7年前、あるプロサーファーが福島の海に帰ってきた。
東日本大震災の津波で自宅は流され、原発事故で実家には避難指示が出た。一時は塞ぎ込み、気を取り直して出場した海外の大会で「福島出身はクレイジー」と罵られたこともあった。
それでも「福島のサーフィン文化を残したい」「福島の子どもたちに地元の海の楽しさを伝えたい」と決意し、サーフボードと共に慣れ親しんだ海に戻ってきた。
東京電力福島第一原発の処理水の海洋放出から1年。「福島」という文字の上で政治的な“空中戦”が交わされる中、地元には復興を諦めず、日々コツコツと努力し、奮闘している人々がいる。
地元の人たちが思う福島とは何か。あるプロサーファーの話から紐解いていく。
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「先日、北泉でライフセーバーをしていたら、おばあちゃんがカニを見せてきたんです。『孫がつかまえたのですが、食べられますか?』と聞かれて……」
8月14日午後、福島県南相馬市原町区の小野田病院。トレーナーとして働くプロサーファー・佐藤広さん(42)の顔がほころんだ。
北泉は全国有数のサーフスポットで、東日本大震災の前までは毎夏約8万人の海水浴客で賑わっていた。津波で壊滅的な被害を受けたが、2019年に9年ぶりに再開した。
「さすがに食べられるかどうかはわからないと答えたのですが、世間話をしていると『孫と東京から来たんだよ』と嬉しそうでした。『ここの海は本当に綺麗だね』って」
佐藤さんはなんとなく気恥ずかしく思い、「海が綺麗なのは人口が少ないからですよ」とおどけて返事をしたという。だが、噛み締めるようにこうも続けた。
「ようやく県外の海水浴客の姿がちらほら見え始めたのですが、あの日のことを思うと海でこんな会話をできるようになって嬉しいですね」
飯舘村から北泉に通った学生時代
佐藤さんは福島県飯舘村で生まれ育った。阿武隈山系北部の高原にある自然豊かで美しい村で、1年間の平均気温は約10度と冷涼な気候をしている。
冬には、家の隣にスノーボードのジャンプ台「キッカー」を作れるほど雪が積もった。当然のようにスノーボードを始めたが、年齢が上がるにつれて同じ「横乗り」のスポーツであるサーフィンにも興味が湧いてきた。
海とは縁遠い地域のように思えるが、飯舘から北泉までは30キロほど。車を1時間も運転すれば着く。夏になると、飯舘から車でサーフィンに向かう先輩たちもいた。
中学3年の時、そんな先輩たちにお願いし、初めて北泉に連れていってもらった。山ではなく海。雪ではなく波。スノーボードとはまた違う雰囲気や楽しさに気分が高揚し、うまく波に乗れると胸の中が「最高」という言葉で埋め尽くされた。
それからは土日が来るたびに片っ端から電話をかけ、先輩たちと北泉に向かった。あまりの熱中ぶりに、「オリンピック競技でもないのに……」と言っていた親も、先輩たちの都合が悪い時は北泉まで運転してくれた。そして今、サーフィンはオリンピック競技になった。
「吹雪にならない限り海に入っていた」
高校を卒業して数年後、佐藤さんは念願だった北泉のそばに移り住んだ。1階はガレージ、2階に居住スペースがあるこぢんまりとした家だ。トラック運転手などで生計を立て、来る日も来る日も海に向かった。
北泉の魅力はなんといっても「いつも波がある」ことだ。隣接する原町火力発電所の防波堤から良質な波が発生し、海面が穏やかな「フラット」は1週間も続かない。サーフィンが1年中できる環境は全国的にみても珍しい。
地元有志も地域資源のPR活動に励み、2006年にはサーフィンの国際大会が北泉で初めて開かれた。海の近くに住んでいた佐藤さんの家にはプロサーファーたちが連日集まり、国内外の海の魅力を語ってくれたという。
