サイモンと私には、共通点がほとんどなかった。出会いは私が38歳、サイモンが54歳の時だった。彼のあっけらかんとした人生観に、私の複雑な警戒心は打ち破られ、心が傾いた。ある夏の夕暮れ、イギリス・ロンドンにあるトラファルガー広場の噴水のそばの石に一緒に寝っ転がっていた時、喜びが肌から染み出すような気持ちになり、恋に落ちたことを確信した。
サイモンが田舎に持っていた15世紀に造られたコテージが私たちの住まいになった。この家が仕事場(私は医療関係、彼は運輸関係)となり、私にとってはそれまでに感じたことのない満足感を発見する場所となった。
一緒になってから10年が過ぎたところで、サイモンはボート職人になると言って修業を始めることになった。一緒に海岸沿いの美しい町に引っ越し、サイモンはボートづくりを学び、仲間とビジネスを立ち上げた。
元々、人生を楽しむことがうまかったサイモンだけれど、ますます体が引き締まり、たくましく、日焼けし、髪に松脂をつけ、鉛筆を耳に挟み、「これほど至福なことはない」と言った。
私も同じ気持ちだった。ただひとつ心に影を落とすものを除いては。サイモンを愛して暮らしながらも、私は彼を失うのではと常に恐れていた。
これと同じ感情を以前にも経験したことがあった。不仲な両親のもとで育った子ども時代、心労がたまった母親のことが心配だった。良いことは長くは続かないと知った。必ず日は暮れ、夜が訪れるのだと。
心配に支配される状況から身を守る最善策は、期待しないことだと7歳で悟った。もし、少しでも油断しようものなら、地獄を味わうことになる。
時々、母親が死ぬところを無理やり想像してみた。命に関わらなければ、何事も手に負える。このひどく疲れる理屈に30歳になるまで支配されてきた。良い変化が人生に起きて、私の関心を逸らしてくれたのだ。
母のことを心配することが減った。しかし、長続きしなかった。母にがんが見つかり、62歳で死んでしまった。
母のことを心配したところで、命を救えたわけではない。だから、心配しても無意味だった。いや、以前のように心配しなくなったから、母は死んでしまったのだろうか。
包み込まれるようなサイモンからの愛情を知った今、私は彼を失わないように万全の策を講じることにした。異常なまでに恐怖を感じる自分を恥じ、ある友人に打ち明けた。サイモンの帰りが遅かったり、電話に出なかったりした時は、この友人が疑り深い性格をいかして理性を保つ手助けをしてくれた。心配は私の心の問題であって、サイモンの命が続くかどうかは関係ないことなのだ。
「あなたと一緒にいると、明日もまた素晴らしい日になるってことが信じられない」とサイモンに言ったことがある。本当にそう思った。でも、これは私にとって新しい感情でもあった。愛と喪失を切り離すことができると、素晴らしい日が続くと信じることがほんの少しだけれどできた。
サイモンと共にする輝くような人生と、私が抱く恐怖心は似つかわしくないものだったので、できる限り気持ちを隠して暮らしていた。言葉に出すことで、胸にある不安をあおりたくはなかった。
サイモンは私の問題の本質をわかってくれていたが、深刻さまではつかみきれていなかった。
サイモンは私と一緒になるまで、何十年もうまくやってきた。私が彼の生きる能力を疑うことで、サイモンをさいなませることはできない。もし、そう伝えようものなら、サイモンは私を抱き寄せ、過保護はやめてと言うだろう。玄関先の郵便受けを見に行っても心配するとからかうだろう。
でも、私は怯えずにはいられなかった。
サイモンが郵便を取りに出て行くと、私は洗面所に駆け込み、電気をつけ、うるさい音を立てる扇風機をつける。そうすると、襲ってくる恐怖をやり過ごすことができるから。そうしているうちに、彼が戻ってくる。
一度、サイモンに「僕のことを綿に包んで引き出しにしまっておきたいって思っているよね」と笑って聞かれたことがある。
言い訳すると、サイモンは心臓が悪いうえに、変な事故に何度も遭っている。過去一度だけ行ったスキー旅行は、サイモンが雪に埋もれ、木の柵に巻きついてけがをしたため、病院に行く事態になって2時間で終了した。
それほど経たず、今度はテニス中に後ろに倒れて手首を3カ所骨折。救急処置室で一晩過ごし、手術を受けたこともあった。
動脈やひざの定期的な治療の合間にスキーやテニスでのけがが起きたものだから、私は心配するのをやめようと一層の決意をした。サイモンはどのけがも克服し、こうやって生きながらえるんだよと教えてくれた。
