母のことはすべて知っているつもりだった。古い1枚のポラロイド写真を見つけ、大間違いに気づいた

写真の中の女性はいつだって私たちの前にいたのに、私が気づかなかっただけなのだ。
通っていた小学校で微笑む筆者(右)と母=2009年
PHOTO COURTESY OF JACQUELINE LEKACHMAN
通っていた小学校で微笑む筆者(右)と母=2009年

大学進学のため、あと数週間で実家を出るという時、20代のころの母が写っているポラロイド写真をたまたま見つけた。私はその写真を食い入るように見つめ、驚きのあまり言葉を失った。まもなく、2つの疑問が頭をもたげた。「この人、誰?」「私って母のことをまったく知らなかったってこと?」

アメリカ・ペンシルベニア州で育った私が知っている母は、父に離婚をちらつかせる姿だったり、おなかを見せるファッションをしようとする私におなかを覆う下着を着なさいと口うるさく言う姿だったり。 

友だちと出かけるにしても、いつ、どこに、どのくらい行くのかで、私の行動を逐一把握しようする母と言い争いになった。母が強いたものの一つに「あなたの1日を教えて」と私が呼んでいた儀式がある。母はこんな感じで話しかけてきた。

「どんな1日だった?1時間目にはどんなことをした?お母さんが言ったようにちゃんとギャラハー先生と話できた?読書感想文は?ちゃんと提出した?よかった、2時間目は何した?何も?そんなことないでしょ。今どんな話題について学んでいるの?宿題は出た?OK、宿題の説明文を印刷しよう」

物心がつくにつれて、学校から疲れて帰ってきた時にこんなふうに質問攻めにされる時間が苦痛になっていった。仕方なく耐えなければいけない取り調べに臨むかのような心構えをすることにした。干渉が嫌になり、「あなたの1日を教えて」という決まりごとを通して私をコントロールしようとしているとさえ感じるようになった。

中学に上がった時のこと。友だちの親たちが私のことを「ジャッキー」と呼ぶところを母が目撃したことがあった。ジャッキーというのは私が自分でつけたニックネームだった。母はすごい剣幕で「娘をその名前で呼ばないで!」と怒鳴り、いかに低俗な名前かとうとうと述べた。

化粧するのにも反対したし、体にぴったりな洋服も嫌がった。体を覆い隠すように言われると何だか落ち着かない気分になった。好きな格好をしていた友だちからは仲間外れにされた。登校後に禁止されていた洋服に着替えることが、精一杯の抵抗だった。

父は出張で家を空けることがあったが、母はいつだって家にいた。一緒にいる時間の長さが、母を子どもに決まりごとを押し付ける親にしてしまったのだ。うざい親とイコールだ。母が家庭内で権力を持っていたことが、融通のきかないほどにマイクロマネジメントをするだけの存在にしてしまったのだ。

少なくともこのときはそう思っていた。

16歳で、「あなたの1日を教えて」はもうやらないと決意した。

「教えません」 

母に最初にそう言った時、重たい本が立てる音のようにドスンと響いたようだった。

母は聞き出そうとしつこかったが、私が粘り続けるとあきらめたようで、関心はきょうだいに集中するようになった。 

私は「NO」を巧みに使うようになった。10代の私たちきょうだいに絵本を一緒に読もうという母にNO。さらに成長した私たちにPinterestでホリデーや誕生日の工作をしてと頼む母にNO。やりたくないことを無理やりさせられることはないとわかったことで、私は自由を手に入れた。

でも、これは代償をともなった。家族内で「よそ者」になってしまった。きょうだいたちが母とソファでひっつきあって旅行ドキュメンタリーを見ている姿を目にし、その仲の良さにぼんやりとした切望を抱いた。しかし、「NO」を連発した私に母は一緒に何かしようとは言わなくなってしまっていた。

霧に包まれた風景を遠くから見ているような気分だった。湖の向こう岸にたどり着きたいけれど、漕ぐためのオールもパドルもない。家族の風景の一部だった自分を懐かしく思いながらも、もうすでにずいぶん長い間動かずにいたため、湖面を波立たせてしまうことに不安に感じた。

距離を置いてしまったため、私たちが生まれる前の母のことをなかなか知ることができなかった。皮肉なことだが、母は私の生活については一から十まで把握したがったが、自分の子ども時代や若いころの話はほとんどしてくれなかった。

昔が垣間見えるのは、母が両親、つまり私の祖父母の命日について話す時だけ。きょうだいについての話はまったくしてくれない。私はもう10年以上もおばには会っていないし、おじに至っては一度も会ったことがない。

父との完璧とは言えない結婚生活について私が口にすると、母はすぐに話題を変えた。肩をすくめたり、あいまいな言葉だったり、沈黙だったり、彼女ならではの絶対的な「NO」を突きつけてきた。

だから、見つけた写真の中の母が、私と同い年のころの母が、のびのびとしていて恋に夢中だったから、鏡に反射した閃光を見たような気持ちになったのだ。写真には父も写っていた。丸メガネをかけた父は母に向けて満面の笑みを見せている。大きな革製の椅子にもたれかかっている母は、笑って両肩をすくめている。2人はまるで何か自分たちにだけわかる冗談を共有しているようだ。そして注目すべきは母の服装。クロップ丈のトップスを着ている!

