『母を捨てる』━━。そんなセンセーショナルなタイトルに、驚かれる人も多いかもしれない。
実の親を捨てるとは、「なんてひどい」「親不孝者」と感じる人もいるだろう。日本社会において、むしろそっちのほうがマジョリティな気がする。だから私は今も後ろめたい気持ちを抱えながら、それでもこの原稿と向き合っている。
本書は、私が「母を捨てる」までの軌跡を描いた実話だ。耳を疑うような人生に驚く方も多いだろうが、全てが実際に私の身に起こったことである。
※この記事には虐待に関する記述があります。読まれる際はご注意ください。
母の虐待はいつも気まぐれだった
母との最初の記憶でもっとも鮮明に覚えているのは、光だ。眩いばかりの太陽の光。それは、母の虐待が起こるのが決まって、西日が当たる奥まった部屋だったからだ。一つは、父の書斎だった。母は天気のいい日に、幼稚園児の私をその部屋に引きずっていった。そして押し入れにあった毛布でぐるぐる巻きにして、私の呼吸を奪い、首を絞めた。気がつくと私は、幾度となく気を失っていた。
もう一つは風呂場だ。母は風呂場の水に、頭から容赦なく私を沈めた。「ごめんなさい」を言いたくても、最後の「さい」まで言えずに、気がつくと再び水の中に引き戻される。
圧倒的な力によってねじ伏せられる無力感。あの底知れぬ無力感は、未だに忘れることができない。水しぶき。波打つ水。幼少期の記憶の彼方にあるのは、そんな一瞬一瞬のフィルムを切り取りとったような断片だ。母の虐待はいつも気まぐれで、いつ起こるか予測がつかなかった。
母の虐待から生還すると、そこにはいつも「光」が見えた。眩いばかりの光が━━。だから太陽の光は、私がこの世界に生還した証だった。
本書では、まずこうした母から肉体的暴力を受けたときの当時の心境と記憶を手繰り寄せ、子どもの側の視点からつぶさに、そして鮮明に、描いたつもりだ。3歳児の私は生存したいという生物としての欲求、本能のみで生き延びてきた。そんな私がこうして今も生きているのは、ただの偶然に過ぎない。
家庭という密室で行われる虐待
私の身体が大きくなると、母の虐待は教育虐待に変化した。最近でこそメディアが大々的に特集するほど社会的な関心を集めている「教育虐待」だが、当時はあまり注目されていなかった気がする。
当時の母は、「早期教育ブーム」熱が真っ盛りで、私はその洗礼を受けた。私の場合、教育虐待である習い事虐待が凄まじかった。母の自慢は、3歳から娘をピアノの前に座らせたことだったからだ。
「うちの娘は、3歳からピアノを習っているの」。それが何よりも母の自慢の種で、周囲に触れ回っていた。しかしそれは言語を絶するスパルタ教育と隣り合わせである。音程を少しでも外そうものなら、太ももを定規で叩かれる。あまりの痛みに泣きながらも、再び鍵盤に向き合う。そして休む間もなく、様々な習い事に通わされる。習字に、水泳に、染め物、そして、こうして「書くこと」もそう。その合間には当然ながら、膨大な勉強が待っている。つらいのは、いくら母が虐待を繰り返す鬼のような側面があったとしても、子どもにとっては唯一無二の存在であるという点だ。あの時の私は子ども心に、母の愛を手に入れることだけに日々命を削っていた。母に承認されることが何よりも嬉しく、それだけを生きがいとしてきた。私にはそれ以外に、存在意義なんてどこにもない。幼心にそう信じ、思い込まされていたからだ。
教育虐待の恐ろしいところは、いわば「条件付きの愛」という点だ。調子の良い時は褒められ賞さんされるが、失敗すると一気に子どもからアイデンティティを奪う。
私は、まさにこれで悪夢のような挫折を味わうことになる。
地元の私立中学に進学したものの、いじめに遭い不登校となり、母の言うエリートコースから降りざるを得なくなったのだ。その時の心境は、今でいう「人生詰んだ」状態である。絶望感は凄まじく、自分自身を激しく責め、のたうち回るほどに苦しんだものだ。
なぜならば親の期待に応えらない子どもは、要らない存在であるという価値観が骨の髄まで染みついていたからだ。そのため私は、何度も自殺を考え実行しようとした。