新型コロナウイルス感染症が流行しはじめると、サイモンは私に日記をつけるよう勧めた。2020年4月、彼は無事で、世界では活動がストップしていた。6月になる頃には、サイモンは息を切らすようになった。7月の最後の日記には、自分自身への約束事を記した。「サイモンが元気になったら、私は助けを求める。精神科医でもセラピーでも何でも助けを求め、サイモンが死んでしまうのではという不安を取り除き、2人の生活を存分に楽しむ」
この月、サイモンはステージ4の肺がんと診断された。しかるべき治療をすれば、4人に1人は6年後の結果が良好との説明を受けた。サイモンはもちろんこの中に入ると思った。この年の私の誕生日に撮った写真に写るサイモンは、大好きなアイスクリームを手に、自信に満ちた笑顔を浮かべている。だが、治療は1回しか受けることができなかった。写真の中で微笑むサイモンの笑顔に胸が張り裂けそうになる。
治療による副作用を抑えるため、ステロイドを投与されるとせん妄の症状が現れた。症状が和らぐと、今度は脳卒中が起きた。
10週間の入院、9週間の自宅療養、それからホスピスで過ごした1週間、サイモンはボロボロの体と粉々になった心にできる限りの力を注ぎ込んだ。
緩和ケアの看護師が来る時には、お気に入りのピンク色のリネンシャツを着ることにこだわった。
夕焼けを見られるよう、車いすで庭に出るためにスロープをつくってよと面白がって口にしたこともあった。また歩けるようになるためと理学療法士が用意してくれた運動を無駄にすることを拒んだ。食事はピューレ食になった。お気に入りのレストランはコロナ禍で営業休止していたが、サイモンのためにピューレ食を作ってくれた。
ホスピスに入った時、もうほとんど話すことはできなくなっていたけれど、サイモンは私に「具合が悪い時にはとても素晴らしい場所だよ」と言った。大好きな愛猫や庭、そこから見える景色にさよならすることになるため、自宅からホスピスに移るサイモンを見て私が罪悪感を持たないように、そう言ってくれたのだと思う。
サイモンは2021年3月3日に亡くなった。71歳だった。
葬儀の前に、葬儀社の人に頼んでサイモンのポケットにクッキーを1枚入れさせてもらった。サイモンは子どもの頃からお墓でお腹がすいたらどうしようと心配していたから。
私が彼を死なせてしまったのだろうか。心配するのをやめた時、母を失った。今回もそうだったのだろうか。
サイモンの親族たちは心臓に病を抱え、様々な緊急医療を受けていたが、がんになった人はいなかった。
私は日記に心配しないようにすると書き込みながら、サイモンの身に何が起きているのか軽率にも見て見ぬふりをした。
◇ ◇ ◇
一緒に過ごした日々がおわり、混乱の中にあった私はグリーフケアのコミュニティーやフォーラム、オンラインミーティングに参加した。
他者とつながることで気分は上向いたが、私と同じように最愛の人を失うという不合理な恐怖を味わい、悲嘆に暮れ続けている人には出会えなかった。
セラピストのジュリア・サミュエル氏のベストセラー「Grief Works」を読んだ。この本には、パートナーを失うつらい側面として「一人で子育てをしなければいけなくなること」と書いてあった。このつらさを私は感じなくていいという幸運さを押し付けられると同時に、子どもがいないという傷にも追い打ちをかけられた。この著者の言葉に私はさらに傷つけられた。「カップルが結ばれる時、死についてはほとんど考えない」➖➖。
ガーン。
専門家は、悲しみの体験は人によって異なるとしながらも、多くの人がたどる癒しの道程について説明する。
私はますます孤独を感じた。大切な人が死んでしまうのではと恐れた後に本当に亡くなってしまうと、彼らを忘れてしまうことの苦悩と死をリハーサルしてしまったという不面目の間を行ったり来たりすることに苦しむ。それに続く悲しみについて、誰も説明してくれなかった。
「予期せぬ悲嘆」というのがぴったりきそうだが、どちらかというとそれは死が目前に迫った人によりぴったりきそうだ。サイモンのように生にあふれた人にはあわなさそうだ。
「誇張された悲嘆」という言葉は聞き流すことにした。「あなたにとって悲しみが十分なことなんてあるわけない。ましてや誇張なんてことはない」とサイモンに言われるところを想像して、おかしくなった。
では、「複雑性悲嘆」ならぴったりくるのか。いや、これもちがう。「うまくいかなかった悲嘆」という中見出しの記事には、「私たちは自分の死を考えることに抵抗がある。大切な人の死はなおさらだ」と書かれていた。
