家族の秘密ごとは、なにも珍しいことではない。
おそらくすべての家族が、恐れや恥、自己防衛や愛のために、他人やお互いから何かを隠したことがあると言っても過言ではないだろう。
とはいえ、秘密が明らかになった後も、その重圧から沈黙が長く続き、やがて背負い切れないほどの重荷を感じる人ばかりではない。
でも、私はそうだった。
1985年、私がまだ13歳の時、42歳で外科医だった父が心臓発作を起こし、手術を受けた。
その8カ月後、こう知らせを受けた。
手術中に輸血された血液にHIVが混入しており、父が感染したとーー。
それから約40年経った今では、HIVに感染しても、薬物療法によって健康で長生きできるようになった。しかし1985年当時は、この病気と診断されることは壊滅的で、ほぼ確実な死を宣告されたことに他ならなかった。
1980年代のHIV/エイズ
当時、エイズはまだ謎に包まれており、人々は誤った情報や偏見を信じ込んでいた。私たちは、HIVに感染したのはその人たちの責任だと信じ、怯えた社会に生きていた。
1985年秋のTime誌の特集記事では、「エイズ患者」を「The New Untouchable(触れてはならぬもの)」と呼んだ。
HIVの感染経路に関する情報は、一貫性なく矛盾しており、人々はウイルス感染者と接触することさえ恐れた。HIV陽性またはエイズであることが知られた人々の多くは、仕事や家、友人や隣人の支援をも失った。
さらに事態を悪化させたのは、1980年代から90年代初頭にかけて、エイズは神の怒りの武器であると主張した福音派キリスト教右派の信者たちだった。「エイズは同性愛者に対する神の罰というだけでなく、同性愛者を容認する社会に対する神の罰だ」「同性愛者に対する自然の復讐」などと言う人もいた。
こうした有害な言説は、父が病気の診断を受け止めるのを困難にした。父は敬虔なクリスチャンであり、同性愛は罪深いライフスタイルの選択だと信じる原理主義教会の伝統の中で育った。そのため、自分の状況と、この病気やその原因に対する社会や福音派教会の姿勢を受け入れるのに苦しんだ。父は自分の体裁が崩れるのを恐れていた。
父は経験豊富な医師だったが、自分自身、そして医療システム全体が持つ、HIVに関する知識の限界に無力感を感じていた。
当時唯一確かだったのは、病気は急速に広がること、そして治療法がないことだった。父は、自分の知る患者たちの情報から、いつ、どんな酷いかたちで死ぬかわからない、と感じていた。
父は患者を感染させたくないという思いから、医療行為を断念するという苦渋の選択をし、医療法律協会の顧問となった。自身がHIVに感染していることで、母や、私と兄弟たちが排除されるのを拒んだ。父の病気は秘密だった。
家族でも語られない「秘密」
最初に父の感染がわかった時、両親は私と弟にはその事を明かさなかった。後になって知ったが、その時兄たちには伝えられていた。
研究者によると、私たちの脳は、トラウマを再び体験しないよう隠すことができるという。その体験に結びついた恐怖やストレスから私たちを守るためだ。その体験が永遠に隠されたままになることもある。おそらく私に起こったのはそれだろう。父の病気について知った経緯の記憶には不可解な穴があるが、父の診断から数日後に彼の病気の事を知っていた。
父のHIV感染を知って、自分の世界が覆されるのを感じながら、事実を整理し始めた:
・ニュースでは、主にゲイの男性がウイルスに感染して恐ろしい病気になったという話で溢れていた。
・雑誌の表紙で、エイズは「疫病」「伝染病」「脅威」といった言葉で表現されていた。
・親たちはHIV陽性の子どもたちを遠ざけようと、憎悪に満ちた言葉が書かれたプラカードを持って学校前でデモを行った。
・私の中2のクラスの男子グループが、「近づきすぎるとエイズになるかもしれないぞ!」と笑いながら他の子達をいじめ始めた。
・教会の一部の人たちは「神はこの病気を罪人への復讐として使っている」と言っていた。
・エイズに治療法はない。
・誰もこうした事を私と話そうとはしなかったので、私も話してはいけないと理解していた。
私の安心感を奪ったこの事について、私は口にすることができなかった。どれだけ悲しかったか、孤独だったか、混乱したか、恐ろしかったか...。眠れずに、ベッドのヘッドボードに寄りかかり、膝をギュッと抱え、ベッドカバーを顎まで引っ張りあげていた夜について、誰にも話せなかった。
父がどう死ぬのかを想像しながら、脳裏を駆け巡る恐ろしい考えとイメージを遮断しようとしたが、できなかった。
父はその後、10年生きた。
漂う苦悩、そして孤独
こうした状況に道しるべはなく、両親は、私と兄弟たちができるだけ普通の生活を続けられるように必死で、病気について話さないことが私たちを守ることになると願っていたんだろう。それは私たちが明らかに病気について知っていると両親が気付いた後も続いた。
ふりをするのは簡単だった。父はHIV感染の5年後にエイズを発症し、次から次へと日和見感染症(抵抗力が弱っている時に病原性を発揮しておこる感染症)に苦しめられた(私はずっと後になって知った)が、晩年まで病気には見えなかった。