「プロになればスポンサーがつくこともある。世界中の海で日の丸を背負ってサーフィンをしてみたい」ーー。福島の海から世界の海へ。プロへの意識が芽生えた瞬間だった。
もちろんプロになるのは簡単ではない。10年以上トライして報われない人もいる。だが、佐藤さんは上手なサーファーと一緒に海に入り、テクニックを見て聞いて学び、冬でも吹雪にならない限り毎日練習した。
「他の地域は冬でも3時間は海に入ることができるけど、東北は2時間も入ると手足の感覚がなくなります。それでも他の地域のサーファーに差をつけられたくなくて、ほぼ毎日海に入ってました」
人一倍努力した成果は2009年に表れた。中学3年で初めてサーフボードに触れてから12年後、ついにJPSA(日本プロサーフィン連盟)ロングボードのプロとなったのだ。
北泉が全国から脚光を浴び始めたのもこの頃からだった。2006年の国際大会の映像を見たサーファーたちに「北泉ってこんなに良い波に乗れるの?」と“バレた”。ビジターサーファーも訪れ始め、一つの波を3〜4人で“争う”ようになった。
サーフィンを軸にした街おこし「サーフツーリズム」。一気にエンジンがかかり、佐藤さんの気持ちは「自分も北泉もこれからだ」と上向いていた。しかし、2011年3月11日、沿岸部を大きな津波が襲った。
津波が「来る」。警察署まで車を走らせた
震災当日の3月11日、佐藤さんはいつのようにサーフィンをした後、自宅2階で昼食をとっていた。すると突然、海のほうから突然「ゴゴゴ」という地鳴りが聞こえてきた。
「地鳴りの音がだんだんと大きくなり、『家まできた』と思った瞬間に激しく揺れました。とても長い揺れで、部屋の中にあった物は床に散乱。家が潰れると身構えました」
揺れが落ち着いた後、佐藤さんは直感的に「津波が来る」と確信した。地鳴りが海のほうから聞こえたからだ。ただ、「さすがに(居住スペースがある)2階は浸水しないだろう」と、貴重品だけ持って家の鍵を閉め、車に乗った。
途中、近所の高齢女性に出会った。「津波が来るから一緒に逃げよう」と声をかけ、一緒に最寄りの警察署まで避難した。「ここなら何かあっても大丈夫」と安堵したのも束の間。警察署の屋上から海を見ていた警察官が突然大きな声を出した。「きた!きた!津波が来た!」
警察署のそばを走る車も窓を開け、「逃げろ!」と叫んでいた。そんなに大きい津波がくるのか。せいぜい膝下くらいではなかったのか。体が強張り、とにかく海から遠くへと車を走らせた。
高台にある友人宅を訪れると、ほかにも逃げてきた友人が身を寄せていた。落ち着いたら自宅の被災状況を確かめようと話していたが、翌12日、東京電力福島第一原発事故が発生。佐藤さんは友人たちと「絶対また会おう」と約束し、そのまま東京都内に向かった。
「サーフィンはもうできないのか」
南相馬市によると、市内は震度6弱を観測。636人が津波に巻き込まれるなどし、震災関連死を含めると犠牲者は1157人にのぼる(2024年3月31日現在)。
北泉海岸は大きな被害を受け、佐藤さんの自宅も流された。その後の原発事故により、市内の一部や佐藤さんの実家がある飯舘村などには避難指示が出た。
佐藤さんは都内に住むパートナーの自宅に身を寄せていた。気づけば半年が経っていた。だが、鬱々とした状況から抜け出すことはなかなかできなかった。
自宅やサーフィンのアイテムも流された。朝晩はだんだん寒くなってきた東京の季節が妙に体にこたえた。「自分はどうしたらいいのか。サーフィンはもうできないのか」ーー。
そんな時、携帯電話が鳴った。サーファーの先輩からだった。
「何してるの?」
「何してるのって……。家も流されてどうにもならないよ」
