主人公は、フランスの公立病院に勤める助産師たち。戦場のような激務の中、新しい命をその手に迎える喜びと葛藤を写した映画「助産師たちの夜が明ける」が、この8月、日本で公開される。演技派俳優たちの熱い群像劇とドキュメンタリー手法によるリアルな映像、現代社会への強いメッセージ性で、試写の段階から幅広い層に好評を博している。
手技で出産を介助する助産師は、お産に縁がなければ出会いにくい職業だ。その物語が、より広い範囲の人々まで届くのはなぜなのだろう?
「産まない人もみんな、生まれているから」
監督のレア・フェネールは言う。性別も出産経験も関係なく、あらゆる「生まれた人」に見てほしいーーその言葉から、インタビューは始まった。
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ーー本国での上映や日本での試写では、産科医療や出産に関わらない人々からも、感動の声が寄せられています。
産科病棟はすべての人にとって、最も重要な場所の一つです。なぜなら誰もが「生まれる」から。自分では産まない人もみな、人生は母親のお産から始まります。出産は常に生死の狭間にあり、すべての人が安全に、穏やかに生まれるには、産科と助産師が欠かせません。この映画は、すべての人に見てほしいと願っています。
ーー医療を扱う物語では、主人公は医師であることが多いです。産科には医師もいますが、この映画ではなぜ、助産師を主人公にしたのでしょう?
フランスでは国の医療保険が出産費用を無償化していて、多くの出産が公立病院で行われます。身寄りのない、経済的に困窮した妊婦も、公立病院では出産できる。そこで入院から退院するまで、産む女性たちと共にあり続けるのが助産師です。「あなたは一人じゃない、私があなたを助けるためにここにいますよ」と助産師が寄り添うからこそ、女性は自信を持って、出産をやり遂げられる。そうして生まれた赤ちゃんは、まず最初に助産師の両手の中に迎えられます。まさに「未来はその手の中に生まれる」のです。その独特の役割ゆえに、助産師は産科病棟の中心的存在になっています。
ですが一般社会では、そのように理解されていません。状況が急変するお産の現場で、助産師の役割はとても大きいのに、社会は十分にそれを認めていない。また助産師は出産だけではなく、避妊や不妊治療、DVなどの支援にも関わっています。「女性の身体のケアと自由に寄り添う人々」という認知度は年々上がっていますが、もっとこの人たちに光を当てるべきだという思いから、映画を作りました。
ーー日本でも現代では、99%以上の人が産科の病院・診療所で生まれています。とはいえその時のことを大人になっても覚えている人はいませんし、産科病棟は「産む人」とその家族以外には、なかなか足を運ぶ機会のない場所です。監督ご自身はどのようにして、産科や助産師について知ったのでしょう?
私の場合は、先に妊娠した妹の出産がきっかけでした。難産だった彼女はその体験を「母親になるのは野蛮なこと」と話していて、そこで初めて、お産の現実に気づきました。フランスでも一般的には、産科病棟は「産む人だけのもの」という禁域のような存在です。私自身もかつては、お産をふわっと「すべてがうまくいく」ものと考えていて、産科病棟は「生まれる子どもの名前を考えるところ」くらいのイメージでした。
ですが現実は全く違います。妹に続いて私自身が体験した出産は、とても身体的で、いつなん時でも状況が激変しうる、死の恐怖が隣り合わせになった変容の場そのものでした。そしてそこで発揮される助産師たちの力が、衝撃といえるほど印象に残ったのです。謙虚さ、極限の集中力、産む女性たちへの高い共感性……私の患者としての人生で、「あなたの体を診察しても良いですか?」と合意を確認してくれた医療者は、助産師が初めてでした。
私は出産後も長く入院することになったのですが、その間に、助産師たちが置かれた公立病院のシステムの問題にも衝撃を受けました。コスト管理が優先され、ベッド数も人員数も、年々削減され続けている。このシステムの中で、産科の仕事はこんなに過酷になっているのだ、と。
ーー映画の中ではまさにその、産科病棟の激しい現実が描かれています。特に出産シーンはとてもリアルで、実際の分娩の場面を撮影し、その映像を組み合わせているそうですね。なぜその手法を選ばれたのでしょうか?
