第二次世界大戦中、原子爆弾の開発を率いた物理学者J・ロバート・オッペンハイマーの伝記映画「オッペンハイマー」が3月29日から日本で公開される。
米アカデミー賞作品賞で最有力候補となるなど高く評価され、社会現象化する本作だが、中には、原爆やその被害の認識において、日本とのズレを突きつけられる感想や批評も目立つ。
その「ズレ」は「日米での歴史観の違い」として片付けて良いものなのだろうか。
核保有国であるアメリカは、これまで1000回以上の核実験をおこなっている。多数の地域が実験場となっているが、そこで引き起こされ、今も続いている放射能の健康被害は、十分には知られていない。
「なぜ原爆が悪ではないのか アメリカの核意識」(岩波書店)の著者で、シカゴのデュポール大学で倫理学を教える宮本ゆき教授は、「描かれなかったのは、広島や長崎の被害だけではない」と指摘。「原爆の開発者オッペンハイマーの苦しみは、原爆や核実験の被害者の苦しみよりも優先されるべきなのか」と問いかける。
「議論が広がれば」という期待は、裏切られた
「『オッペンハイマー』をきっかけに、核兵器の非人道性を知るための議論が広がれば、という期待は、当初私にもありました。けれど、その期待が裏切られることも多く、原爆投下はジェノサイドだという認識は、考えていた以上にアメリカでは薄いのだと気づかされました」
宮本さんは、アメリカの大学で20年以上「原爆論説」や「核の時代」などの授業を受け持ち、「オッペンハイマー」公開時にはパネルディスカッションに参加し、観客らの反応を直に見てきた。
2023年7月末に日本で起きたバーベンハイマーのネットミームへの批判は、アメリカでも報じられた。しかし、そうした原爆をめぐる無邪気な消費は顧みられることなく、その後も広がり続けていると、宮本さんはみる。
高校の秋の恒例行事「スピリットデー」では、「バーベンハイマー」の日が設けられた学校もあった。バービーやオッペンハイマーのコスプレをする生徒が相次ぎ、「原爆の父」がバービーと並んでポップアイコン化された。
オッペンハイマーが指揮を執り原爆を開発した「マンハッタン計画」の地であるニューメキシコ州ロスアラモス一帯は、映画のヒットを受け観光客が増加。宮本さんによると、現地の歴史博物館では、少なくとも2007年時点では広島・長崎に投下されたリトルボーイとファットマンが対になったピアスが売られていたといい、2023年5月にも、放射能マークのマグカップが、グッズとして博物館のSNSで紹介されている。
原爆のこうした認識の背景には何があるのか。宮本さんは「個人の問題ではなく、国が作り上げてきた『語り』の影響がある」と強調する。
「原爆が戦争終結を早めた」「50万人のアメリカ人と、日本人の命も救った」という“神話”に、「(対ソ連・共産圏からの)自衛のために核兵器を保持しておかなければいけない」という正当化や核抑止論。
こうした言説・ナラティブ(物語)は、今もアメリカ社会に根付いており、教育やエンタメ、軍隊、宗教などの影響も受け、再生産され続けている。「核兵器や放射能に肯定的な社会では、核実験などの被ばく者が被害を認識しづらかったり、語りにくかったりする社会通念がある」と、宮本さんは分析する。
「映画の中では、原爆や核兵器に対しgenocideやmass destructionという言葉を使っていて、その点は評価できますが、世間一般にはその認識は浸透していません。
たとえば、アウシュビッツ強制収容所で毒ガスとして使われたチクロンB。殺虫剤に使われる化学薬品ですが、その発明者を『〇〇の父』と英雄視したり、発明に至る話をエンターテインメントにしたりはしないはず。でも、広島・長崎で市民が無差別に殺された原爆はエンタメとして消費されてしまうんです。
