「気分が落ち込むのはみんな一緒」
惨めなほどの恐怖に襲われ、足が鉛のように重く感じられ、散歩に出かけるのもつらいと打ち明けた私に母が返してきた言葉だ。
当時、私は32歳。凍てつく氷に覆われたニューヨーク州バッファローで暮らし、気持ちが滅入る英語学の博士課程をなんとか頑張っていた。束の間の眠りに落ちることができるベッドが、私にはとても大切なものだった。
「みんなが落ち込んでるわけじゃない」。母に言い返した。
これには確証があった。(歩行者天国にするなどして開かれる)ストリート・フェアで、赤ちゃんを前向きに抱っこした男性を見かけたことがある。季節は冬。赤ちゃんは白い防寒着に包まれていて、まるで「冬のヒトデ」のようだった。何気なく赤ちゃんをあやし、頭のてっぺんにキスする男性の目には平和が宿っていた。幸せなんだとすぐにわかった。あの日のあの瞬間、彼にとって生きているということは素晴らしいことだったはずだ。
私は彼が幸せだと分かった。その瞬間、彼にとって生きることは素晴らしいことだった。
「彼らも落ち込んでるのよ。ただ隠しているだけ」と母は主張した。
神経質なアイルランド系ボストン市民の母は、人生のトラブルには文句を言わず耐えるべきだという考えの持ち主だった。母はつらい子ども時代を生き抜いてきた。継父に虐待を受けていたのだ。それを母親(私からすると祖母)に伝えても、「気のせいでしょう」と言われ、取り合ってもらえなかった。大人になり、それくらい気にすることじゃないと考えるようになった。
祖母に比べると、母は優しかった。小さいころに落ち込んでいると、陶器のカップにミルクたっぷりの紅茶を淹れ、私が抱えている心配事に耳を傾けてくれた。愛されていると感じ、安心できた。
悩みを聞いてくれはしたが、母から勧められたのは感情を追い払うということ。思ったほど悪いことなんてないでしょ?お茶の時間が終われば、くよくよせずにまた毎日を生きていくのだ。
「みんなが落ち込んでるなんて信じたくない」という私に、母は「でも、それが真実」と主張した。
それでも私は首を横に振った。「希望」こそが、私が生きるために握り続けてきたお守りだったのだ。
苦悩のはじまり
苦しみが始まったのは大学生の時だった。まるで風邪にかかるかのように始まった。教室で友人と気軽におしゃべるしていたかと思えば、次の瞬間、ベッドで丸まって口が利けない状態になった。20時間眠り続けることもあり、起きるとルームメイトがしまっていたスナック菓子やチョコをあさった。
母は恐怖のあまり大学の学部長に連絡し、何とかしてくれと頼んだ。そして私はカウンセリングを受けることになった。
去ったはずの悲しみが、無感覚をもたらす低くたれこめた霧をつれて戻ってきた。ピンクやゴールドの輝きを放つ夕日がシャンプレーン湖に沈む様子を、母と私は車の中から見ていた。
「きれいに違いないんだろうけど、そう感じることができない」と口にした私に、母は魔法瓶からお茶をすすると「感じようとしないからよ」と言った。
バッファローに引っ越した後も、その「霧」はついてきた。すきま風の入るアパートの部屋で博士論文に取り組もうとしている中、絶え間なく声が聞こえてきた。
「あなたはずっと負け犬。太ってて醜い。できやしないよ。やっても恥をかくだけ」
この声は小さなサソリのように私の心を突き刺し、私は頭蓋骨を開いて脳に軟膏を塗って痛みを和らげたいとさえ思った。気分の落ち込みは強い不安感と機械的な音と共にやってきて、何か破壊的なことが起ころうとしていると告げる。死への思いは絶えず、私は方法や計画を考えることで、暗い慰めを得ていた。
しかし、母はどうだろう?
