まだ幼い私たち3姉妹を残し、父は母を捨てて家を出て行った。高利貸しへの返済に追われる日々を過ごしながら、母は4人での生活を続けていくために必死だった。落ち着いた場所にあった持ち家を売り、アパートへと引っ越しをし、生活費を稼ぐために仕事も始めた。
アメリカで小学1年生だった私は、母が苦しんでいたことも、不確かな未来の不安に追い詰められていることも、背負わなければいけなかった責任のことも、理解できていなかった。そればかりか、母のことを自分自身をコントロールできずにいつ怒りを爆発させるかわからない存在に感じていた。
8歳のある朝、本ばかり読んでぼうっとしていたら、母に髪の毛をつかまれて鏡の前まで引っ張ってつれて行かれたことがあった。
「そのシャツを学校に着ていくつもり!」
金切り声で問い詰められた。「ダメなの?」と聞くと、「見てみなさいよ。気づかないの!」と強い口調で言われ、着ていたシャツを改めて見てみた。
「赤と黒のチェック柄が派手すぎる?サイズが小さすぎる?」
母は「ちがう!しわが寄っているでしょう!」と言い、私のことをぶった。「急いで着替えて。遅刻しちゃうでしょ」と怒りは収まらなかった。
このエッセイを配信するにあたり、事前に母に読んでもらった。クローゼットの中で私に暴言を吐いたことを思い出したと教えてくれたので、そのことも盛り込むことにした。前夜に婚約指輪をなくたことに落ち込み、心当たりの場所を探してまわったが見つからず、気が動転していたのだという。婚約指輪は母にとって、別れた夫との唯一のつながりだった。捨てられてしばらく経ってもなお、まだ夫が戻ってきてくれるかもしれないと思っていたというのだ。
そんな母の苦しみを全然知らなかった。だから、悲しくて泣きながら子ども部屋に戻った。子ども部屋にはパステルカラーの虹の模様の大きなカーペットが敷かれていた。わざわざお金をかけて、前の家にあったものをアパートに持ち込んだのだった。引っ越しによる寂しさを和らげたいという母の思いやりだった。
慣れ親しんだカーペットはなんの慰めにもならなかった。州またぎで引っ越したため、転校することになり、友だちと離れ離れになった。一軒家からハンモックで寝る生活になった。そして、父のいない子になった。母は何が引き金となって怒り出すかわからないため、細心の注意を払わないといけなかった。
ここに挙げたほかにも、母からとがめられたことはあったかもしれない。記憶が色褪せてくれたおかげで詳しくは思い出せないが、アメをこっそり食べたとか本をなくしたとかで怒鳴られたことがあった。本だったか妄想だったかに没頭して何かに遅刻したときにも大声でわめかれた。
数年前、子ども時代から引きずっているトラウマを解放する方法を心理カウンセラーに相談し、EMDR(眼球運動による脱感作および再処理法)を教わった。
母にぶたれたことは思い出さなかったが、ある光景がぼんやりとよみがえった。
母が運転する車の後部座席で何もしゃべらない私がいて、助手席には明るい性格の姉が座ってその日の出来事を話し続けている。2人は私が一言もしゃべらないものだから、話に加わるようにしつこく誘ってくる。内気な殻を破らせようとしてくれたにちがいないのだが、「あなたは静かすぎ、気にしすぎ、無関心すぎ」と言われているように感じただけだった。
子ども時代の私は、自分のことをどう伝えたらいいのかわからなかった。だから、本や頭の中で物語をつむぐことに傾倒していき、どんどん内向きになっていった。成長するにつれ、家族が私のことを愛してくれていることはわかった。でも、私は好かれたかった。
そんな思いを抱きながら生きてきた。大人になっても、母への恨みがついてきた。
母が「つまり…」と話し始めるだけで、イライラが込み上げてくるようになった。「早く言ってよ。結局続きを言うんだから『つまり…』は必要ないじゃない!」と私はキレてしまう。他にも苛立ちが抑えられなくなる言葉があった。「とはいえ」という母の口癖だ。知らない人たちの話を脈絡なく始めることにもイライラした。人の外見についてあれこれ言うのを聞くのも嫌だった。
母の携帯電話マナーも耐え難かった。郵便局で大きなで「Hey Siri」と言ってレストランを予約したり、スターバックスでこれまた大声でビデオ通話を始めたり…。
私がイライラをぶつけると、母は冗談まじりだとは思うが「最悪のアダルトチャイルド」と言った。たいていの場合、尊敬を欠いた私の振る舞いは多めにみていた母だが、たまに言い返してくることがあった。携帯電話のマナーがなってないと怒るが、子どもたちや義理の家族の前で怒りを爆発させる私の態度の方が無礼ではないのかと。
母には感謝している。おばあちゃんとして孫たちに泳ぎを教えてくれたり、試合や発表会に駆けつけてくれたり、ボードゲームで一緒に遊んでもくれる。孫に愛情を持って接してくれるし、私の母親ぶりもほめてくれる。
母に対してイライラしてしまう理由があるとはわかっていたが、親娘の確執は単に携帯電話マナーだけの話ではないということは見えていなかった。
幼いころに鏡の中に見た母の姿を許すことができず、ずっと母を責め続けてきたのだ。母に怒鳴られたくないと願う気持ちが、母のことをどうにも我慢できないイライラとなって現れたということのようだ。
そして、40代になってエマと出会った。
