と民主党のハリス副大統領
共和党のトランプ前大統領(左)と民主党のハリス副大統領
Associated Press

ーー今回の大統領選でトランプ氏が当選した場合、女性間の団結は進むのでしょうか。

女性に限らず、従来のアイデンティティやカテゴリーを超えた連携を生み出す可能性を秘めていると思っています。

前々回(2016年)の大統領選で、トランプ氏の差別的発言は女性のみならず、さまざまなマイノリティの人たちにも及びました。そんなトランプ氏を支持し、大統領にさせる社会があることを示した選挙でした。結果として、あらゆる差別を許容する環境ができてしまい、女性のみならず多くの人たちが大きな危機感を持つことになりました。

大統領就任後、トランプ氏は性的マイノリティ、移民、難民などに影響を及ぼす政策を打ち出し、問題になりました。コロナ禍には感染が拡大していたウイルスを「チャイナウイルス」と呼び、アジア系の人たちへのヘイトクラムの一因につながったとみられています。

トランプ氏が大統領に返り咲けば、発言や政策がさらなる社会の分断を生み出し、抑圧や暴力問題に発展する可能性が大いにあると考えます。

フェミニズムの課題が増えることを意味し、フェミニズムとしてはもう一度団結しようとする流れになるでしょう。

ーーさまざまな人が抱える課題を乗り越えられるようになっていくということでしょうか。

フェミニズムが目指すのは差別や暴力の撤廃、平等な社会の構築です。問題は一つの要因によるものではなく、ジェンダーや人種、階級など多様な要因が複合的に交差する中で起きるインターセクショナリティーを前提に、多様な視点からのアプローチが必要です。例えば、男性もジェンダー問題を抱えています。「男性はこうあるべき」というジェンダー規範を押し付けられるがゆえに生きづらい思いをすることもあるし、性暴力の被害者になることも少なくありません。フェミニズムには例えば男性を始め、さまざまなバックグラウンドを持つ人たちの団結が求められています。

ただ、団結することで生じる難しさもあります。団結することによって個が見えなくなってしまい、置き去りにされてしまう存在が出てきてしまうのです。

実際にあった例に、トランプ氏の女性蔑視発言への抗議活動「プッシーハット運動」があります。みんなで生殖器を表したピンク色の帽子をかぶって運動に参加するというものでしたが、特に黒人女性たちから「白人的なのでは?」という批判が上がりました。

抱える問題は人それぞれ違うため、特定の人に焦点を当ててしまうと分裂が生じてしまうことになります。運動をしていると毎回どこかが主体になり、どこかが抜け落ちてしまうことはあることで、分裂の兆しに気づき、課題解決に動いていくことが、常にフェミニズムに求められていると思います。

ーーハリス氏が当選した場合はどうでしょうか。

ハリス氏は、特定のアイデンティティやカテゴリーを持ち上げず、置き去りにする人を生まないような打ち出し方をしています。

前々回の大統領選では、ヒラリー・クリントン氏と支持者たちは「女性初の大統領」など女性という要素を強く意識しました。クリントン氏に「女性」「エリート」「白人」というイメージをつけることになり、このカテゴリーに当てはまらない人たちを置き去りにしてしまいました。女性票を得られるとみていましたが、人種間での分裂が生じ、クリントン氏が落選した一要因になったと思います。

ハリス氏はクリントン氏の時の教訓もあってか、自身のジェンダーや人種をあえて強調しない戦略を取っています。自身の生い立ちや経験を語ることでジェンダーや人種に自然と触れ、幅広い人たちに親近感を持たせられています。

女性というジェンダーはあくまでハリス氏という人間を構成する要素の一つという考えを、支持者たちと共有できているように思います。特定の人に限定しないという点で、支持の拡大につながっています。

ーージェンダーや人種をあえて強調しないハリス氏ですが、当選はマイノリティの人たちにとってどのような意義がありますか。

新たなロールモデルが誕生することになるので、女性やマイノリティの政治参加へのモチベーションを高める大きな力になり、未来の選択肢を増やす可能性があります。

一方で、女性だけ、この人種だけなど特定のものに特化することができないため、課題に対して全体が満足するレベルで解決することが非常に難しい状況にあります。この難点をどう克服していけるかが注目されます。

 ◇     ◇     ◇

井口裕紀子さん
1991年、京都市生まれ。同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科で博士(アメリカ研究)を取得。論文に「ウィメンズマーチにおけるソーシャルメディアとクラフティヴィズム」(「同志社グローバル・スタディーズ」Vol.18)などがある。著書に『SNSフェミニズムー現代アメリカの最前線』(人文書院)があるほか、『現代思想』2023年5月号に特集として掲載されている『現代アメリカにおけるSNSフェミニズムからフェムテックを考える』の著者でもある。

注目記事