1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」が広島に原子爆弾を投下した。あれから79年。あの日、何があったのか。当時の貴重な写真と共に振り返る。
南太平洋・マリアナ諸島のテニアン島を飛び立ったB29爆撃機「エノラ・ゲイ」。原子爆弾「リトル・ボーイ」を搭載していた。アメリカ軍第509混成部隊の隊長、ポール・ティベッツ陸軍大佐が機長を務めた。
「いま我々が落とそうとしている爆弾は、これまでの爆弾とは違うものだということをよく覚えておいてほしい」。投下当日の訓示は機密保持のため、「原子」や「核」という言葉は一度も使われなかった。
人類史初の原子爆弾投下は8月6日午前8時15分。その直後に起きたことを、広島市はこう伝えている。
<原子爆弾は、投下から43秒後、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には半径200メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3000~4000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります>
広島への原爆投下による死者の数は現在でも正確には分かっていない。広島市によると、当時市内には居住者や軍人ら約35万人がいたとされ、1945年末までに約14万人が死亡したと推計される。爆心地から1.2キロ範囲内では、投下当日のうちにほぼ半分が死亡した。
2016年には当時のアメリカ大統領、バラク・オバマ氏が広島を訪問した。オバマ氏は平和祈念資料館の芳名録に「私たちは戦争の苦しみを経験しました。共に、平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」と記帳した。
演説では、「私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません」と核廃絶を重ねて訴えた。そして、被爆者団体「日本原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)の代表委員を務める坪井直氏(2021年に死去)らと握手をしながら笑顔で会話を交わした。
2023年5月19日から21日にかけて、G7広島サミットが開催された。ロシアと戦時下にあるウクライナのゼレンスキー首相や、アメリカのバイデン大統領らが平和記念資料館を訪問した。
岸田首相はサミットの終了後の記者会見で、「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」について「歴史的な文書になった」と宣言。一方、被害者からはサミットに対して「核抑止論をもって、戦争をあおるような会議になった」「広島を利用された」など批判の声が上がった。
アメリカが広島に原爆を投下してから79年が経った。ロシアからの攻撃が続くウクライナ、解決への道筋が見えないイスラエル・パレスチナ情勢など、世界で核使用の脅威が高まるなかで8月6日を迎えた。