日本国内での猛暑やアフリカでの干ばつなどに加えて、地球温暖化が大きな要因とみられる気候変動の影響は、ヒマラヤ山脈の氷河にも及んでいるようです。
8月にはネパール南東部、エベレスト(標高8849m)街道に沿うターメ村が、氷河湖の決壊が原因とみられる大規模洪水に襲われ、人的被害こそなかったものの家屋は壊滅状態になってしまいました。
長く村民との交流を続け、被災直後にターメ村に入ったアルピニストの野口健さんに現地の状況や、今後のヒマラヤの氷河についての見通しなどについて伺いました。
8月に氷河湖決壊で洪水が発生
ターメ村は以前、地震でも大きな被害を蒙ったそうですね。
「2015年4月25日に発生した、M(マグニチュード)7.8のネパール大地震と、続く余震でターメ村はエベレスト山腹に向かうトレッキング・ルートであるエベレスト街道地域で最もひどいダメージを負いました。
以降、私は『ヒマラヤ大震災基金』を立ち上げ、何度も現地を訪れて子どもたちに大型テントやランドセルを配ったり、家屋再建のための支援をしていましたが、ようやく復興してきたと思ったら今回の洪水が発生してしまいました」(野口さん)
今回の洪水被害を受けて野口さんは「ヒマラヤ洪水基金」も立ち上げて、支援活動を行っています。
8月の洪水は、具体的にどのような状況だったのでしょうか。
「洪水の発生は8月16日の昼間でした。豪雨が続いていたうえに、温暖化によって村の上部にある氷河湖が決壊したのではないかと思われます。未確認情報ですが、地元の行政関係者によると、ターメ村の上部にはいくつかの小さな氷河湖があり、そのうちの2つが決壊したのかもしれないとの話でした。
不幸中の幸いは発生が昼間だったため、村の住民の方々は全員逃げることができ、人的被害がなかったことです。犠牲者が出なかったのは奇跡でしかなく、決壊がもし深夜に起きていたら、間違いなく多くの死傷者を出していたことでしょう。
それでも、ランドセルを届けた学校が流失してしまうなど、村内の家屋13戸が全壊、10戸が損壊しました。下流の洪水が流れ込んだ河川流域の吊り橋なども、危険な状況だったようです。
ターメ村周辺はもともと雨季には降水量の多い地域なのですが、今年は特に“異常”ともいえる豪雨が続いていたそうです。これも温暖化、気候変動が影響しているのかもしれません」(野口さん)
ターメ村があるエベレスト街道沿いには世界最大級のイムジャ氷河があります。野口さんもアジア・太平洋水サミットや北海道・洞爺湖サミットなどで、その決壊の危険性を訴えられていました。
「ネパールは複数の巨大氷河湖を抱えていますが、とくに決壊時の脅威が懸念されているのがイムジャです。60年前は小さな池だったのが、今では東京ドーム32個分がすっぽり入るまでに拡大したと言われています。
仮にイムジャが決壊すれば、エベレスト街道は壊滅的に破壊され、犠牲者の数は計り知れません。そのため、専門家たちもイムジャの動向に注目していましたが、今回の決壊は想定外の場所だったのです。
エベレスト街道のシェルパたちも『外国人からイムジャの危険性ばかりを聞かされてきた。ネパール軍もイムジャの決壊対策だけ行なっていた。なのに、まるで違う場所で決壊が起きてしまった』と嘆いていました」(野口さん)
気候変動の影響で想定以上に融解が進むヒマラヤの氷河
ヒマラヤの氷河は気候変動によって21世紀末までに最大80%が融解して、大きな被害をもたらすだろうとの報告が、周辺国政府間機関の国際総合山岳開発センター(ICIMOD/本部・カトマンズ)の研究チームから2023年になされています。
この10年間に限っても、ヒマラヤと北西に位置するヒンドゥークシュ山脈の氷河は2010年代に比べて65%早く融解が進んでいるそうです。
「私自身も素人ながら、ここ数年は専門家の予測よりも氷河の融解が明らかに早まっているのではないかと、ヒマラヤを訪れるたびに強く感じていたところでした。
たとえば2018年にアイランドピーク(6160m)に登った際は、山頂につながる稜線に出るために数百メートルの氷壁を直登できたのですが、2023年に訪れた時には氷壁から氷がほぼすべて失われ、むき出しのもろい岩壁に姿を変えていました。
マナスル(8163m)でも2019年と2023年とでは氷河が別物のように変わっていたことに驚きました。ベースキャンプからキャンプ1(5700m)まで緩やかな平面状だった氷河が、まるで破裂したザクロのようにズタズタに裂かれて、大きく口を開いた無数のクレバス地帯になっていたのです。
気候変動によるヒマラヤの変化は、いちいち挙げたらきりがないほど実見してきました。シンポジウムや会議室でのやり取りよりも、事態ははるかに早く進行していて深刻であると感じています」(野口さん
気候変動でヒマラヤの氷河は今後どうなる?
ICIMDの報告書では、温暖化による気温の上昇で失われる氷河の割合は1.5~2.0℃で30~50%、3℃を超えるとネパールやブータンで75%、4.0℃になると80%に達するとしています。
ヒマラヤ、ヒンドゥークシュ山麓には約2億4000万人が暮らしており、氷河から流れ出す淡水は下流の中国やパキスタンなど16ヵ国・20億人に供給されています。
報告書は「氷河の融解が加速すると農地は水没し、さらに水も途絶えて干ばつが起き、斜面が侵食されて洪水や土砂崩れ、雪崩の危険性も高まることが予想される」としています。
ヒマラヤの氷河の“今後”について野口さんは、どのような見通しをおもちでしょうか。
「このままのスピードで氷河の融解が進めば、数十年先にはエベレスト街道のいくつもの村々が姿を消してしまうのではないかと、想像しただけで恐ろしいことです。
イムジャ氷河湖が決壊したらエベレスト街道はなくなるほどの脅威なのです。あらゆる方法を試み、けっして氷河湖を決壊させてはなりません。
ヒマラヤの人々の生活スタイルが気候変動を招いたとは考えにくく、私たち世界人類すべての責任でもあります。このテーマはスケールが大きすぎ、学者でも政治家でもない一アルピニストに果たしてできることがあるのかと、途方に暮れたこともありました。
しかし、ターメ村の被災現場を見て、ハッとさせられました。諦めたら終わるのだと。登山と同じで、厳しい状況に追い込まれた時、諦めた人から先に逝(い)ってしまうことがあります。逆にいかなる状況下に追い詰められようとも、生きることを諦めない人は生き延びることができるのです。
ターメ村の行く末を共に考え一緒に歩んでいく事で、気候変動によってこの先に起きるであろう災害に備えて、学べることも多いはずだと思います」(野口さん)
幸い人的被害が生じなかったターメ村の洪水は、世界的に見れば“小さな出来事”かもしれません。しかし、ICIMDの報告書は「気候のわずかな変動が氷や雪の状態に大きな影響を及ぼし、農耕、畜産、観光業などに依存する人々の生活を脅かす」としています。
近年さまざまな事象が顕著に生じるようになった気候変動は、人間によるさまざまな活動が大きな影響を及ぼした結果であることは間違いありません。気候変動を他人事ではなく、我がこととして考えて、住みやすい地球にしていきたいですね。
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