私は22歳の時、生まれ育ったニューヨーク州ロングアイランドのハンティントンビレッジにある鉄板焼きレストランで、接客の仕事をしていた。
孤独で退屈な仕事だったけれど、キャロット・ジンジャー・ドレッシングを好きなだけ食べられるのが気に入っていた。
当時、自分の意思で減量を始めて1年以上が経っていた。その2年前に半年間入院したバージニア州の病院でも、減量治療が施されていた。ただしそれは、私の過食症に対する適切な治療法ではなかった。
私は8歳の時から、自分の体がいかにひどいかを聞かされ続けてきた。
減量プログラム「Weight Watchers(ウェイトウォッチャーズ)」をやらされ、病院や栄養士のところに連れて行かれ、痩せなければ幸せな人生は送れないと警告された。
周りの人たちは私を見て笑い、見知らぬ人に車の中から罵られた。
医師はしょっちゅう私を叱り、私ほど太っているのがどれほど危険かを理解していないと忠告した。
羞恥心や強制的なダイエットは私を救ってはくれなかった。重い摂食障害に苦しみ、メンタルヘルスが悪化した私は、12年間に何度も入院して2度自殺未遂した。
「あなたはそのままでは存在するに値しない」と言われる世界で、私はどうやって生き続けたらよかったのだろう?
19歳の時、私はハンティントンビレッジにあるレストランの求人に応募した。
面接で私の姿に目を丸くしているオーナーを見て、不採用になるだろうと悟った。
その後の30分、オーナーはレストランの上にある小さな部屋で、向かい合った私の体の大きさにおびえ、笑いながら「テーブルの間を通り抜けられますか?制服は着られるの?」と叫ぶように尋ねた。
座ってその言葉を聞いた私は、面接のお礼もそこそこにレストランを飛び出し、車に戻って「二度と求人には応募しない」と泣きながら誓った。
この面接の後に私は摂食障害を再発させ、3カ月後にバージニア州の病院に入院した。
私はこの病院で、すべての規則に従う優等生の患者だった。優等生だった理由の一つは、従わなければどんな罰を受けるかわからなかったからだ。
規則に従わない患者が、部屋に閉じこめられたり、自由を奪われたり、虐待されたりするのを見てきた。
病院にはさまざまな規則があり、ベッドメイキングやリーダーシップを学ぶ機会など、退院後も役立つものもあれば、そうでないルールもあった。
体重の増減にも厳しい目が向けられた。少しでも体重が減らないと「食べ物を盗み食いしたんだんじゃないか」「部屋に隠しているんじゃないか」「他の人の食事をこっそりくすねたのではないか」などと追求された。
そんなことをすればひどい罰を受けるとわかっていたので、やってみようなんて夢にも思わなかった。
重要なのは規則が有益か有害かではなく、言われた通りにやること。それが唯一うまくやるための方法だった。
意味のわからない規則や恐怖を感じるルールもあったけれど、作られたシステムに従っていればうまくいった。
それでも、退院して家に戻るとすぐに摂食障害は再発した。いつもそうだった。家に戻ると元通り。厳格なスケジュールなしに病院以外で生きていくのは不可能だと感じていた。
それを変えたのが、あるカフェでのバリスタの仕事だった。私はこのカフェで、生きる目的や仕事への意欲、友人を見つけた。
治療だけの生活ではなくなり、私はそれまで周りから「こうあるべき」と言われてきた体になろうと決心した。
体重を減らすために、減量を「回復」と呼ぶことにした。実際のところ、回復などではなかったのだけれど……。
体重が減るにつれて別人のように扱われ始めた。168ポンド(約76キロ)減量した時、初めて世界の中に自分の居場所があるように感じた。ただ、少々自分を見失っていたようで、気づけば飲食店での接客業を2つ掛け持ちしていた。
その土曜の午後、鉄板焼きレストランは満員だった。入り口から歩道へと延びる長い列を見て、私はパニックに陥っていた。先頭は2人組、その次は4人、それから8人家族......列は伸びる一方で、案内すべき場所を把握しきれなくなっていた。
