第二次世界大戦中に原子爆弾の開発を率いた物理学者、J・ロバート・オッペンハイマーの映画「オッペンハイマー」の公開が、日本でも3月29日から始まった。
作品では、オッペンハイマーの生涯や、アメリカ・ニューメキシコ州での原子爆弾の開発などが描かれた。
私は高校と大学で計2年間、ニューメキシコ州に留学した経験があり、現地では原爆開発の歴史についての授業を取ったり、核開発や原子力についての博物館を訪れたりした。
博物館のお土産コーナーには「原爆グッズ」が並び、核開発を「誇り」や「遺産」と肯定する展示には、大きな衝撃を受けた。
(初出:BuzzFeed Japan News 2019年8月9日)
2008年から2009年にかけて、私はアメリカ南西部ニューメキシコ州の高校に留学していた。
ニューメキシコ州は、広島と長崎に落とされた原爆が作られた場所で、人類史上初めて、核実験が行われた場所でもある。
下の写真は、1945年7月16日にニューメキシコ州北部アラモゴードの砂漠にある「トリニティー」(三位一体)実験場で行われた、史上初めての原爆実験の様子だ。この数週間後、広島と長崎に原爆が投下された。
街の「誇り」である原爆開発
留学先の高校は州都のサンタフェにあり、普段は原爆のことについて考えることはなかった。
衝撃を受けたのは、原爆を開発した国立研究所があるロスアラモスを訪れた時のことだ。
ホームステイ先のホストマザーが「ニューメキシコ州に留学した日本人なら、行っておくべき場所がある」と、車で1時間ほどの場所にあるロスアラモスに連れて行ってくれた。
第二次世界大戦中の1943年、原爆を開発するマンハッタン計画のもと、ロスアラモス国立研究所が創設され、そこで原爆が開発された。研究所には今も国内最高峰の科学者らが集まり、軍事関係の研究や開発が行われる「閉ざされた研究所」だ。
この街にあるブラッドベリー科学博物館を訪れた。
博物館の最も目立つところに展示されているのは、1945年8月6日に広島に投下された「リトルボーイ」と、8月9日に長崎に投下された「ファットマン」のレプリカだった。
その横で流れていた映像の字幕を目にして、衝撃が走った。
“World War ll was finally ended by the only two nuclear weapons.” (第二次世界大戦はついに、たった2つの原子爆弾によって終わった)
「原爆投下こそが長きにわたった戦争を終わらせ、戦争が続いていればさらに犠牲になっていたはずの多くの命を救うことができた」
この認識は、アメリカでは決して珍しくない。しかし、日本で小学生の頃から原爆投下による被害を学び、平和教育を受けてきた日本人の高校生にとっては、衝撃的だった。
この広い博物館の中に当時あった原爆の被害に関する展示は、出口付近にある広島の焼け野原のパノラマ写真だけだった。
全身が焼けただれた子どもの写真もなければ、被爆者が苦しみを語る証言パネルもない。
まるで奪われた全ての命を無視するような展示だ。そう思い、パノラマ写真の前で、しばらく立ち尽くした。
展示はあくまで「戦勝国の米国」としての目線であり、戦争を終わらせた原爆を開発した街の「誇り」として歴史を紹介している。博物館のウェブサイトには「遺産の歴史を紐解こう」という文字が踊る。
ロスアラモスで原爆がどのように開発されたのか、詳細な説明の展示があった。写真や資料を交えた年表の前には「原爆の父」と呼ばれるロバート・オッペンハイマー初代研究所長と、マンハッタン計画を指揮したレズリー・グローヴス米陸軍准将の像が立っている。
この記事を書くにあたり、アーカイブから写真を探した。2016年2月に博物館で撮影されたという、来館者の感想が綴られたノートの写真を見つけた。
そこには、日本からの来館者の「世界が平和でありますように」という言葉。しかしその下には差別用語を含み「だから日本に原爆を落としたんだろ」と英語で書かれている。博物館のスタッフか他の来場者かはわからないが、消しゴムで消してあり、文字は薄くなっている。
一方で核なき世界を望むメッセージもあった。
「核の根絶を」「とても興味深い展示でしたが、偏っていると思います。原爆は何十万人という罪のない人の命を奪ったのに、それがここでは語られていません」
「その綺麗な建物は何?」
留学中、「米国では原爆の被害が若者に知られていなさすぎる」と感じる出来事があった。
美術の授業でのことだ。建物のデッサンを練習する日で、生徒はそれぞれ描くモデルとなる建物の写真を持参していた。
私が用意したのは、出身地の観光名所・大阪城と、広島にある原爆ドームだった。
隣に座っていたアメリカ人のクラスメートは、原爆ドームの写真をみて「その綺麗な建物の写真は何?どこかの遺跡?」と私に聞いた。
「原爆ドームを知らないの?」
原爆を落とした国の人たちが、日本人にとっては原爆被害や平和のシンボルである原爆ドームを知らない。信じられず、尋ね返した。
答えは「No」だった。