「サーフィンしないか?海の近くのアパートを貸すことができるんだ」
思ってもみなかった突然の提案。一瞬だけ前のめりになる気持ちになったが、すぐに「故郷は苦しんでいるのに自分だけサーフィンを楽しんでいいのか」という感情とないまぜになった。
でも、このままでいいわけがない。先輩は自分をこの状況から引っ張り上げようとしてくれている。とりあえず海に入って考えよう。一呼吸置き、「じゃあ、行きます」と伝えた。
場所は、千葉・鴨川だった。鴨川は、1966年に日本初のサーフィン大会が開かれた「日本近代サーフィン発祥の地」。1960年頃、横須賀基地の米軍関係者がサーフボードを持ち込み、少年たちの間で広まったとされる。
佐藤さんはそんな“日本のサーフィンの原点”とも言える海で、震災後初めてサーフィンをした。鴨川の海は、北泉より少しだけ温かった。周囲を見渡すと、大勢のサーファーたちができるだけ良い波に乗ろうとパドリングしていた。
津波で大きな被害を受けた地元を思うと、複雑な心境がなかったわけではない。ただ、海に戻れたことで少しだけ気持ちが軽くなった。友人たちも自分のためにサーフィンのアイテムを譲ってくれ、住む場所も紹介してくれた。
「やっぱりこのまま何もやらないのはだめだ。福島のプロサーファーとして、サーフィンができない人の分まで全力でサーフィンをやるべきだ」
一度海に入ると、これまで溜め込んできた気持ちがウワッと溢れた。まずはサーフィンを再開しようと、鴨川に拠点を移すことにした。
植木屋をしながら生活費を稼ぎ、プロツアーへの参加も再開。心の中で福島代表を背負い、海外の大会にも積極的に出場した。
福島の子どもに地元の海の素晴らしさを
津波で壊滅的な被害を受けた北泉も、一歩ずつ震災前の姿を取り戻していった。「復興祭」と名付けられた震災後初となるサーフィン大会が2015年に開かれるなど、地元のサーファーたちを中心に海が賑やかになってきた。
佐藤さんもその頃から時間を見つけては北泉に駆けつけた。「相変わらず北泉の波は最高だな」ーー。震災直後の惨状を思い返すと、確かに復興の足音を感じることができた。
しかし、一つの波を複数人で争うことはなくなった。震災前は150〜200人ほどのサーファーが海に入っていたが、見渡しても20人ほどしかいない。夕方に散歩する高齢者や子どもの姿も見かけなくなった。
一方、鴨川に戻ると、多くのサーファーたちが波に乗り、キッズサーファーも地元の海を全力で楽しんでいる。どうしても北泉の光景と比較してしまい、「このままでは福島のサーフィン文化は終わってしまう」と危機感を持った。
ただ、自らも鴨川に馴染み始めていた。決して故郷への思いが薄くなったわけではない。鴨川は地理的に各地の大会に行きやすく、冬でもずっと海に入ることができた。スポンサーの誘いも多かった。
人生の岐路に再び立たされたが、佐藤さんは国内外の海を回ったことで、自らのことだけではなく、サーフィンを通した地域の振興にも目を向けるようになっていた。
地域の活気は若者や子どもたちがつくり、将来に受け継いでいく。北泉では、その若者や子どもたちが海から離れていっている。福島のプロサーファーがこのまま鴨川にいていいのか。
自らに改めて問いかけ、決断した。「北泉に帰ろう。子ども達は福島の海を知らない。地元の海を嫌いになってほしくない」
「海って本当にしょっぱいんだね」
2017年、佐藤さんは北泉に戻った。1年後には子どもたちに無料でサーフィンを教える活動を始めた。市役所とも連携し、現在も「福島の海でサーフィンをしたい」「地元の海の楽しさを感じてほしい」と子どもや親からの要望が相次いでいる。
