19歳。20歳、21歳。戦時中、そんな若さで「特攻隊」として命を落とした若者たちがいた。
日本の統治下だった台湾で生まれ育った中田芳子さん(93)は10代の頃、台湾で出撃を待っていた特攻隊員らと知り合い、レコードを聞いたり、他愛もない話をしたりして共に時間を過ごした。
生き残った元特攻隊員と戦後、再会して結婚した。夫は「自分は生き残ってしまった」という思いにさいなまれ、一生にわたり苦しみ続けた。
若くして命を失った特攻隊員たち。そして生き延びても自責の念に駆られつづけた夫をはじめとする隊員たちの存在を、「忘れないでほしい」と語る。
(初出:BuzzFeed Japan News 2022年8月15日)
父親が日本の統治下の台湾に戦前に移住。中田さんはそこで、10人きょうだいの6番目として生まれた。
出撃前の特攻隊員らの壮行会を慰問したのをきっかけに、特攻隊員との交流を始めた。
「その頃、日本軍は飛行機が足りず、特攻隊員たちは乗り込む飛行機を待っている状態でした」
台北でも空襲が酷くなっていたため、特攻隊員らは台湾電力の保養所だったという施設「台電クラブ」に滞在し、出撃の時を待っていた。
当時は14歳の女学生だった芳子さんは、学校帰りなどの時間を見つけては特攻隊員たちに会いに行った。少し年上の隊員たちに、妹のようにかわいがられた。
中でも、塚田方也軍曹(飛行第204戦隊)とは、お互い音楽が好きだったことからも、レコードを一緒に聞いたりして、よく遊んだ。塚田さんは当時、20歳。数えで21歳だった。
そして、塚田さんの戦友、中田輝雄軍曹(飛行第204戦隊)とも、一緒に時間を過ごした。
のちに、芳子さんの結婚相手となる人だ。
塚田さんと輝雄さんは、同じ航空機乗員養成所の同期で、同じ神奈川県出身だったことからも、「無二の親友」だった。
明るく茶目っ気があり積極的な塚田さんと、控えめで人見知りな輝雄さん。
今となっては「あの頃は、私はどっちかって言うと、塚田さんの方が好きだったんですよ」と笑う。
この台湾での偶然の出会いをきっかけに、芳子さんは戦後、輝雄さんと人生をともにすることになる。
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明るい素振りの理由は「諦め」
台電クラブには、「軍事慰問団」として劇団などが訪れて出しものを披露していた。
芳子さんも姉と一緒に呼ばれ、特攻隊員たちと一緒にお芝居を見ていた。
退屈してきた頃に、背中に何かがコロコロと転がってきた。
なんだろうと振り向くと、そこには大きなみかんが。塚田さんが転がしたものだった。
塚田さんと輝雄さんが、姉妹を見てクスクスと笑っていた。
南方やビルマ(ミャンマー)などの戦線で戦ってから台湾へ送られてきた2人。
死と隣り合わせの状況でも、心安らぐ時間にはいたずらを仕掛ける。そんな等身大の若者の姿があった。
一方で、隊員たちが複雑な心境を抱いていたことも事実だ。
普段は明るい素振りを見せる特攻隊員たちを見て、出撃前の状況でなぜ明るくいられるのか、いつも疑問に思っていた。
夫になった輝雄さんに戦後、聞くと「諦めの一言だった」とつぶやいた。
隊員たちはみんな「お兄ちゃん」のような存在だった。とはいえ、出撃命令が出れば、ただちに命を賭けて飛行機ごと敵の艦船に突っ込むことを求められている人たちだ。
頭では理解していても、10代の少女にはなかなか受け入れることが難しかった。
「飛行機が来たら、死ななければならない。怖かった。自分自身のことのように思えて、嫌だ嫌だと感じていました」
「いつかは死ぬ人なんだと思っていましたけど、いなくなるなんてこと、怖くて考えたくもなかった」
「死なないで」思わず口をついて出た言葉
芳子さんにとっても、隊員たちの出撃について考えることは「タブー」だった。
できるだけ考えないようにしていたが、思わず本心をこぼしてしまったこともあった。
「ある日、塚田さんが涙ぐむような目をしてレコードを聴いているから、『塚田さん、死なないでね』って言っちゃったんですよ」
「そうしたら、優しい口調で『僕たちは末端なんだよ。ピラミッドの1番下。何を反対したってダメ』と言ったんです」
塚田さんも、自ら特攻隊に志願した。とはいえ芳子さんは「心底、国のために死にたくて志願した人は、なかなかいないのではないかと思う」と振り返る。
「友人が手を挙げるなか、自分もと手を挙げた方もいると思う。天皇陛下のために死ぬということがいかに立派なことであるかと教えられていました。教育の影響もあると思います。でもやっぱり寂しそうで、悲しそうだった」
「それ以外の道は選べなかった。これが宿命だというように、あきらめの気持ちを抱いていたように思う」
台北駅での別れ。「手の大きさ、覚えておいてね」との手紙
他愛もない話をし、ふざけあって日々を過ごしたが、出撃の日は突然やってきた。
