海外では「夫婦別姓」の選択が可能なのに対し、日本では「選択的夫婦別姓制度」への法改正が長年にわたり議論されているが、いまだにその選択肢は認められていないーー。
以下は、アメリカの女性によるエッセイです。
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私が3月に、アメリカ・バーモント州にあるスタジオセンターのアーティスト・レジデンシー(一定期間滞在し、芸術活動を行う)に参加したときのこと。
夕食後は寝るまでの数時間を執筆にあてることを日課にするつもりだったが、代わりに仲間たちと一緒に共有スペースのソファに座り、テレビで「ラブ・イズ・ブラインド」を見るのに夢中になってしまった。
この婚活リアリティー番組をあーだこーだ文句を言いながら見るのは、重いテーマについて執筆し続けた長い1日の後にリラックスする方法だった。
「異性愛が当然」かのように描かれている同番組とはいえ、複数のシーズンを通じて、結婚後の改姓について疑問視する女性がほんの数人しかいなかったのにはショックを受けた。参加女性が「早くミセス○○さんになりたい!」と叫ぶのを何度聞いたことかーー。
これを見るまで、結婚と同時に女性が男性の名字に改姓するという慣習は、ミレニアル世代やZ世代ではあまり一般的ではないと思っていた。しかし、Pew Research Centerの2023年の調査によると、異性婚した女性の79%が夫の姓に改姓しているという。
もちろん、この慣習は私にとって新しいものではない。私は1980年代、ジェンダーやセクシュアリティ、女性の役割について厳格な考えを持つ、保守的で宗教的な家庭で育った。こうした環境では、女性は夫に従順であるべきとされた。夫の姓を名乗ることで、父親の所有物ではなく、別の男性の物になることを示す意味合いがあった。
1970年代には法や社会制度が変わり、これらの慣習に縛られなくてもよくなった。それにも関わらず、伝統的でも宗教的でもない家庭で育った女性の中にも、いまだに結婚後に改姓する人が多くいる。
足元では、大卒で経済的に自立可能な女性が増えているが、結婚後に配偶者の名字に改姓する異性婚した女性の割合は1970年代以前の数字に戻っている。
いつしか他人の期待に屈していた
9歳頃まで、私は周囲の性差別に抵抗していた。私は活発で自信に満ちていた。寝る前に聖書の箴言集を読んでくれる父に、代名詞を「彼」から「彼女」に変えてくれと頼んだこともある。
小学2年の時の担任の先生は、私のことをいつも「威張っている」「おしとやかじゃない」と批判した。私がレズビアンになるのではないかと母が心配を口にしているのを聞いたこともある。それは、母が私に「結婚したときには」という話をするたびに、私が「もし結婚したときには」と訂正していたからだ。
父はよく怒っており、母は精神的に苦しんでいた。そうした環境で、いつしか私は波風を立てるのをやめ、黙って協力的になることを選んだ。
まるで、自分が2人いるようだった。人には見せない本当の自分と、他人から期待されている人物を演じている自分だ。
21歳で結婚。口論の末、夫の姓に改姓
若い頃夢見ていたよう大学進学は実現しなかった。その代わり、私は21歳で24歳の夫と結婚した。
新婚旅行中、私の姓を夫の姓に変えるか否かで何度も口論した。以前にも話し合っていたが、実際に結婚するまで、私が姓を変えたくないという事実を夫は真剣に受け止めていなかったのだ。
夫には兄弟や従兄弟が多くいるのに対し、うちの家族の姓を継げるのは私1人だけしかいなかった。私が改姓すると、実家の家族の名字が途絶えてしまうと何度も伝えた。
私:「なぜ私の家族よりあなたの家族の方が重要なの?」
そう夫に聞くと、彼は肩をすくめて「分からない。ただ僕は、君と僕と子どもたちみんなが同じ名前であって欲しいだけなんだ」と答えた。
私:「それなら、私の姓に変えてよ」
夫:「それはしない。僕の姓を手放したりしない」
私:「でも私には手放せって?」
夫はまた肩をすくめた。
結局、私は屈して姓を変えた。新しい社会保障カード(日本のマイナンバーカードのようなもの)が郵送されてきたとき、それはまるで他人のもののように感じた。
私は自分にがっかりした。またしても、自分自身に忠実でいることを諦め、他人の期待に屈してしまったのだ。