他の家の父親たちと何ら変わった様子はなかった。ほとんどの日は、起きてスーツを着て仕事に行くことができた。週末には芝刈りをし、庭の草むしりをした。スキーにアイススケート、水泳にボート。我が家のゴールデンレトリバーを連れて長い散歩にも行った。人生は続き、私たちもそれと共に歩んだ。
しかし、ファサードの向こうには、私たちの苦悩が重く漂っていた。カリスマ性と知性に溢れ、とても大きく見えていた最愛の父は、病気の偏見と恥辱の下で縮こまっていた。
父の肉体的・精神的なケアの大部分を担ってきた愛する母は、その重荷に押し潰されていた。私たちはみな苦しんでいたが、秘密が作り出した沈黙が、共に悲しみを分かち合うことを妨げた。代わりに、私たちはそれぞれ、孤独に対応する道を進んだ。
秘密からの解放
亡くなる2年前、父は本を書き始めた。それは、自身の身に起こった混乱を理解しようとする、個人的で癒し的な試みとして始まった。
ストーリーが進むにつれ、父は母にその一節を読み聞かせ、母は自身の考えを付け加えた。2人の間にある考えが芽生えた。私たちは何か言いたいことがあるのではないかーー。HIV/エイズと共に生きた経験が、誰かの助けになるかもしれないーー。
もしかしたら、両親のユニークな体験談が、90年代初頭のエイズへの「神話」を払拭し、違う声を届けることができるかもしれない。クリスチャンとして、この壊滅的な病気の犠牲者に対するキリスト教会の破壊的な偏見を批判し、どんな形であれ、苦しみの前で、より愛に満ちたキリストのような対応を促すことができるかもしれない。
両親の話には、9年間の沈黙を破り、彼らの...いや私たちの秘密を打ち明けるだけの重要な意味があるかもしれない...。
私は、この本のコンセプトについて慎重に考えた。この本を書くことが父にとってどれだけリスクを負うものか分かっていたからだ。この試みは不安定で、細い糸を1本1本紡ぎ、私たちを孤立から救い出す命綱を作るように感じられた。
本が出版されたのは1995年。父が他界する半年前だった。
両親はやっと秘密から解放され、自分たちが耐えてきた事についてようやく他人に話せるという安堵感を味わっていた。
そして、この本がカナダの新聞「Globe and Mail」のベストセラーリストに載ると、友人や見知らぬ人たちから数えきれないほどの支援の声が届いた。父の最期の数カ月間、その応援は両親の支えとなった。
自分を偽り続けた
しかし皮肉な事に、この本の内容が家族内で語られることはほとんどなかった。
私はその頃結婚したばかりで、遥か遠くに住んでいた。私は恐れや悲しみ、喪失感、怒り、混乱、羞恥心を閉じ込め、偽り続けた。私の沈黙は、蓄積されたその感情を抱えきれなくなるまで20年以上続いた。
偽りを続けることは、自分にも他の誰かにとっても良いことではなかった。私は大丈夫じゃなかったーー。これまでもずっと...。
だから、私はカウンセリングを受け始め、ペンを手に取り書き始めた。
私に起こったことの答えを見つけるまでの道のりは、長く苦しいものだった。
私の人生を「ビフォー」と「アフター」に分けたあの瞬間を振り返る必要があった。直面するにはあまりにも辛い「アフター」の記憶を掘り起こさなければいけないこともあった。あまりにも恐ろしく、見るだけで死ぬかと思うこともあった。自分に未だに刻まれていた恥や恐怖の直面し、暖かい言葉をかけなくてはならなかった。執筆について教えてくれたメンターたちや素晴らしいセラピストのサポートによって、私はようやくその方法を見つけた。
それまでずっと、私は本来の自分でいられたことがなかったと気付いた。声に出せないすべてのことが、その邪魔をしていたのだ。長年の沈黙の経験を正直に語ることで置き換え、その壁を取り壊すことができた。
私たち家族の経験を理解し、そこから意味を見出すための私の道のりは、言葉によって刻まれた。母や兄弟たちは違う道のりを歩んだ。兄弟のうち2人は父の足跡をたどり医師になり、困難な人たちをケアするという父の使命を自分達で体現している。
1番上の兄は、HIVやエイズなどにより荒廃した、世界中の社会的弱者のために活動する国際救済団体の代表を務めている。
父の他界後、母は仕事を変え、一時期は家族セラピストとして働き、自身の思いやりや孤立の経験を活かし、困難な状況に対処している人々に寄り添った。
最近の私は、自分の本の読者の前に立ち、これまで感じたことのないような自信を持って話している。観客が1人しか来ないこともあれば、追加の椅子が必要なほど会場が満席になったこともあった。
でもその度に、私は観客と深い繋がりを感じる。
私の本を読んでくれた人たちや、イベントで手を挙げてくれた人たちが背負っている具体的なストーリーや苦しみを私は知らない。分かるのは、自分が背負ってきたものだけ。そしてその重荷を下ろすことがどれだけ気持ちの良いことかを正直に話している。
私の言葉が、誰かの言葉にならない重荷を下ろす手助けになればと願っている。
ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。