「東日本大震災・原子力災害伝承館で“中高生が表現する「私と福島展」”というのが開催されているんですが、なかなかインパクトのあるアート展になっています」ーー。10月上旬、X上でこんな投稿が話題になった。
「インパクトのあるアート」として示されたのは、青みがかった「福島県」の下に「放射能がうつる」「貧乏人はフクシマの米を食って死ね」などの罵詈雑言が散りばめられた1枚の写真。
思わず目で覆いたくなるが、作品のキャプションには「全て私が実際に目にした言葉で、今もネットの海で独り泳ぎしている言葉」とある。つまり、これらは福島の人々に実際に向けられた「言葉の刃」ということだ。
一方、この心をえぐるような誹謗中傷を誰かが上書きしようとしたのか、「福島県」の上には「震災前より明るい福島へ!」などといったポジティブなメッセージも貼られていた。
どのような目的でこのアートは作られたのか。どんなメッセージが込められているのか。ハフポスト日本版は、このアートを制作した福島県の高校生を取材した。
◆カタカナでフクシマ、寝る前の悲しい習慣
「『フクシマ』という言葉、偏った報道、福島を知らないのに誹謗中傷する人、そもそもの天災。作品を見た人たちに怒ってほしかった。そして、その怒りをエネルギーに変えてもう一度福島について考えてほしかった」
福島県内の高校に通う西田光さん(仮名)は、一つ一つ考えるように言葉を絞り出した。
今回の作品は、福島県双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館を拠点に実施されている中高生研究体験プログラム「福島学カレッジ」(表現コース)の一環で制作。
「私と福島」をテーマに、参加した生徒がそれぞれ「福島県に暮らす自分自身のアイデンティティ」について考えた。
「私は福島が好き。でも福島の何が好きなのかと聞かれた際、具体的に答えることができなかった。悔しくて考え込んでいると、私と福島は『似ている』ことに気づいた。お互い、今に至るまで色々な言葉にとらわれてきたので…」
作品の特徴の一つは、冒頭でも示した罵詈雑言の数々。
福島県の地形をかたどった地図の下に、「ノーモアフクシマ」「超高濃度汚染地域」「頭ベクれてる」「今の福島を全く知らない。フクシマしか知らない」などと、福島や県民が実際に浴びた心ない言葉が所狭しと貼り付けられている。
13年前はまだ未就学児だった西田さん。学校や課外学習で福島に対する差別や偏見について学んだことはあるが、直接的に誹謗中傷を受けたことはない。しかし、これらの言葉を知ったのは、ある“悲しい習慣”がきっかけだったという。
「高校生になった頃から、寝る前にいつもカタカナで『フクシマ』と検索するようになった」
最初は「福島の大人はどんなことを言われてきたのだろう」という興味本位でSNSを開いていた。福島に何か別の意味を持たせようと、福島を「フクシマ」と呼ぶ人がいることも知っていた。
しかし、この心を焼き尽くすような誹謗中傷が今もなお続いていることは詳しく知らなかった。精神的な苦痛を伴う行動だと自覚していても、寝る前のルーティンとしてやめられなくなった。
「反論するわけでもないからしんどい時もある。でも、心ない投稿がタイムラインに表示されるたびに、『私は絶対に見逃さないぞ』と心の中で呟いていた」
◆あえて「フクシマ」に向き合った
小中学校の震災教育で学び、そして高校生になってから参加したワークショップで、原発事故の避難者から郷里を離れた悲しみを直接聞いてきた。避難誘導中の警察官が津波にのまれた場所を訪れた時、災害の恐ろしさや家族を失う悲しみをより大きく実感した。
「そんな経験をした福島の人たちが、なぜ今になっても誹謗中傷されなければならないのか」
過去の大きな悲しみを抱えながらも、震災と原発事故の前よりパワーアップした福島にしていこうと、たくさんの人々が活動していることも知った。