2022年に公開された動画にも、佐藤さんが「初めてのサーフィン」に挑戦する子どもたちに「リラックス、リラックス」「大丈夫、落ち着けばできるから」と笑顔で声をかけ、背中を押す様子が収められている。
佐藤さんの指導のもと、子どもたちは「スープ」(白い泡のたった波)に乗ってロングライドできた。手を叩いて「やったー」と喜ぶ子どもたちの父親。初めてのサーフィンは間違いなく親子の大切な思い出になったようだ。
北泉海水浴場が2019年に再開して以降、佐藤さんは震災前から続けていたライフセーバーも再開した。初めて海水浴を経験する地元の子どもも多く、「海はどう?」と聞くと、「本当にしょっぱいんだね」と笑顔で返してくる。
当初は「それだけ海が遠い存在になっているんだな」と戸惑ったが、子どもたちは初めての地元の海の“味”を知ったのだ。「これからも存分に楽しめばいい。せっかく素晴らしい海があるのだから」
福島出身は「クレイジー」と言われた
佐藤さんは震災と原発事故後、屈辱的な経験も散々してきた。
海外の大会で福島出身だというと、「Crazy(クレイジー)」と言われた。福島の海でサーフィンをしていると言うと、「Are You OK?(大丈夫?)」と首を横に振られた。
帰国しようとしたら、「福島に帰ったら死ぬぞ」と本気で止められたこともある。国内でも「汚染水が出てるんでしょ」と散々聞かれた。
その度に地元のサーファーや海で遊ぶ子どもたちを思い出し、「こんな経験を子どもたちにさせたくない」という気持ちになった。福島の子どもたちは、決して危ない海で遊んでいるわけではない。
「北泉がまた一つ壁を乗り越えるためには、このような誤解を解いていかなければならない」
サーファーも、海水浴客も、ローカルも、ビジターも、大人も、子どももとにかく北泉で楽しんでほしい。北泉は、誰にでも堂々と誇れるホームビーチなのだ。
そのために、佐藤さんがプロサーファーとしてやることは決まっているという。
「ネットワークをいかして国内外のサーファーに声をかけ、まずは福島に来てもらう。そして『ここの波は最高だ』と発信してもらう。そうすれば、また活気のある北泉に戻っていくのだと思います」
◇◇◇
福島第一原発の処理水の海洋放出から1年が経った。しかし、一部の政治家や記者らはいまだに「汚染水」などと発信している。
わざわざ海外で福島の危険を煽る政党もあるが、これらは安全性を否定する科学的なデータに基づいて行動しているわけではない。原発政策を含む政治的な主張に福島を「利用」している面が大きい。
今回の取材を通し、それらの被害を被るのは福島の人々であるということが改めてわかった。根拠もなく危険や不安を煽る発信が、復興へと歩む地域の努力を阻害し、人々を傷つける。一方、傷つけた側は誰も責任を取らない。
私は昨年から今年にかけて、一部メディアが処理水を「Fukushima water」と英訳し、自社の英字媒体で発信した問題に関する記事を11本にわたって書いてきた。佐藤広さんにこのことを伝えると、「海外の人に福島の水全てが原発事故に関連するものだと思われる」と話していた。
「クレイジー」「帰ったら死ぬぞ」ーー。佐藤さんを含む福島の人々はこの13年間、あらゆる場面で差別や偏見を受けてきた。そうしたことを想像できていれば、決して処理水を「Fukushima water」と英訳することはなかっただろう。
そもそもこのような差別や偏見が生まれてきた背景には、メディアが福島の安全・安心に関する情報を正しく伝えていないことがある。福島を記事で取り扱うのであれば、政治的主張に利用せず、地元の人々の気持ちを置き去りにせず、安全・安心に関する正しい情報に向き合うことが必要だ。
私自身も福島を取材する記者の端くれとして肝に銘じ、今後も復興に向けた地域や人々の努力を見守っていく。(相本啓太)