子どもがいない私に同僚が言い放った短い一文。いつも受け流してきたけど今回は違った、そしてある結論に達した

子どもを持たない私の生き方は、同僚たちの冗談のネタにされた。

勤務先の北アメリカの病院で同僚たちと患者さんのケアや方針変更について話し合っていた時のことだ。終業時間が近づき、会話は週末に何をするかへと移っていった。子どものダンス発表会といった家族の予定について話す同僚がいたので、私はラスベガスに行くというプランを打ち明けた。

「子どもがいないから行けるんだよ」。そこにいた1人が口にした。同僚が深い考えなしに発したこの短い一文が、私が9年間勤めてきた病院の一室のど真ん中に垂れ下がった。

沈黙の後、笑いが起き、会話は目の前の仕事の話に戻った。荷物をまとめて立ち去っていく同僚たちの隣で、私はさっき言い放たれた重くのしかかる言葉について考え続けていた。

子どもを産みたいかどうかという私の生殖に関する選択が、気軽な感じで話題に持ち上げられ、同僚同士の会話の途中でポイっと捨てられた。ラスベガスへの旅行に膨らんでいた期待はしぼまされ、子どもを持たない私の生き方は冗談のネタにされたのだ。

子どもを産まないと決めて四十数年を生きてきた間には、この選択についていろいろ勝手なことを言われてきた。

いつも気にしないできたし、こんなふうに勝手に判断されることには慣れているつもりだった。だけど、今回の同僚の発言はこれまでのように受け流せなかった。

同僚が発した言葉のトーンと意味するものが何だったのか、数日間頭から離れなかった。私には子どもがいなくて、何の責任も負っていないから、ラスベガスに羽を伸ばしに行けると思っているということなのか。

子どもを持たない女性は人生の重荷や苦労を免除されているという考え方によく出くわす。そういう考え方をする人たちに言わせると、私が人生を楽しめているただ一つの理由が子どもがいないかららしい。

子どもがいないことにはもちろん「特典」もある。けれど、人として経験する通常の重みをともなうことなく、私がいま身につけている自律性を得たと考えるのは間違っている。まず、大規模病院に勤務する外科医として、多くの責任を負っている。それは仕事に限ったことではなく、私が気にかける人たちはほかにもいるし、頼りにもされている。自由に使える時間は、旅行、友人、たくさんの愛で満たされている。私の人生にはものすごく価値があるのだ。それなのになぜ、周りの人たちにとって私の人生は何かが欠けている存在なのだろうか。

イギリスのジャーナリストのルビー・ウォリントンは著書『Women without Kids』の中でこう書いている。

「子どもを持てない女性はしばしば悲しく、傷ついた存在として描かれます。しかし、自分の意思で子どもを持たない女性は勘違いしているか、後々後悔する運命にあるか、冷淡でナルシシストでキャリアに執着しているかのいずれかのように描かれます」

わがまま、後悔すると警告されたことも

医学部を出て、持ち家もあり、人生を共にするパートナーもいるけれど、単なる知り合いにすぎない人に対して、自分の選択の幅を狭めたり、言い訳したりしないといけないような気持ちになる。

子どもを持ちたくないという事実を率直に口にすると、わがままと思われたり、後悔すると警告されたりすることもある。母親になることで得られるほどの充実感はキャリアでは手に入らないと言われたことも幾度となくある。私の人生は子どもなしでは「満足のいくもの」にはならないということらしい。

頼んでもいない意見を押し付けられ続けて、見えてきたものがある。女性の価値は生殖意欲があるかによるということだ。知性でもない。仕事でもない。社会への貢献でもない。私のことを例に挙げると、子どもを持つことに「NO」と言った瞬間に、手術で人の命を救うことも、家族も、向上心もほとんど意味をなさないことのようだ。

こんなふうに悩んでいることを、子どもを持ちながらもバリキャリで活躍する女友だちに打ち明けたことがある。心置きなく話せる女の友だちであっても、子どもがいない女性が直面する独特な決めつけについて伝えるのは難しい。

「子どものことばっかり話してごめんね」。子どもを産まないと言ったときに周りから聞こえてきた批判について説明しようとしたとき、友人からこう言われた。その瞬間、友だちとの間に大きな隔たりをまざまざと感じ、戸惑わずにはいられなかった。