「復興を“望まない”人にとって都合が良いカタカナの『フクシマ』であり続ける限り、福島は一歩も前に進めないのではないか」
そんな思いから、今回「フクシマ」にあえて向き合うことにした。ひどい言葉の数々に恐怖を感じながらも、「私は見逃さない」と文字を記録するようにパネルに貼り付けていった。
ただ、心ない言葉をそのままにしておくのは福島や福島県民にとっても辛い。私と福島展に訪れた人たちに「あなたの福島」を自由に書いてもらい、その言葉を「フクシマ」の上に貼り付けてもらうことにした。
「偏見がなくなりますように」「復興が進んできて、明るく、活気が出てきた」「明らかに新しい福島に生まれ変わっている」ーー。
割れた窓や落書きをそのままにしない「割れ窓理論」のように、ネガティブな言葉で埋め尽くされていた「フクシマ」は大勢の人たちの手によって上書きされ、みるみるうちに人々が実際に感じる「福島」へと変わっていった。
「悲惨、かわいそう、危ない……。これしか知ろうとしない人たちに、今の福島の歩みを感じてほしかった。いろんな人の手で、未来の福島を表現してほしかった。そして、言葉がだんだんと穏やかなものに変わっていく様子を、福島の人たちに感じてもらいたかった」
なかでも西田さんが嬉しかったのは、「福島の食べ物が一番おいしい」という言葉だった。震災と原発事故の後、実家から福島のお米を送っていた人に「福島の米なんて送らないで」と言われた経験があったという。「シンプルな応援だけど一番心に残った」
◆自画像と福島に「青」を使った理由
Xで話題になったのは、この「福島県」の写真だったが、実はその隣に自画像が設置されていた。西田さんの作品は、この自画像と「福島県」をセットで見ることで成り立つようになっている。
自画像の顔は、半分化粧、半分“すっぴん”。周りには、「上辺だけ見てよ」「ほどいてみて」などと、思春期の不安定な気持ちがびっしりと書き込まれている。私と福島の共通点に、様々な言葉にとらわれてきた経験があるからだ。そして、それを「青色」で表現した。
「辛いこともあるけど、私も福島もまだまだ成長(復興)途中。未熟で『青い』けど、逆に言えば伸びしろはたくさんあることを表現したかった。私たちはずっとかわいそうな存在でいなければならないの?そんなことはないと思う」
市販の絵の具の色では納得できず、万年筆のインクを調合して自分の思う青色を何回も作った。そんなこだわりの作品に、SNSでは共感の声が広がっていった。
「前向きなコメントにうるっときた」「この誹謗中傷は過去の出来事ではなく現在進行形であることに怒りを感じる」「福島への悪意ある言葉を、福島を思いやる言葉で上書きする作品。すごく希望がある」ーー。
一方、SNSでこの作品が話題になったことで、「フクシマ」と検索すると、今度は自分に対する心ない投稿もヒットするのではないかと多少の怖さを感じていた。
「この怖さは特に震災直後の福島の人たちが味わってきた怖さと一緒だ」と自らに言い聞かせ、実際に「恨みを持つような教育をされてきた結果」という趣旨のコメントを見つけた時は、「私は福島の学校に通い、福島の人から話を聞き、福島のことを考えている。決して大人に操られているわけでなく、自分の意思で福島にいる。こんな言葉で傷つかない」と胸の中で反論した。
さらに今回、西田さんは自身の作品と向き合ったことで「教師になりたい」という将来の目標ができた。
もともと内気な性格だが、様々なことに挑戦し、福島に何かを還元したいという感情が芽生えた。震災と原発事故の記憶や実感がだんだんと薄れていくこれからの子どもたちに、防災の大切さを伝えていきたいと感じた。
「震災と原発事故の悲しさや復興に向けて頑張っている人たちの姿は、誰かがしっかり記録して伝えていかなければならない。福島の危険や不安を煽る投稿や報道もまだあるけど、それぞれの立場や目的などを考えず、自分自身の『福島』の姿、実像をいちど言葉にしてみてほしい」