『オッペンハイマー』を見たうちの何人が、国連の核兵器禁止条約の存在、そしてアメリカも日本もこの条約を批准していないことを知っているでしょうか」
一部では、核廃絶の機運を高めるためのキャンペーンに繋げようとする事例もあり、アカデミー賞の当日、ロサンゼルスに「核の時代の終わり」を訴えるポスターが貼られる。
こうした動きについて、宮本さんは「核廃絶に向けて前進していると思う一方、すでに起きている被ばくについて意識されているのかという懸念がある」と指摘する。
一部の映画出演者やオッペンハイマーの孫のチャールズさんらも署名した公開書簡では、世界9カ国が約1万3000発の核兵器を保有する現状に言及されているが、原爆やアメリカの核実験などこれまでの具体的な被害については触れていない。宮本さんは「すでに環境が汚染され、人々が傷ついていることに踏み込んでいたら、もっと力強いメッセージになったのではないでしょうか」と話す。
「被害者はいつヒューマナイズされるのか」
核兵器は「敵」から「私たち」を守ってくれ、安全保障と平和に欠かせないーー。こうした核をめぐる根強い「語り」のパターンを、映画「オッペンハイマー」は解体し、新たな視座を提供する作品になり得るのだろうか。
《以下、ネタバレには配慮していますが、一部映画内の具体的な描写について言及しています》
映画のストーリーは大きく2つのパートに分かれている。オッペンハイマーが原爆開発に成功するまでの過程と、終戦後、冷戦が続く中で水爆開発に反対したことで追い詰められ、共産主義者との繋がりからソ連のスパイと疑われる過程だ。
映画では、原爆を生んだオッペンハイマーや、アメリカ政府による原爆の使用を単純に「擁護」しているわけではない。原爆投下により広島と長崎で1945年だけで20万人以上が亡くなったことが言及され、オッペンハイマーの「良心をめぐる葛藤」や「罪の意識」のようなものも描かれている。
その一方で、広島と長崎で原爆の犠牲になった人々や被爆地の被害は、直接的に描写されない。直前の、人類初の核実験「トリニティ」の場面は、スクリーンいっぱいに炎が広がり、爆発と実験成功を祝う声が鳴り響き、映画の山場として扱われるのとは対照的だ。
アメリカ国内でも被害の直接的な表現がないことに批判が出ているが、一方ではオッペンハイマーの「苦悩」を描いていることなどを根拠に「被害を軽視しているわけではない」とする見方もある。
宮本さんはどう受け取ったのか。
「広島、長崎、そしてアメリカ国内にもいる被ばく者がヒューマナイズされる(人間性を与えられる)ことがないまま、加害側の人間だけが『実はこんな苦悩があったんだ。罪の意識に苛まれていたんだ』とヒューマナイズされてしまって良いのでしょうか。
もちろん、オッペンハイマー自身がヒューマナイズされることが悪いわけではありません。けれど、その加害の苦悩を伝えることは、被害を描いてこそ実現できるのではないかと考えます。単なる数字や集合的なシンボルとして扱われてきた被害者はいつヒューマナイズされるのでしょうか」
クリストファー・ノーラン監督は日本の被害を描かなかった理由について、「オッペンハイマーの経験を主観的に描いている」からだと説明している。「オッペンハイマーは広島と長崎での爆撃は、他の人と同じようにラジオで知った」「私はドキュメンタリーを作ったのではない。自分なりの解釈だ」ーー。(Variety、IndieWireより)
原爆投下後、科学者たちが被爆地のフィルムを見る場面があるが、カメラが捉えたのは、被爆地の惨状を直視せず、うつむくオッペンハイマーの姿だった。原爆の成功を祝うセレモニーに集まった人々に犠牲者を重ね、人の肌が剥がれていく幻影を見るシーンもある。
「観客は、オッペンハイマーの前にあったフィルムがどんな被害を写しているのかはわかりません。監督の説明であれば『彼の主観』だから、ということになるでしょうが、その被害の様子を観客と共有することも、選択肢としてあったのではないかと思わざるをえません。