大学に通い始めて生まれた変化
結婚して数年後、私は小学校で働き始めた。ある日、同僚が休憩室にパンフレットを置き忘れていった。それは地元の大学のパンフレットで、同僚が修士号を取るために進学を検討しているとのことだった。
それを読みながら、自分も大学に行って教育を受けることができるかもしれないと思い、入学を決意した。すると、自分に自信が湧き始め、これまで隠していた自分が姿を現し始めた。
私が育った家庭や宗教では、発言者を管理し、罰則によって批判的思考を制限することで、調和が保たれてきた。
大学で初めて、私は質問したり、思いきり自分を表現したりすることが奨励される環境に身を置いた。
私は授業が楽しみで、教授らは私の熱意に応え、サポートしてくれた。
大学3年の時、私はある英語教授のリサーチ・アシスタントを務めた。曖昧な事実を解明する私の能力は、教授を驚かせた。そうした小さな成果や承認の積み重ねにより、私は自分の可能性を信じられるようになっていった。
学士号を手に大学を卒業して間もなく、私は第一子を妊娠していることが分かった。
母になること、そして子どもと本当の関係を築きたいという思いは、大学生活以上に自分らしくいることを後押ししてくれた。
私は自分が育った宗教を離れた。これ以上信仰しているフリを続けることはできなかったし、私の子ども達が自分のように宗教によって傷つけられることも避けたかった。
自分を取り戻した
自分らしい人生を築き始めた私は、執筆活動を始めた。大学院に進み、卒業証書をもらい、出版物を出すようになると、そこに書かれた夫の姓を見るのが嫌になった。それらの功績が自分のものではないように感じたのだ。
結局、私はペンネームを使うことにして、名字は「Holliday(ホリデー)」とすることにした。旧姓にすることも考えたが、過去には多くのトラウマがあった。新たな名前で再出発した方が、人生における今の自分の現在地をよく表していると思った。
執筆活動である程度収入を得られるようになった時、法的に名字を「Holliday」変えると夫に告げた。仕事と私生活の苗字を統一した方が、支払いなどの面倒が減るから...と夫が理解を示してくれそうな理由を告げた。夫は不服そうだったが、結婚当時のような頑なさは少し姿を消していた。
私が小さな一歩を重ねてゆっくり自信を築いたように、夫もすぐに変わったわけではない。
私が大学に行き始めたとき、勉強に時間を割くことが夫にとってはつらく、よく「寂しい」と言われた。私が宗教から離れた時、夫は混乱し怒った。夫は私と信仰を共有していなかったものの、共に教会活動に積極的に参加していたからだ。
夫のイラ立ちも少しは理解できる。彼にとってみれば、他人を優先し、言われたことに従順に従う女性と結婚したはずだった。ところが、いつの間にか妻が自立した女性になってしまっていたのだ。
時間が経つにつれて夫は、私がより幸せであることがわかり、妻が人として成長していくことは自分を脅かすものではないと気づいたようだ。そして、私が改姓のため裁判官の前で誓いを立てる際に同行を頼むと、迷わず「いいよ」と言ってくれた。
夫はスーツとネクタイを着用し、私が裁判官の質問に答えるのをそばで見守ってくれた。夫の隣にいることに安心感を抱いた。その瞬間、改姓を求められた20年前よりも、夫に大きな敬意を感じた。
法的に姓を変えてから、通った大学での姓も変更し、新たな卒業証書をもらった。自分のサインをはっきり書き、額に入れて飾った。それまでは引き出しにしまっていたのに。
自分の改姓に1番上の子どもが続くとは思ってもみなかった。子どもが自分のファーストネームをノンバイナリーを反映するジェンダーニュートラルなものに変えると決めたとき、姓も私と同じ「Holliday」に変えることにしたのだ。
子どもは未成年だったため、法的に名前を変更することは、自分の時よりも骨の折れるプロセスだった。また、政治的に不寛容なテキサス州でこれを行うことには怖さも感じだ。
しかし、法的に名前が変更された後、どれだけ我が子が輝き始めたかを目の当たりにし、改姓の価値があったと感じた。
何かに名前をつけることは、所有権を示すことでもある。私が自分の名前を選んだとき、私は自分を「所有」し始めた。そしてそれが、大きな変化をもたらしてくれた。
ハフポストUS版の記事を翻訳・編集・加筆しました。