私が楽しんでいる自由は条件付きで一時的なものだとか、悲しみに打ちひしがれているといった、子どもを持たない女性を十把一絡げに見なす社会について話そうとすると、子どもとの楽しい思い出や子育ての愚痴を話す友人の顔には罪悪感の表情が浮かぶ。

この友人は、彼女の人生、つまり子どもを産んだという彼女の選択が私を悲しませることにはならないということが理解できないのだ。

妊娠、子育て以外にどんな問題があるのかという表情

勤務先の病院で、女性が働きやすい職場づくりのための会議が開かれた。妊娠や子育てのほかに、病院で働くすべての専門職の女性をサポートできそうなことはないか尋ねたところ、みんなぽかんとした顔を返してきた。妊娠、子育て以外にどんな問題があるのかという表情だった。

職場で注力される改善すべきことが「母である」ことにだけ一点集中してしまうと、隔絶につながると考えるようになった。

医療分野では特に、働くママの視点やサポートを得られないというありがちな状況について多く取り上げられてきた。そのどれも注目されるべき大事な問題だ。けれど、その影で見落とされてしまっている女性が直面する問題はたくさんある。賃金格差、昇格や昇進、適切な支援や指導の欠如など、すべての女性にとっての課題は山積したままだ。

職場での女性の活躍を推し進めるにあたってのただ一つの焦点が、仕事での成功を増やすことではなく、仕事と境界線をつくることで「真」の天職と目的である母親業に戻すことにありそうだ。

職場では私の生殖についての判断についていろんな会話が交わされるが、なかでも最も多いのが私が間違っているというものだ。「毎日子どもたちを相手にしているから、あなたなら子育てがうまいはず」とも言われる。

43歳になった私にかけられる言葉は、「母親になるにはまだ間に合う」だ。子どもなしでは気づかないほどの深い愛情が存在するからと、子どもを持つように説得しようとしてきた人もいる。

科学が進歩して妊娠時期を先延ばしにできるようになったことは喜ぶべきことだ。だが、子どもを持ちたくない人にとっては、先延ばしにした妊娠は複雑さが伴うことを示すデータは一瞥する以上の意味合いがある。

女性医師は出産を遅らせる傾向が強く、不妊や流産、妊娠合併症を経験する割合が一般女性よりも高い。出産にまつわるこれらの側面については、背中を押す「説得」があれば私が子どもを持ちたいと思うようになると考える人たちとの会話ではまったく話題にのぼらない。この人たちは、私が十分に調べ、必要な情報を集めたうえで自信をもって決めたとは考えない。

本当のところ、子どもが欲しくいないという確信がいつもあったわけじゃない。母親になりたいと思ったこともある。でも、この事実は自分の胸にしまっている。明かせば、子どもが欲しくないということに密かに不安を抱えていることの確固たる証拠だと解釈されてしまうから。

しかし、これだけは言っておこうと思う。世間が言うように、明るい光が灯って母親になりたいと確信すると、私もかつては考えていた。光は何度か灯ったけれど、思っていたほどの輝きはなかった。

私自身がこの人生で何を望んでいるかが大事

2020年に新型コロナ感染症によって世界が破壊されていく様を見て、私の人生に非常に大きな意味を持たせてくれている医師としての仕事に改めて打ち込んだ。

女性のからだと選択を取り巻く政策が刺々しいものになるのを目の当たりにし、友人や見知らぬ人、大事な人たちとのこれまでのやりとりのすべてが、女性が何を望むかではなく、女性たるものこう生きるべきという文化的信念に基づいていることを思い出した。

人生に最も価値を与えると他人から言われたものではなく、私自身がこの人生で何を望んでいるかについて真剣にじっくり考えてみたとき、子どもを欲しいかもしれないと感じた光は、もう灯ることはなかった。

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筆者のケイトリン A. スミスさんは北アメリカの外科医であり、作家でもある。外科医としての研修や経験についてつづったエッセイは医療関係者向けのウェブサイトDoximityに掲載されている。現在、実際に見聞きしてきた医療に携わる女性の人生と経験についての本を執筆している。

ハフポストUS版の記事を翻訳しました。