エマは、旅行先で知り合った夫婦の娘だった。シュノーケリングのボートで一緒になったとき、女性保護シェルターでインターンとして働き、子守りの仕事もして大学院の学費を払っていると話してくれた。私がつれていた小さな子どもと色塗りをして遊んでくれる一方で、10代の上の子の扱いもうまかった。
翌日、空港に向けて出発する前に、エマの母親のエイミーと一緒にコーヒーを買うために並んで待っていた。
「エマは自慢の子どもでしょう。とっても落ち着いていて、分別があって。まだ学生なんて信じられません」と勢いづいて話しかけた私に、エイミーは意外な反応を示した。
「エマ、エマ、エマ」。言いながらエイミーの顔から笑みが消えていった。「エマのファンってなんでこんなに多いんでしょうね」
そして続けた。「私と夫がなんでシュノーケリングのボートに乗らなかったかわかりますか?エマがいたからなんです。せっかく休暇につれてきたのに、私たちへの批判が止まらないんです。『お母さんのズボンは短すぎる』、『お母さんの話は長すぎる』、『お父さんは歩くのが速すぎる』、『ホテルの従業員にタオルを頼んだときのあの言い方は変だった』という具合なんです。本当はシュノーケリングに行きたかったけれど、エマから離れたかったというのが実のところなんです」
エイミーの言葉を聞きながら、両肩をガシッとつかまれた気分だった。
私は「エマ」だったのだ。
出会う人たちに私はいい人に映っていただろう。うざいなと感じる人にもいい顔を見せてしまうから。でも、母に見せる顔はまったくちがった。意地悪で、すぐにイライラして、容赦なく責め立てるーー。
父が家を出ていった後、ちゃんした暮らしができるようにしてくれた人に対して機嫌悪く接していた。孫たちのトイレトレーニングをしてくれたり、お泊まりの時には枕元にサプライズのプレゼントを用意してくれたりした母のことをぞんざいに扱ってばかりだった。
母にこの気づきについて話すと、私が「エマ」だったことを否定しなかった。
母自身が自分の母親と衝突したときに唱えていたという言葉を教えてくれた。
「母がよくない振る舞いをしても、私に悪い影響があるわけはない」
ようやく納得がいった。
携帯電話のマナーに責任を持つべきは母。過敏すぎるところとイライラを止められないのは私自身の責任なのだ。
母は完璧な人間ではないということを認め、受け入れるべきなのだ。母はこれまでずっと私の欠点を見過ごしてきてくれたのだから。初めてそのままの母を好きになれた気がした。父が出て行ってからの生活を支えてくれたことを感謝するだけではなく。
母は年齢を感じさせないほどの活力に満ちあふれていて、家族の中心的存在だ。3人娘の母であり、3人の義理の息子の母であり、ゴールデンドゥードルの母でもあり、4歳から24歳までの9人の孫のおばあちゃんだ。
ゴルフコンペに出場し、優勝することもしょっちゅうだ。自分で建てた家の前にある塩水の湖に、浮橋から飛び込んでリラックスする。私が自分の家族をつれて夏の間よくここを訪れるのは、景観のすばらしさもあるけれど、母と継父と一緒に過ごしたいからというのが本当のところだ。
母は行く先々でどんな人とも友だちになってしまう。おせっかいで、愉快で、自分のみならず、大切に思う人のために行動することを恐れない。何より素晴らしいと思うのは、お互いが学び、そして進化し続ける方法をお手本となって示してくれているところだ。
今でも時々、母にはイライラさせられる。誰々がオゼンピック(糖尿病の治療薬で減量にも使われている)を使っていると言ってくる時は、私にも使ってみろと暗に勧めているんだと思う。イライラはするが、かつて母との間に深い溝を生んだ醜い怒りの気持ちはもうない。
このあいだ母とクロスワードパズルを一緒に解きながら、冗談を言い合った。「タテ77を解くまでエマは待てない」と母のことをからかってみた。タテ77のヒントは「公共の場での大声での会話」で、答えは4文字だ。
母は答えが「RUDE」(無作法)とわかると、すぐに「どこかの子どもたちみたい!」と言い返してきた。
実の父が家を出て行った傷跡を、私たちはストレスとしてしばらくの間ひきずっていた。母の怒りが本当は私に向けられていたわけではなかったと、今ならわかる。同じように、私が抱いた恨みも母に向けたものではなかったのだ。
エマのおかげで、娘としての最も良いところと最も嫌なところに気づくことができた。気づくことができたおかげで、母との仲を修復することができた。ずっと変わらず、待っていてくれた母には感謝だ。
これを読んで、もし自分の中にもエマがいたり、我が子にエマの片鱗が見られたりすると感じたとしても、それはあなただけじゃない。親子関係は一生をかけてつくっていくものだ。お互いの欠点を受け入れ、手遅れないならないうちに対処する。現在そして未来の家族の形、その中での自分の役割に目を向けることで、人生のおいて最も確かで貴重なつながりと過去から受け継がれてきたものを守っていけるようになる。
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筆者のJodie Sadowsky氏はアメリカ・コネチカット州在住で、「娘、きょうだい、友人、妻、母、読者、物書き」と様々な顔を持つ自身について執筆している。Sadowsky氏のエッセイは人間関係や健康が主なテーマとなっている。子ども向けにも家族や伝統、言葉遊びの物語を書いている。
ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。