ようやく出会ったのが、ガーディアンに掲載されたリズ・ジェンセン氏の記事だった。「我が子がある日死んでしまうのではという恐怖に取り憑かれている。もし誰かにこのことを話したら、本当に死んでしまうと迷信的に思っていたので、誰にも言わずに自分だけの胸にとどめていた。だけど、死ぬほどつらかった」と書かれていた。
サイモンを亡くした喪失感に困惑する中で、ジェンセン氏の言葉が私自身の考えと重なり、初めてわかってもらえた気がした。もっとうまく、もっと一生懸命、もっと賢くサイモンのことを心配していたら、彼の命を救うことができたのだろうか。私はサイモンに早すぎる死が訪れることを知っていたのだろうか。どっちもちがうと思う。
もしまたサイモンと2人で過ごせるとしたら、不安を抱かずに暮らしたい。でも、そんな私の一部を含めて愛してくれたサイモンは特別な男性だった。
時折、愛する人たちを心配してしまっている自分に気づく。サイモンに対してもそうで、もういないということを忘れ、安全を願ってしまう。
サイモンがいない今、大地と私をつないでいるのは細い細い糸だけ。私たちの生活の裏にあるすべての関心ごとはどうでもいいことばかりで、大事なのは愛、愛、愛、優しさ、心を開くこと、柔軟な考えを持つことだと直感的にわかっている。
サイモンを亡くした時、どう生活を続けていけばいいのか、どう息をすればいいのか忘れてしまった時のためにつくったTo-Doリストがある。猫を飼う、誰かに電話する、オーブンでケーキを焼く、泳ぐ。
今、私は幸せだと感じることができる。そう感じるのはたいてい何かしら「サイモン的」なことしている時だ。サイモンのように物事を考え、サイモンのような行動を取るという意味だ。彼は私を人として成長させてくれた。大工としての腕前もサイモンのおかげで上がった。
ただ、これらの瞬間を除けば、「楽しいことをする」という意味がわからなくなってしまう。そして、悲しみの燃料が底をつくようにと私は仕事や運動に精を出す。喪失を経験し、それでも活発に活動している人を批判した自分を悔いる。絶え間なく動き続けているからといって、大丈夫だということではないと今ならわかる。
話し相手が必要な時以外は、姿が見えない存在になりたい。眠れていた頃が懐かしく、「調子どう?」と聞かれることを恐れている。どう答えるにしても難しい。でも答えなければ、私がどういう気持ちでいるかわかってもらえない。「サイモンはそこらじゅうにいる」と主張する私に戸惑いながらも、話を聞いてくれた友人をなじらなくてよかった。友人には「サイモンが亡くなったことはちゃんとわかっているんだよね」と確認されたけれど。
もちろんわかっている。サイモンはもうここにはいない。でも、思い出をはるかに超えた存在を感じる時があるのだ。分子や呼吸、波紋や波、雲のひとつ一つに彼の存在を感じる。彼の存在を感じるから私は生きていける。
私はサイモンが受けたような総合的なホスピスケアを使いやすいものにするための活動に力を入れている。死について考えたり、話したりすることを促し、生きることと融合させたい。私のようにすり減るやり方ではなく、死にゆく人と残される人の救いになるようなやり方で。
私は痛いほど美しい場所に取り残されてしまった。サイモンは今日の太陽の暖かさを感じることができない。その悲しみから、私は美しさに気づくことはできても感じることができない。深呼吸しているのに、肺を満たすことができないような感覚だ。
サイモンと出会う前の私とは別人だ。彼から受けた愛の上に築いた強さと、彼が形作ってくれた喜びを感じる余裕を持った新しい私がある。
このエッセイは私のことを知ってもらうために書いたのではない。もしかしたらあなたがこの中に自分を見つけるかもしれないと思って書いたものだ。こんなふうに自分たちについて書くことにためらいがあったが、サイモンならどう言うかわかる。「もし私たちのことを書くことで誰かの暗闇を照らせるなら、書いたらいいよ」
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筆者のSophie Olszowski氏は医療専門ライターであり、ジャーナリストである。イギリスの医療分野で要職に就き、著書に「Doctor, What’s Wrong? Making the NHS human again」(ラウトレッジ)と「How to be an Even Better Chair」(ピアソン)がある。短編フィクションでの受賞歴もある。現在は、死とグリーフ(悲嘆)についてもっとオープンになることを推し進め、終末期ケアについての理解を深め、必要な人すべてに行き渡るように取り組んでいる。
ハフポストUS版の記事を翻訳しました。