これまで映画の中で写されてきた出産の場面は、「あえて現実味を薄められている」と感じてきました。とても清潔で、女性が寝ているうちに医師が全部やって、あっさり短時間で済んでしまう、そんな映像ばかり。出産を経験した女性として、そのようにお産を非現実化するのは絶対に嫌でした。
出産は生々しく、命の脆さが剥き出しになります。そこでは医療技術だけではなく、女性の力強さが最大限発揮される。その真の、パワフルなイメージを見せなくては、と。
そこでふと思ったのは、なぜこの出産本来のイメージはタブーとされてきたのか?ということでした。確かに荒々しくて困惑するような場面だけれど、もっと暴力的な殺人シーンは映画の中にいくらでもあるのに? お産はなぜ、そのままに描かれないのだろう、と。
私は映画人として、現実に即しているけれど、慎みを忘れない映像を作ろうと決めました。赤ちゃんの初めの一息や産声、無痛分娩の麻酔の過程、女性たちの少し青ざめた顔などにクローズアップして、命の脆さと女性の強さ、そこへのリスペクトを喚起したかった。お産の撮影を許してくれたご家族のおかげでドキュメンタリー映像が撮れましたが、映画はあくまでフィクションとして作っていきました。
ーーこの映画の激しさは出産シーンだけではなく、助産師たちの「トイレに行く間もない」激務の日々や、その働き方を巡って同僚同士が衝突する場面などにも現れていました。映画のレビューや感想では、「闘い」「戦場」という言葉が多く使われています。監督がこの映画で伝えたかった「闘い」はなんでしょう?
この映画での私の闘いの相手は、先ほども触れたように、フランスの公立病院を動かす「会計の論理」です。ここ15~20年くらいで、この「会計の論理」がますます強化されています。お産のあり方は本当に様々で、1時間で終わるものから24時間以上かかることも。その多様な現象に「会計の論理」を当てはめたら、ケアは劣化するしかありません。 病院のシステムが、患者にとって虐待的になりつつあるのです。
ですが実際にスクラブを着て患者の前に立つのは、システムではなく人間です。医療者たちは虐待的な仕事をしたくないのに、システムの中でそれを余儀なくされている。私たちはこの現実を知り、厳しいシステムの中で働く生身の医療者たちに、理解を示す必要があります。それは映画に込めた、一つのメッセージです。
もう一つ映画の中の闘いとして、ラストシーンで助産師のデモを写しました。あれは現実にフランスであった出来事です。あのデモによって助産師たちは「一人ではない」「皆と共にある」との確信を得られたと言います。私もその成果を、映画で伝えたかった。自由主義的な管理の中にいると、人は孤独感に苛まれます。その孤独感は有毒です。産科病棟のシーンでは、チームであること、登場人物たちが孤立していないことを意識して表現しました。団結は、闘いの一つの形だと思っています。
ーーその闘いをしなかったら、何が起こるのでしょうか。
フランスの公立病院に関しては、闘わずにいたら、いずれすべてが民営化されてしまうでしょう。「どんな出自や経済状況にある人も受け入れ、医療を施す」公立病院は、フランスの素晴らしい宝です。絶対に、無くしてはならないもの。それはフランスだけではなく、人類の文明の宝であるとも思っています。
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日本とフランスでは、医療システムも社会のあり方も異なる。しかし公立病院が重要なインフラとして機能し、人々の命と暮らしを支えている点は共通している。産科施設で女性たちが産み、助産師の手の中に新しい命が生まれていることも同じだ。映画の日本上映にあたり、日本助産師会が後援をしているのは、その共通点を象徴している。
助産師たちの奮闘、そして公立病院の危機は、遠いフランスの他人事ではない。この映画が伝える人の営みの尊さと厳しさは、日本でも多くの人の心を打つはずだ。
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映画は8月16日から、東京都の「ヒューマントラストシネマ有楽町」など各地で上映される。日時や場所など、詳しくは公式ウェブサイトに掲載されている。
(配給:パンドラ)