本書で伝えたいのは、そんな母も、時代と社会の産物だという点だ。本書で描いた肉体的、精神的虐待をにわかに信じられないという感想もよくいただく。しかし多かれ少なかれ「子どものため」という免罪符のもと、母のような側面を持っている親は実は多いのではないか。
母の虐待は家庭という密室で行われた。そしてその閉鎖性ゆえに、なかなか明らかになることはない。現実問題、母の虐待は、私以外の誰にも知られることはなかった。この家庭という密室の狂気を、本書を手に取った多くの人に知ってほしい。その犠牲者となるのは言葉を持たない、もっとも弱い存在であることを。そして母のような存在を生みだした社会の在り方について、多くの人に一緒に考えてほしいのだ。
孤独死とセルフネグレクト
そんな私も命からがら成長して大人になった。大人になり母から肉体的暴力を受ける機会はなくなったが、私にとって母は依然として重い存在であった。母は、妊娠、出産という次なる女性としてのステージの世間体という「圧」を、ジワジワとかけてきたからだ。いわゆる機能不全家族で育った私は、子どもを持つことが怖い。しかしその反面、母の期待に応えられない自分に苦悶し、嫌悪した。こうして振り返ってみると、結局母によって受ける承認を巡る苦しみは、幼少期から変わらず私を縛っていたのだと、気づく。
そんな私が、ノンフィクション作家という職業に就き、孤独死の取材をするようになった。
現場で遺族の方の聞き取りをするうちに、過去の私のように母親から虐待やネグレクトを受けていたケースにも多く遭遇した。孤独死の現場は、ごみ屋敷やモノ屋敷がほとんどだ。ごみ屋敷化や不摂生など、自分で自分の身体を痛めつける行為をセルフネグレクト(自己放任)という。自己肯定感が低く、自分自身の心身を大切にできない。社会とも折り合いがつかず、セルフネグレクトになり、孤立して若くして命を落としてしまう。
私自身セルフネグレクトには、心当たりがある。仕事でうまくいかなくなると、一気に不摂生になり、自分の身体をないがしろにする癖が抜けない。だから孤独死現場に立ち会う度に、心が痛んだ。彼らは私であり、私は彼らであったかもしれない、と。だからこそ、親から自由になる方法を何としてでも見つけなければならないと感じた。
人生を取り戻すために「母を捨てる」
その後の私は、取材者である特権を生かして、「親を捨てる」方法を、水面下で懸命に模索した。わかったのは、親に苦しむ子どもたちにとって、親が死ぬまでのラストスパートが最もつらいということだ。親が元気なうちはまだいいが、介護が必要になると、あらゆる判断を迫られ、弱った親に苦しめられる。血縁主義がはびこる日本社会の前に、立ちすくんでしまう。だからこそ、そんな社会に立ち向かわなければならない。どうやって?
その方法や、「母を捨てる」までの一部始終は長くなるので本書に譲るが、なぜ私が母を捨てなければならなかったのか、最後に触れておきたい。
それは「自分の人生を取り戻す」ためだ。
『母を捨てる』を刊行して、いくつか取材を受けた。ある取材で本書を書いた理由を聞かれ「自分の人生を生きるため」そんな言葉が、無意識に口をついた。これまで思いもしなかった言葉に、私自身が驚いた。そしてようやくわかった。私は私の人生を生きたかったのだ、と。そんな当たり前のことを望むことすら許されなかったのだ、と。
答えは、至極シンプルだった。親のためではなく、かけがえのない自分の人生を生きるため。そう、自分が幸せになるために━━。だから私はたとえ親不孝者と後ろ指を指されても、「母を捨てる」。苦しかったら、親を捨ててもいい。本書によって親によって苦しんだ子どもが親と離れることも一つの選択肢として受け入れられる社会になることを願う。
思えば私は、いつも光とともにあった。本書が親に苦しむ全ての人たちを照らす、一条の光になればとても嬉しい。
(文:菅野久美子 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)