我が家に存在する闇
「あなたは私のすべて」
私が3歳の時から母にその言葉を繰り返し聞かされていたため、私の意識に埋め込まれていた。一人っ子だったため、母のために生き続けることは私の義務だと分かっていた。
「家系かもね」
私はやっと口にした。「うちの家族では、みんなが落ち込んでるかもね」
そう思ったことは前にもあった。我が家は何かと陰鬱で、お酒が主な解毒剤だった。結婚式での陽気な話や楽しさの中にも、哀しみが存在していた。
薬物、仕事、食べ物...私たちはそれぞれに治療法を探した。しかし、医者の診察や処方薬だけは誰も求めなかった。それはタブーだった。閉鎖に追い込まれるほど悪名高い地元の精神病院に入る人のものという認識だったのだ。
「そうかもね」
母はようやく、私たち家族に存在する闇を認めた。
なぜなら、母は死を思いながら日々生きることで苦しみが弱まることを知っていたのだ。1960年代、母はドイツ車の赤いカルマンギアを買い、猛スピードで走っていた。バックミラーに一体何が見えてきたのだろうか。継父?不本意な結婚生活?それとも叶わなかった作家になるという夢だろうか。
励ましに反発する私に、母は「あなたの問題は何も問題がないことね」と言い放った。苦悶の表情を浮かべる私に、母は恐怖を感じているのがわかった。
回復への道のり
私は母に助けを求めにいくのをやめた。40代になり精神科医を探し、薬物療法と瞑想を始めた。そして双極性障害と診断された。
ネットで14足の靴を買い、恋人に気づかれないようクローゼットに隠した事、そしてその時の強い高揚感も、これで説明がついた。徹夜で原稿を書き続け、偉大な小説を書いたと確信したその後、その内容が支離滅裂なものだと気づいたことも、突然理解できるようになった。
薬のおかげで症状は改善し、春には、ブルックリン植物園を毎日散歩した。まずは紫のクロッカス、次に赤や黄色のチューリップ、それからピンクの桜、そしてライラックが花開くのを見た。
14歳のときから苦しんでいた摂食障害も回復に向かった。自分の診断について母に話したことはない。母の反応が怖かったからだ。きっと首を横に振り「大袈裟すぎる」と言うだろう。
私の精神疾患は、バランスを保つために常にメンテナンスが必要だ。質の良い睡眠をとり、毎日散歩し、友人と連絡をとり、医師に正直に話す。しかしたまに油断して日課が乱れると、バランスを崩してしまう。またうつ病のローブをまとい、ベッドに向かう。何年もの間、私は万が一の時のため、大量の薬を引き出しに蓄えていた。
母の1つの「お願い」
ある晩、私と母はワインを飲みながらリラックスし、真実を語り合う雰囲気になった。母をセラピスト扱いするのをやめてから、私たちの関係は改善した。
「お願いしたいことが1つだけある」
母はゆっくりと言った。私は母が何を言うか見当もつかなかった。
「もし、あなたが『やろう』と決めた時、本当に決心した時には、最後に1つだけお願いを聞いてほしい。私に電話をかけてきてもらいたい」
このような話をしたのは何年ぶりだろう。
「本当に苦しい時があるのは分かってる」と母は言い、「私に電話して。話した後、それでもやりたいなら、止めようとはしない。あなたの人生だから、自分で決めればいい」
私たちはワインを口にした。
その瞬間、私の中に大きな安堵感が流れ込んだのを感じた。母がやっと、私が経験していること、ずっと経験してきたことを現実だと認めてくれたのだ。
この母の「お願い」は、私と死の間に「1本の電話」をはさんでくれた。
母の「電話をかけてきてもらいたい」という一言は、私の人生の息を吹き返させてくれた。
自分の死が母に何をもたらすかを心配することはよくあったが、自分のために生きようという気持ちが芽生えたことはなかった。
この会話は私を変えたが、母との関係を完全に変えることはなかった。母に自分の診断について話すことはまだ怖かった。ある日、ふとその事を口にしたが、母は沈黙しただけだった。
母はまだ、悪い考えは「気持ち」で追い払えると信じていた。精神的な苦しみはひとりで背負うものだと考える世代に育ち、幼少期の虐待に黙って耐え、夫が去る悲しみを堪えて進んできたのを見てきた。そして認知症が徐々に母の心を奪っていった時、母は怒りを見せたが、決して泣くことはなかった。母の対処法は「助けを求めないことが強さ」という考え方に基づいていた。それは私とは違った。
しかし、母は私たちの間にあった沈黙を破り、「話すべきではないこと」について語った。そして、それが私を救ってくれた。回復の過程で学んだように、「私たちは抱える秘密の分だけ苦しむ」のだ。
母は3年前に他界した。私にはもう守るべき約束はない。しかしそのかわり、自分との新たな約束がある。
人生に必死にしがみつき、その決意が弱まるたびに警報を鳴らしてまわりに知らせる。鳴らし方は自分で学んだ。必死になる力は、母から学んだ。
ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。
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生きるのがつらいと感じている人や、周りに悩んでいる人がいる場合、以下のような相談窓口がある。
・厚生労働省 相談先一覧
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