どういうことなのか知りたくなった。写真を見せてまわって知っていることを聞こうとも考えたが、秘密主義の父を動揺させてしまうと思ったのでやめた。代わりに、大学の課題のふりをして父にいくつか質問を投げかけてみることにした。

父の答えによって私はさらに驚くことになった。

母はフィンランドで働いていた。シカゴのジャズクラブを父とよく訪れていた。コロラド州での生活を楽しんでいた。父の話を聞きながら、世界を探検し、自分の居場所を作り出すイージーゴーイングな旅人が思い浮かんだ。

それから数カ月かけて、母に直接尋ねる勇気をかき集めた。

母は両親の死にたった1人で立ち会っていた。父親が心臓発作で倒れた時、一緒にいた母が救急車を呼んだが、なかなか来なくて蘇生はかなわなかった。当時、母はわずか17歳だった。 

それから数年後の8月、母は大学院を休学し、がんで闘病中の母親の看病に専念した。しかし、母親もクリスマスが来る前に亡くしてしまった。若くして母は両親ともに失ったのだ。

これらの事実が明らかになったことで、母を見る目が急に変わった。想像を絶するトラウマを乗り越えた、様々な感情が絡みあった女性なのだ。子どもの生活の逐一を把握したいと母が思うのは当たり前だったのだ。ほとんど前触れなく、両親を失うという経験をすれば、生きてそこにいる家族に執着するのは当然のことなのだ。自分がこれまでに軽んじてきた母の愛情表現を一つ一つ思い起こした。若さゆえのいらだちで見えていなかったものたちだ。

23歳になった今、母と距離を取ったことを申し訳なく思う。母は親をどちらも亡くし、湖岸にたった1人で立つ。両親に近づきたくてもパドルがなくて近づけない。完全には思い出すことができない思い出があるだけなのだ。

私はできることなら、渡ることのできない湖岸に必要以上に早く立ちたくない。しかるべき時が来たとしても、母のことを「決まりごと」の一面だけで記憶に留めたくない。母が持っていた夢、訪れた場所、大好きだった人たちのこと、そして彼女が払った犠牲のことも全部思い出に刻みたい。

そのためにもまずやるべきことは、母との間にできてしまった溝を埋めることだ。

成長して好きなファッションをし、どんなニックネームだって自分で決められるようになった私は、これまでよりも母に電話するようになった。きょうだいを見習って、母と2人で出かける機会も意図的に増やしている。一緒にサイクリングに出かけたり、地元のピッツバーグを探索したりして楽しんでいる。

2023年4月には母が私を訪ねてニューヨークに来てくれた。高級レストランで、私が「ここではたくさんの結婚式が行われるんだろうな」と言うと、母がまたひとつ過去について打ち明けてくれた。

私の祖母はブライダルコンサルタントとして働き、新婦がウェディングドレスを選ぶ手伝いをしていたそうだ。予期せぬ新たなファミリーヒストリーに、私は夢中で耳を傾けた。あの写真の中の女性が目の前にいるのだ。

たぶん、写真の中の女性はいつだって私たちの前にいたのに、私が気づかなかっただけなのだ。母に質問することを避けてきたことがどれほど影響したのだろうか。「NO」と言ってきたことが、母のことを知るチャンスをどれほど妨げてきたのだろうか。

母からの宿題の質問よりも、ずっと難しい問いだ。答えを知るには母と私がどちらも心を開く必要があり、おそらく痛みをともなう。親が子どもの成長のステージをすべて見届けられる一方、子どもは保護者としての親しか知らない。親としての姿以外、何にも知らないとはたと思うのはこのせいだ。知らないことは本当にたくさんある。

私は母に過去について謝った。母も同じように謝ってくれた。親子関係はこれまでになく強固になった。

霧の向こうに見える母のところに渡ることのできない湖岸に立たずにすみ、感謝でいっぱいだ。まだすべての問いを投げかけたわけではないが、オールをつかみ、漕いで母のもとに近づいた自分を褒めてあげたい。

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筆者のJacqueline LeKachman氏はアメリカ・ニューヨークに拠点を置くフリーランスライターで、ワシントン・ポストやWIRED、Business Insiderなどに寄稿している。英語の教師でもある。

ハフポストUS版の記事を翻訳しました。