その時、見覚えのある顔に気づいた。ストレートのブロンドヘア、額のそばかすを隠すように前髪を切りそろえたその女性は、高校時代の同級生ブレンダだった。ブレンダは私と目が合うと両腕を上げ、それぞれの指に巨大なリングをつけた細い手で顔を覆った。
「サラ!」
ハンティントンビレッジは地元であることをあまり意識せずに働ける街だった。特に高校卒業後の数年は、ほとんどの同級生は大学に通っていた。一方私はスクール・オブ・ビジュアル・アーツを2カ月で休学し、3つの病院や治療センターに入院した。
それでも、この日のように高校時代の同級生と出会うこともあった。
「サラ!だよね?」ブレンダは興奮したように尋ねた。
私は手を軽く振り、微笑み返してぎこちなく笑った。
「ハハハ...…ブレンダ」
私はブレンダが「久しぶり!元気だった?」と言うだろうと思っていたが、そうではなかった。彼女は突然泣きだした。
彼女は久しぶりに会ったから泣いたわけではなかった。仲が良かったからでもない。私の体を見て泣きだしたのだ。
長い間、社会に、両親に、医者に、友人に、同級生に、そして見知らぬ人にも受け入れられなかった私の体が、受け入れられるようになっていた。それを見て泣いたのだ。
ブレンダの涙は「痩せたことで、私の問題が解消された」ことを意味していた。そう、痩せるとは問題の解決なのだ。
私は痩せた後、一日の制限カロリーを超える量を食べたり、体重計の数値が変わらなかったり増えたりするたびに強烈な自己嫌悪に襲われていた。
それでも痩せていれば、誰も私の体に文句は言わなかった。周りから浮いていなかった。それはつまり、私には問題がないという意味だ。そういうことですよね?
ブレンダの涙を見て、私はどうしていいかわからなかった。自分は肯定されているんだろうと感じた。私が努力したことで、大して仲が良かったわけでもない同級生が涙を流している。だから私の進んでいる道は正しいのだ、と思った。
だけど本音を言えば、耐え難い苦痛を感じていた。
ブレンダと再会する前から、私の中でこの矛盾する感情が絶えず生じていた。昔の知り合いと会うたびに、似たような体験をしていた。
知り合いたちは私の容姿を褒めたたえ「がんばって!」と言った。それを聞いて私は「痩せる前はどう思っていたのだろう」と考えざるをえなかった。
自分がどう思われているかわかっていた。痩せた後も、太っていた頃の自分は体の細胞の隅々にまで住み着いていた。太っていた頃の自分は、痩せた自分に、「昔と違う摂食障害を抱えている」と思わせないようにしていた。
ブレンダは「ごめんなさい...…。ただ...…」と言って、涙をぬぐった。
私はブレンダに走り寄り軽く抱きしめた。私の体のせいで泣かせてしまったのだ。ブレンダが涙をふきながら「すごく素敵になったね!」と言うのを見ながら、私はどうか空席待ちのお客の注意を引きませんようにと祈った。
「自分の体は自分で決められるものではない」。それに気づくのに何年もかかった。自分がどう感じるか、どう食べるか、どう動くかは、他人の意見に左右されるものなのだ。
幼い頃の写真を見返して「この可愛くて明るい女の子が、ありのままの体では生きるに値しない醜い怪物だと思い込まされるようになるのだ」と気づくのに、何年もかかった。
だけどレストランでブレンダに会ったあの瞬間、私は「正しい存在」として扱われたことに屈辱を感じた。混乱し、確信した。痩せている私は善で、太っている私は悪なのだと。
私は自分にこう言い聞かせた。これから先もずっと、体重を気にかけ食事制限を続けなければいけない。痩せ続けなければいけない。たとえ自分が嫌になったとしても。世界に愛してもらうためにはそうし続けなきゃいけない。そうすれば世の中はあなたを愛してくれるし、あなたの姿を見て泣くだろう――。
あの午後の再会から16年間、私は減量が自分に与えた悪い影響を直視せざるをえなくなった。