芳子さんが学校にいる時、姉が塚田さんたちの出撃を知らせる電話を学校にかけてきた。
先生に「兄が出征します」と嘘をついて学校を抜け出し、台北駅に見送りに行った。
台北で待機していた特攻隊員らが、台湾東海岸中部にある花蓮に汽車で移動し、沖縄方面に出撃することになったのだ。
台北駅に着くと、汽車の中に塚田さんや輝雄さんの姿があった。
塚田さんは汽車の窓から何も言わずに手を出して、芳子さんの手を強く握った。
「もうこの手を離したら自分の命はなくなるというように、手を離さなかった。本当に悲しそうな目をして、汽車が動いても手を離しませんでした。怖かった」
塚田さんが花蓮に行ってから3、4通ほど手紙をやりとりした。
「手紙で、お相撲さんがやるように手形を送って来て、『僕の手の大きさはこれくらいだから、覚えておいてね』と綴っていました」
「手紙の中で、好きな花は白い百合だとも言っていました」
それから毎年、塚田さんが出撃した7月19日に、中田さんは白い百合を捧げている。
「塚田さんが出撃したと聞いた時は、目の前が真っ暗になって、本当に悲しかった」
出撃しなかった夫。寄り添い生きた戦後
輝雄さんも、塚田さんと共に花蓮に向けて台北駅を出発した。
当初は出撃予定だったが、最後まで飛び立つことはなく終戦を迎えた。
輝雄さんはそれを終生、背負った。
戦後、芳子さんは日本へ引き揚げ、市役所の税務課や食品工場、洋品店などで様々な仕事をして、日本での生活をゼロから築いていた。
小学校の音楽教師をしていた頃、輝雄さんからの一通の手紙が届いた。
そこには、目標や塚田さんという親友を失ったこと、そして出撃せずに帰ってきてしまったということに対する後悔が綴られていた。
台湾時代から輝雄さんを知る芳子さんは、自責の念に駆られる輝雄さんを思い、文通を続けた。
戦後、帰還した特攻隊員たちに対しては「特攻崩れ」や「生き残り」などの心無い言葉が向けられた。
そんな中で親友の塚田さんを亡くしている輝雄さんは、「自分だけが生き残ってしまった」という負い目から逃れられずにいた。
文通をしていた当時、輝雄さんは出身地の神奈川県、芳子さんは父の故郷の鹿児島県に住んでいた。
ちょうど中間地点で会おうと、まだ周囲に原爆の爪痕が残る広島駅で、ふたりは戦後初めて再会した。
当時、芳子さんは21歳。
「一緒に住むことで心の痛みを分かち合えるのでは」との思いで、結婚を決心した。
「言いたくなかった」親友・塚田さんの最期
台湾時代のことを知っている仲だからこそ、分かり合える。結婚当初はそう考えていた。
しかし、輝雄さんの心の傷は、想像以上に深かった。
「戦後、主人は生きる希望を持てずにいました。仕事が終わってからはただひたすら、酒に逃げた」
「皆死んでしまって、本当に主人も可哀想だった。生きる希望を持てなかったんです」
息子が生まれてからも、そんな状況は改善しなかったという。
折に触れて台湾での思い出について話していた2人だったが、塚田さんの最期について、輝雄さんは何年も口にしなかった。
ある日の晩酌時、輝雄さんはふと、塚田さんが出撃した時のことを話した。
「塚田さんが出撃する時、もうエンジンがまわっている中、夫は機体によじ登り『俺もすぐ行くからな』と叫んだといいます」
「白いマフラーが風になびく中、塚田さんは前を見て、何も言わなかったと夫は話していました」
輝雄さんは2000年、74歳で他界した。
病床で、かつての仲間たちへの思いを詠んでいた。
《幾山河越えて戦の友がらと空にて会わん 五十年過ぎて》
枕の下に残されていた辞世の句には、戦後55年経ってもずっと思い続けていた、亡き戦友たちへの言葉が綴られていた。
芳子さんは「生き残ったことが本当に辛かったのだと思います」と話す。
「一人の人間だった」語り続ける理由
芳子さんは、台湾での特攻隊員との交流や、戦後、夫と歩んだ人生を、著書『14歳の夏』(フィールドワイ、2012年)にまとめた。
小学校で戦争体験を語ったり、芳子さんが「逆さ歌」を発信するYouTubeアカウントで戦時中の経験を語る動画を発信したりしている。
91歳になっても語り続ける理由について、芳子さんはこう話す。
「特攻隊の人たちの話は風化してしまうかもしれないけど、忘れられてなるものかと思います。あの人たちの気持ちを」
「だって、音楽が好きで、音楽を涙しながら聴いて……。本当に一人の人間だったんです」
若くして死んでいった塚田さん。そしてその後を苦しみながら生きた輝雄さんを、側で見ていたからこそ語れることがある。
戦争経験者がどんどん少なくなっていく中で、自分に託された「思い」を次の世代へとつないでいきたいという思いだ。
「孫や若い世代の人たちは、育つ環境も違うし、本当のところはいくら語っても伝わらないのではないかとも思います。でも、やっぱり語らねばならない。そう思います」
「少なくとも自分がこうやって語れる間は、彼らの人間的なところを、いっぱい、いっぱい、語り残したいです」