和歌山カレー事件をめぐる映画『マミー』を観て「戦争」との類似点について考えた

林眞須美氏から私の元に手紙が届いたことがある。大きな茶封筒には蛍光ペンで「HELP ME!」と書かれ、差出人名に驚きながら封を開けると、機関紙的なものが同封されているだけだった。
取り壊されてさら地になった林真須美氏の自宅跡(和歌山県和歌山市園部)
取り壊されてさら地になった林真須美氏の自宅跡(和歌山県和歌山市園部)
時事通信社

公開初日となるその日、映画館は満席だった。

待ちわびていた映画を、私はやっと観ることができた。

その映画とは『マミー』(二村真弘監督)。今から26年前に起きた和歌山カレー事件を巡るドキュメンタリーだ。

1998年、夏祭りで振る舞われたカレーに猛毒のヒ素が混入、67人がヒ素中毒となり、4人が死亡。逮捕された林眞須美氏に、あなたはどんなイメージを持っているだろうか。

住民をヒ素で殺した「毒婦」。保険金詐欺をしていた「極悪」夫婦。家の庭からホースで報道陣に水を撒く傍若無人な女一一。

そんなイメージを持つ人が多数派だろう。

しかしここ数年、あの事件に対して「冤罪では」という声があちこちから聞こえ始めている。この映画を見終えた今、私の胸の中にも「冤罪」という言葉が去来している。長男の記憶。目撃証言への反証。そして何よりも驚いたのは、当時の科学鑑定へ異議を唱える専門家の存在だ。

数年前までは、「林眞須美が犯人」と当たり前のように信じてきた。というか、それほど関心も持っていなかったというのが正しい。

一方、カレー事件について話題になる時、自分も含めて多くの人が「半笑い」「苦笑い」の表情を浮かべていたのもこの事件の特徴ではないだろうか。「ああ、あの人ね」「ヤバい人だったよね」「ミキハウスのおばさんね」とその「特異なキャラクター」をなぞり、話はそこで終わるのが常だった。

そんな中でも2000年代、唯一くらいに彼女を擁護していた著名人がロス疑惑の三浦和義氏だ。

今も三浦氏が何かの雑誌に書いた文章を覚えている。内容は、「あの夫婦は保険金詐欺で暮らしてきて、そうやって詐欺で収入を得ている人が、保険金も入らないようなあんな事件を起こすはずがない」というようなもので、不意打ちを食らった気分になったことを覚えている。そういう見方があるのか、と。

だけど、私はそれ以上考えなかった。なぜなら、そうは言っても林眞須美氏は保険金詐欺をするような「疑わしい」人なのだから、と。そこで思考停止したのだ。

今、思う。このような「怪しい人だから」という人々の無意識が、多くの冤罪を作ってきたのではと。誰もが認める清廉潔白な人であれば疑惑が晴れるかもしれない。しかし、そんな人などどこにいるだろう。

これまでの冤罪事件を振り返っても、隠しごとがあってそれを隠そうとしていたり、本人に犯罪歴があったりと、何か「都合の悪いこと」が必ずといっていいほど背景にある。それは私が冤罪被害者たちと実際にこの十数年出会って知ってきたことだが、当時はそんな知識などなかった。そうして林眞須美氏の強力な味方だった三浦和義氏は、08年、亡くなっている。

それと前後する頃だと思うが、林眞須美氏から私の元に手紙が届いたことがある。

出版社から転送されてきた大きな茶封筒には蛍光ペンで「HELP ME!」と書かれ、「林眞須美」という差出人名に驚きながら封を開けると、機関紙的なものが同封されているだけだった。直筆の手紙などはなかったことから、おそらく多くの人に送っているのだろうと思い、そのままになってしまった。そのことをこの数年、やけに思い出している。

さて、映画の内容についてはぜひ観て欲しいので詳しくは語らないが、この映画の公開を前にして、少なくないメディア人と和歌山カレー事件についての話をした。

食事の席などで、「こういう映画が公開されるんだってよ」と話題になったのだ。

その中には、新人時代にあの事件の報道に少し関わっていた、あるいは同僚がまさに取材していたという人などもいた。そんな人々が当時を振り返りつつ語ったのは、事件当時の「空気」の異常さだ。

とにかく「あいつが犯人だ」という強固な決めつけ。時間が経てば経つほどそれは既成事実のようになり、誰も異論など挟めないような空気が形成されていたというのだ。

みんなが言っているから。保険金詐欺をしていたような人物だから。マスコミに水を浴びせるような常識知らずだから。そして何より、ヒ素が発見されたから。しかし、これについては映画の中で重大な事実が明かされるのだが、当時は繰り返し繰り返し彼女の様子がテレビや雑誌、新聞で報じられ、それが警察の捜査や司法にも重大な影響を与えた。そうして09年、彼女には死刑が確定してしまった。

映画を観て、当時、すべてがひっくり返るかもしれないようなことが捜査されていないことを知った。あえて捜査されなかったのは、やはり「空気」のなせる技なのだろうか。

「あいつが犯人だ」「あいつが悪だ」となると一方向に一斉に走りだし、メディアも司法もその暴走をさらに煽り、一人の人間が死刑台に立たされる一一。

そんな構図に強烈な違和感を抱きながら、これってまさに「戦争」と同じではないかと思い至った。 

79年前の戦争でメディアはそれに加担し、ことあるごとにその「反省」が語られるわけだが、その反省がまったく生かされていないことが明確になったのが和歌山カレー事件ではないのか。とにかく他社に抜かされないようにというスクープ合戦も、なんだか戦争報道を彷彿とさせる。

そしてそんな「暴走」は、今、SNS上で日々起きているとも言える。

死刑台に立たされずとも、人を死に追いやるような集団リンチ。ちょうどこの映画を観る直前、『小山田圭吾 炎上の「嘘」』を読んだのだが、そこにも「戦争」という言葉が登場する。

それを口にしたのは、小山田氏が所属していた東京五輪開会式のクリエイティブチームの一人。東京オリンピックの開会式を見ながら呟いたのだ。

「本当の戦争って、こんな感じなのかもしれませんね。ひとり、またひとりと関わった人がいなくなってしまう。最後、残された人だけで空を見上げるんですね」

東京五輪の開会式直前、小山田氏が過去のインタビュー記事をめぐって「大炎上」したことは皆が知る通りだ。本書では、彼がインタビュー記事で書かれたようないじめをしていないことが同級生の証言をはじめとして綿密な取材から綴られるのだが(なぜあのような記事が出たかの背景事情についても明かされている)、その渦中にいた人が語った「戦争」という言葉は重い。確かに、今の時代の戦争は、SNSでの扇動なくしてはあり得ないだろう。

さて、もうひとつ書いておきたいのは、映画の撮影中に起きたある悲劇だ。林眞須美氏の長女と幼稚園児の子どもが橋から飛び降りて死亡。また、自宅からは16歳の女性の遺体も発見された。長女の娘だった。

「死刑囚の娘」として生きる困難さがどんなものなのか、私には想像することしかできない。しかし、心中に追い詰められるほどの心のうちを思うと、ただただ言葉を失う。

「正義」は暴走する。そして時に、簡単に人の命を奪う。「取り返しのつかないこと」は、私たちのすぐ隣にあるのだ。そんなことを、改めて考えさせられた。

「誰が林眞須美を殺すのか?」

監督はディレクターズノートの最後をそんな言葉で締めくくっている。

『マミー』は現在、シアター・イメージフォーラムなどで公開中だ。 

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