食べ物と良い関係を築くことは不可能に思えた。太っているか痩せているかで周りの接し方が全く異なることを知り、恐怖と戸惑いを感じた。
やがて、世の中に反ダイエットとボディアクセプタンス(ありのままの体を受け入れる)の動きが広まるようになり、私も注目した。肥満を忌み嫌う社会が作った危険な理想に、自分が深く傷つけられてきたんだと実感した。
減量した体重の半分近く増え、私はありのままの自分を愛して受け入れることに全力を注いだ。暴飲暴食や食事制限をやめ、食べ物との“普通”の関係を築こうとした。
自分の経験を仕事に活かそうとヘルスアドバイザーの資格も取得した。だけどすぐに辞めてしまった。
実際のところ、私は自分を愛していなかったし、受け入れてもいなかった。毎晩ベッドで泣きながら、もう一度痩せたいと願っていた。太っていても痩せていても、私の体には他人からの意見や、不名誉、称賛、危険がつきまとった。
どんな仕事をしても、どんなに治療やセラピーを受けても、自尊心と体のサイズを切り離すことはできなかった。自分で自分を受け入れられていないのに、他の人々が自分の体を受け入れる手助けはできなかった。
最近警戒しているのが、セマグルチドをはじめとする減量薬の人気が高まっていることだ。この動きが、私たちのような「許容範囲外」とされる体型の人たちに影響を与えるのではないだろうか。
ようやく広がり始めたボディアクセプタンスやボディポジティブの動きは、(おそらく致命的に)後退しており、ランウェイやテレビ番組に登場し始めたプラスサイズのモデルやタレントは、最近あまり姿を見なくなった。
6、7年前、私は今の時代を生きる子どもたちは自分の身体と健全な関係を築けるようになるだろうと思っていた。だけど今は確信が持てない。
手っ取り早く減量できる治療法が、ボディアクセプタンスの動きを後退させたと思う。私たちの社会は、表向きは多様な体を受け入れ始めているように見えていたけれど、本音で話す場所では何も変わっていない。
BMI(肥満指数)が、健康を正確に測る指標ではないことはわかっている。痩せていれば健康という神話も崩れ去った。
それでもこの4年間、私は数えきれないほどの医療関係者から体を否定されてきた。医師からオゼンピック(糖尿病などの治療に使われる薬)を勧められたこともある。
ある歯科助手は、私の口の中の状態を褒めた後に、「ジャンクフードを食べるのをやめなさい」と言った。私の食生活を知っているはずはないから、明らかに私の体格を見てそう言ったのだろう。
私のこれまでの摂食障害を知っている胃腸科の医師は、「夕食を抜いたほうがいい」と言った。
不妊治療クリニックでは、BMIが下がらない限り、体外受精はできないと言われた。ショックを受けた私は、絶望して、カロリー計算や食事制限をするようになった。そんなことはしない方がいいとわかっていた。もし子どもが生まれても、食べ物や自分の体を怖がる母親にはなりたくない。
自分の体を自分のものと感じて生きるのがどういうことか、理解できる日が来るかどうかわからない。
見知らぬ人に「体重を減らした方がいい」と言われたり、痩せて知り合いから褒められたりうれし泣きされたりした記憶を、葬り去れる日が来るかどうかもわからない。だけど、いつかそんな日が来てほしい。
いつの日か、何が正しいかを自分で決め、自分らしく感じられる身体で朝を迎えたい。
そしていつの日か、太っているか痩せているかは問題じゃない、誰もがありのままの体で平和に存在できるのだという考えが当たり前の社会になることを願っている。
※このエッセイでは個人のプライバシーを保護するため、登場人物の名前や詳細を一部変更しています。
サラ・ロメオ=ホワイト:ブルックリンで夫と猫と暮らすライター。Refinery29、Buzzfeedなどに寄稿。ウェブサイトsararomeowhite.com
ハフポストUS版の寄稿を翻訳しました。