◆「白血病になって死ぬ」と言われた経験から
同展プログラムディレクターの菊地ゆきさんは、「自分が最も近いのに最もわからない存在である『私』に向き合い、『私』が捉える福島の姿を言語化することができた。高校生の率直な問いかけに、鑑賞者一人一人が思いをめぐらせてほしい」と話した。
菊地さんも福島県出身。東京都内の大学に通っていたが、たまたま県内に帰省していた時に震災と原発事故が起きた。
その後、都内に戻った際、「白血病になって死んじゃうんでしょ」と言われ、ショックを受けた。福島の手土産を拒否されたり、「福島に戻ると子どもは産めなくなっちゃうね」と好奇の視線に晒されたりもした。
このような経験から、「福島に暮らすこれからの子どもたちが自分の選択に誇りを持てるように、近くで支えたい」とUターン就職を決意した。
一方で、中高生が今回、真剣に「福島」と向き合う姿を間近で見て、「支えたいというのはおこがましかったのかもしれない」と感じたという。
「福島というフィールドに自分の意思で踏み込み、自分自身と重ね合わせながら言語化にたどりついた子どもたちがたくさんいる。13年前の私がなんだか救われたような気持ちになった」
菊地さんは過去を振り返りながらこのように話し、次のように述べた。
「表現コースのゴールの一つは、複雑な問いであっても自分の思いを自分の言葉で表し、他者と対話できるようになること。来年3月にも同様の展示会が開かれるので、ぜひ中高生が考える私と福島に触れてほしい」
◆「代理表象」を跳ね除ける作品が出てきた
東京大学大学院情報学環准教授で東日本大震災・原子力災害伝承館上級研究員の開沼博さんも、2年前に始めた「福島学カレッジ」について「一定の成果が見えてきた」と評価した。
福島を巡っては、安全・安心に関する情報を語る上で「サイエンス」が重要だが、「それをどう表現するのかというのも問われている」という。
震災と原発事故から13年、まだ幼かった子どもたちのほとんどは当時のことをはっきり覚えていない。それでも「かわいそうだ」「苦しんでいるんでしょう」と、外部からの一方的な感情を押し付けられることがある。
開沼さんは「これを社会学では『代理表象』の問題と言ったりする。単純化したイメージ(表象)の中で他者の思いや考えを勝手に代理し代弁することで、弱い立場の者から言葉を奪って支配・差別し、自らの意のままに“飼いならそう”とする」と指摘。
その上で、「福島は間違いなく、特定のイデオロギーをもった一部の人々からそういった不健全な欲望を向けられてきた。代弁される・支配される側の地元住民にも『そうです。私は苦しんでいるのです』と、事実から乖離したイメージづくりに利用されてしまう人も一部いる」と述べ、「そんな中、私と福島展で『代理表象』を跳ね除けるような作品が出てきて本当に驚いた」と話した。
また、「広島県の原爆ドームを今の形のように整備・保存しようという方針が固まったのは1945年から20年ほど経ってからのこと。その20年間は取り壊すべきという議論がずっとあったわけだが、いま私たちに多くのことを伝えてくれる原爆ドームは、1945年に完成したものではなく、それから20年ほどの議論と人々の思いが完成させたものだったと言える」と語った。
3.11はまだ13年だが、開沼さんは「(西田さんの作品には)明らかにこの13年の苦闘と変化がこめられている」とし、「原爆ドームがそうであるように、3.11を象徴する作品はあれから20年ほどたってから生まれるのかもしれないし、この作品自体がそれなのかもしれない」と話した。
そして、「震災と原発事故後の13年というプロセスの中で、今回の作品のような、それも事実をベースにしたものが出てきた。単なる『中高生の図画・工作』と捉えるのではなく、その意味をきちんと伝えていかなければならない」と言及した。