「ほとんどの人は、島に豊かな暮らしがあった、なんて知らないでしょうね」と、硫黄島生まれの奥山登喜子さん(90)は言う。「余すところなく伝えたい。硫黄島っていうところは、忘れちゃだめなんだよ」──
2月17日に都内で開催される「硫黄島強制疎開80周年記念シンポジウム」(主催・明治学院大学国際平和研究所/全国硫黄島島民3世の会)に、島民3世で芥川賞作家の滝口悠生さんらと登壇する。
苛烈な戦いの前で
「硫黄島」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、太平洋戦争末期の苛烈な地上戦かもしれない。日米あわせて約5万人が死傷。日本軍が全島要塞化を図り、総延長18キロに及ぶ地下壕をつくった硫黄島の戦いは、クリント・イーストウッド監督、渡辺謙さん、二宮和也さん出演の映画「硫黄島からの手紙」でも描かれ、強烈な印象を残した。島では今も1万人を超える戦没者の遺骨が見つかっていない。
2023年には硫黄島沖で海底火山が噴火し、ニュースでも報じられた(気象庁によると、海上の表出部分は現在「岩程度」に縮小)。
けれど、硫黄島がどんな歴史を辿ってきたのか、いつから、なぜ、この島に民間人が自由に立ち入れないのかについては、奥山さんが言うように、ほとんど知られていない。
開拓から半世紀 硫黄島にあった暮らし
東京都心から南へ1250キロ先の太平洋に浮かぶ、小笠原諸島最大の島、硫黄島(東京都小笠原村)。近年は地殻変動による隆起で面積が増え、大きさは29.86平方キロになった。
硫黄島が日本領土となったのは、大日本帝国憲法の施行翌年の1891年。名前の通り、島には良質な硫黄があった。
当時の日本は「帝国」の拡大、南洋の開発を進めており、火薬などの原料となる硫黄の採掘を目的とした、本格的な開拓が始まった。
翌92年の朝日新聞では「硫黄島航路」の広告がスタートしている。東京から硫黄島へ。人や物資を載せた定期船が就航し、八丈島などから硫黄島へ移り住む人も増え、戦前の硫黄島には、約1200人が暮らした。
硫黄の採掘から砂糖の生産、医療・軍需用コカインの原料であるコカ栽培などへと、国や市場の需要に応じて主産業を変化させながら、人々は漁業や農業を営み、牛や豚、鶏を飼い、自給自足的な生活を営んだ。
水源のない島で、各家庭は雨水をタンクにためて、生活用水や農業用水に使用した。便利ではなくても「協力して、知恵を絞ってやれば、できないことはない。みんな助け合うからね」。奥山さんはそう振り返る。
豊富な野菜にパイナップル、バナナ、レモン、マンゴー…自然豊かな島で、収穫したものは互いに分け合い、食に困ることはなかった。島の中心地には役場や神社、学校があり、テニスや野球、相撲などのスポーツも盛んだった。
なぜ復興されなかったのか
島の暮らしを断ち切ったのは、戦争と強制疎開だ。
太平洋戦争末期、日本軍は硫黄島を本土防衛の砦とした。
島の地下要塞化を前に、島民たちは疎開を余儀なくされた。島民のうち男性ら103人は、壕の掘削や食料調達などのため島に残された。
残された人の多くは戦死し、両手のかばんほどの身支度で疎開した人たちは、慣れない土地で苦労を重ねた。
戦後、硫黄島を含む小笠原諸島は、米国の施政権下に置かれ、硫黄島と父島には、核兵器が持ち込まれた。
小笠原諸島が返還されたのは、終戦から23年後の1968年。
このとき日米両政府の間で、有事の際の核再配備が事前協議の対象となることが確認されている。
返還された島々が復興を遂げていく一方で、硫黄島は復興計画から外された。
島民有志らは「帰島促進協議会」を結成し、帰島を求め陳情を重ねたが、84年、小笠原諸島振興審議会は「火山活動が激しく産業の成立条件が厳しい」ことを理由に、一般住民の定住は困難との意見具申書をまとめ、島民が帰る道を閉ざした。
だがそもそも、開拓の目的だった硫黄の採掘は、火山活動とともにあった。島民たちは土地の隆起や水不足など、厳しい条件を乗り越えて、戦前の社会を築いていたのだ。
気象庁によると、避難を必要とするほどの火山活動はこれまで観測されていない。
80年間続く、排他的な利用
島民の帰郷への道が閉ざされる一方で、国は硫黄島が返還された68年度から、島に自衛隊を置き、防衛施設の面積を次第に広げていく。
硫黄島沿岸では、海上自衛隊による機雷処分訓練が毎年行われている。
91年からは、米軍による空母艦載機の離着陸訓練(FCLP)が開始。
戦争で本土防衛の砦となった硫黄島は、80年経った今も、防衛のため排他的に使われ続けている。
硫黄島を巡る国の対応は、当事者であるはずの島民たちを除外して進められてきた。当事者の視点を欠いたまま、島を利用して得た「安全保障」を、社会は享受してきた。
「硫黄島ー国策に翻弄された130年」の著者でシンポジウムを企画した、明治学院大・石原俊教授は「80年もの間、全島民が帰還できない状態は、世界的に見ても異様だ。戦後日本は、硫黄島を差し出し、踏み台にすることで、平和と繁栄を得てきた。国は自治体任せにせず、少なくとも、島民が望むときに島で1週間程度の滞在ができるよう、主体的に動くべきだ」と述べている。
島民たちに向けて、東京都は80年から自衛隊機などを使った墓参事業を行なっているが、日帰りまたは1泊2日のスケジュールだ。小笠原村は97年から、東京・竹芝ー父島間を結ぶ定期船を使った訪島事業を行ってきたが、大型化した船の停泊が土地の隆起などで困難になり、船での上陸墓参は2016年が最後となった。
家族が眠る島
「硫黄島には、あんちゃんたちが眠ってるんだもの。どんなに帰りたいと願ったか」。奥山さんは力を込める。疎開時に兄2人は島に残され、亡くなった。
返還後の帰島運動には、父と一緒に参加した。戦死した兄や仲間たちの骨を探したい、と遺骨収集事業に参加したことも7度ある。
遠く離れ、ライフラインの整備されていない島に、今住めないのはわかっている。それでも「生まれ育ったふるさとを捨てさせられて、ご先祖様を残したまま、こっちに来ちゃってるんだ。何十年も島民たちが暮らした島を、なかったことにしちゃいけない。硫黄島っていうところは、忘れちゃだめなんだよ」──
奥山さんが登壇する「硫黄島強制疎開80周年記念シンポジウム」は、2月17日、東京都港区の明治学院大学で、14時から開催される。
祖父母が硫黄島出身の「島民3世」で、戦前の硫黄島で生まれた人たちと島をルーツにもつ現代人とのつながりを描いた長編小説「水平線」(新潮社)で織田作之助賞を受賞した、芥川賞作家の滝口悠生さんらも登壇する。
滝口さんは「継承には『語る人』と『聞く場』の両方が必要で、僕は祖父母が硫黄島出身だけど、そう多くを聞いていない。シンポジウムは、硫黄島のディティールを語る人の声を聞く、貴重な機会になる」と話す。
シンポジウムに関する問い合わせは明治学院大学平和研究所(PRIME) 03-5421-5652へ。
(取材・文=川村直子)