「戦争中にアメリカが落とした原爆で破壊された広島の有名な建物だよ。原爆のことは知ってるよね?」
悲しい気持ちになりながらも、できるだけ責める口調にならないように尋ねた。
クラスメートは「あ、それは歴史の授業で少し習った気がするよ」と少し焦った様子で答えた。
原爆グッズがお土産コーナーに並ぶ博物館
私は2008〜09年の高校留学を終えた後、日本国内の大学に進学した。2012年に、大学の交換留学制度を使い、再びニューメキシコ州に1年間、留学した。その際、大学があった同州最大の都市アルバカーキにある国立原子力博物館を訪れた。
ロスアラモスのブラッドベリー科学博物館での経験があったため、原爆開発を肯定する内容の展示があるだろうことは、予測していた。
それでもショックだったのは、同館のお土産コーナーだ。
お土産コーナーに並んでいたのは、ファットマンやリトルボーイのキーホルダーやショットグラス。
広島に原爆を投下した米爆撃機B29の「エノラ・ゲイ」や2つの原爆のピンバッチや、置物。自分の目を疑った。
米国の有名科学者をコップのデザインにした「HEROS OF SCIENCE(科学の英雄たち)」というシリーズにはオッペンハイマーも入っていた。
米国人生徒に囲まれて学ぶ原爆開発の歴史
ニューメキシコ大学での交換留学中、原爆開発に関する歴史の授業を受講する機会に恵まれた。
講義名は「原子爆弾ーロスアラモスから広島までー」。歴史学専攻の院生や大学4年生を対象とした少しレベルが高い授業で、毎週毎週、辞書のように厚い文献を読み、論文を提出する課題が出た。
アメリカの大学は社会人の学生も多い。この授業にも40、50代の学生がいて、高いレベルの議論が交わされていた。教授はロスアラモスでの原爆開発を研究する、いわば原爆の歴史の専門家だったが、リベラルな視点を持った人物だった。
私たちが知る原爆とは、原爆投下が引き起こした被害のことだ。
原爆という兵器がなぜ、どのような経緯で開発され、その後軍事的、政治的に利用されていったかという歴史を学ぶ機会は、日本ではほとんどない。
膨大な量の課題を読みながら、米国史専攻の院生や社会人学生が多い授業についていくのは正直、大変だった。
授業では「トルーマン大統領はなぜ原爆投下を決めたか」「そこにアメリカのロシアとの関係性はあったか」など、内容の濃いディスカッションが行われた。
日本人留学生が1人、アメリカ人学生でいっぱいの教室で原爆について学ぶことに、不安さえも少し、覚えていた。
初めは「私が日本人だと知ったら、何か言ってくる学生もいるんじゃないか」「口に出さなくても本当はどう思われているんだろう」と思っていたが、クラスメートは一学生として接してくれた。
セメスターの最後の授業で、広島や長崎の復興に関する動画を見た。
その後の意見交換の時、勇気を出して、どれだけ多くの生存者や遺族がまだ原爆によって心に傷を負っているか、そしてどのように広島や長崎の街が強く、美しく復興を遂げたかを話したことを覚えている。
最終日だったので、授業終了後に教授にお礼を言いに行った。すると一冊の本を手渡された。
「私はもう教授職も引退するし、あなたは原爆の歴史のクラスを受講してくれた初めての日本人だった。この広島についての本は日本語で書かれている部分もあるから、あなたが持っておいてくれるのが良いだろう」
お礼を言って、日本へ帰国しても原爆について学ぶことを約束した。
留学を終え帰国した後、通っていた大学が共催していた平和プログラムに参加した。
長年8月に続けられているプログラムで、日本とアメリカの学生らが共に広島と長崎を訪れ、原爆投下の被害や歴史について学ぶものだ。
両県で被爆者から直接話を聞き、資料館を訪れ、6日と9日には追悼式典に出席した。
日米の学生が多かったものの、カナダからの参加者や、日本側には韓国や中国からの留学生もいた。
広島の韓国人原爆犠牲者慰霊碑や、長崎の原爆朝鮮人犠牲者の碑で共に献花をし、日本の加害の歴史について伝える長崎人権平和資料館(旧:岡まさはる記念長崎平和資料館)も訪れた。
語り部としてお話を聞かせてくださった被爆者の方の「核廃絶を」「長崎を最後の被爆地に」という悲痛な願いが心に残っている。
唯一の被爆国として、日本がすべきことは
被爆者らが長年求めつづけ、2017年に国連でようやく採択され、2021年に発効された「核兵器禁止条約」に、日本政府は署名をしていない。
条約採択の原動力となった「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」が2017年にノーベル平和賞を受賞し、広島で被爆したサーロー節子さんが、オスロでの授賞式で核廃絶を訴える講演を行い、世界中で賞賛されたにも関わらず、日本政府はその後も、参加していない。
原爆をテーマにしたテレビ番組も、年々減っているように感じる。日本は世界唯一の被爆国として、原爆投下を二度と繰り返さないために、最大の努力ができているだろうか。