幻視のシーンについても、犠牲者が現に存在し、その痛みを訴え続けているにもかかわらず、なぜ彼の『想像の中の被害』を見させられなければならないのでしょう。広島と長崎で実際に起きたのは、あの幻影よりも遥かに悲惨で、内部被ばくなども含め長期にわたる被害です」
広がるオッペンハイマーへの“共感”。描かれなかったのは「広島と長崎の被害」だけではない
宮本さんが危惧するのは、この映画により、オッペンハイマーが「原爆の父」として英雄視され、その「苦悩」や「内面の複雑さ」に共感が集まる一方で、被害者が置き去りにされる構造が、より強固なものになっていくことだ。
「この映画がスタンダードな原爆観になっていくことには危機感があります。加害側の苦悩やトラウマを無視して良いわけではありませんが、社会的に『強者』であった彼らが下した決断のもとで苦しむ被害者よりも、加害者に対する共感の方が強くなってしまうのではないか、と。
実際に、“共感”の一例として、現代の『民主主義の危機』と重ね合わせる見方もあります。核開発や原爆についてではなく、『すばらしい科学者であったオッペンハイマーが、レッドパージによって没落してしまう。そういうことが起きるのが、トランプ元大統領の出現を機に民主主義が崩壊しつつある今のアメリカと通じる』というもので、政治的な意図で失脚させられたオッペンハイマーに自分を重ねる、という見方です。もちろんそういう見方も可能ですし、(『民主主義の危機』と)重ね合わせざるを得ない社会背景があるのも事実ですが、こうした反応にも『被害者の不可視化』を感じます」
この「被害者の不可視化」は深刻で、特に原爆の人的被害は、歴史などの授業でも学ぶことはほとんどないのだという。核兵器の所有や使用についても、政治学や国際関係学の中で「軍備・外交」といった分野で扱うことがあっても、多数の市民の命を奪う大量破壊兵器であり、人権の問題だとの意識は希薄だ。
このことから、映画で描かれなかったのは、広島や長崎の被害だけではないという点も、注意深くみる必要があると宮本さんは説く。これまでアメリカが行ってきた1000回以上に及ぶ核実験などによる放射能被害、あるいはマンハッタン計画の拠点の一つだったロスアラモスで土地を奪われた先住民の人たちも、映画には登場しないのだ。
「ロスアラモスは元々プエブロ系の先住民たちの居住地でしたが、国立研究所の設立に伴い土地を強制的に奪われました。今もその周辺に住んでいる人たちは、環境破壊や健康被害を連綿と受け続けています。ですが、そういった歴史は、映画をはじめロスアラモス歴史博物館にさえ展示されていません。
なぜオッペンハイマーの苦しみは、これらの人々の苦しみよりも優先されるのでしょうか。そこに疑問を持たず、受容する社会通念とは何なのか。それを考えた先に、核兵器のない世界が実現されるのだと思います」
♢
後日公開のインタビュー後編では、映画の詳しい描写をもとに「原子力とジェンダー」の関係や、ピュリッツァー賞を受賞した原作の原題「アメリカン・プロメテウス」が象徴するものなどについてみていきます。また、アメリカで発売中のパッケージ版に付属したオッペンハイマーのドキュメンタリーにおける、広島の被ばく者の証言の取り扱いなどについても、宮本さんと考えました。
(取材・文=若田悠希、國﨑万智/ハフポスト日本版)
【宮本ゆきさん】
広島県出身。シカゴ大学大学院で修士・博士号を取得。被ばく被害と倫理に関する研究を行い、デュポール大学(シカゴ市)で20年以上にわたり倫理学の講義を受け持ち、「原爆論説」や「核の時代」などの授業を担当している。2005年以降、学生たちと広島・長崎を訪れる短期の研修プログラムも行っている。