熊本県阿蘇地方は、27万年前からの度重なる噴火によりできたくぼ地「カルデラ」に、約5万人が暮らす世界でも珍しい場所ーー。
カルデラの真ん中には有名な活火山・阿蘇山があり、その周辺には日本最大2万2000ヘクタールの草原が広がっている。
約1万3000年前、縄文時代から存在したと言われている阿蘇の大草原。草原は日本の気候では自然の力だけで維持されることはないため、長い間、人と自然が手をとり合い育まれてきた。そのため「千年の草原」と呼ばれている。
しかし今、その歴史ある草原の存続が危ぶまれている。農業形態や生活様式の変化、放牧の減少、そして草原を保つ「野焼き(草原に火を付け、枯れ草などを焼き払い芽吹きを促す)」の担い手不足などによって、その面積は過去100年でほぼ半減してしまったのだ。
しかし、観光客が楽しみながら貢献することができ、地域も活性化できたら…?
そこで市が取り組み始めたのが、草原を保護しながら観光に活用する「サステナブルツーリズム」だ。
遊んで守る阿蘇の草原
阿蘇のシンボルでもある草原には、国内外から多くの観光客が訪れる。しかし、立ち入るには特別な許可が必要となるため、以前はただ眺めるだけで、経済的価値を生むことはなかった。
それではもったいないと、特別な許可を得たガイドによる、トレッキングやマウンテンバイク、乗馬などの草原を活用したアクティビティをスタート。2016年にはこうしたアクティビティ体験料の一部を草原保全料として還元する仕組みが確立された。
そうした取り組みが評価され、阿蘇市は持続可能な観光地の国際的な認証団体Green Destinationsから「世界の持続可能な観光地100選」に2021年、2022年と選ばれた。今では熱気球体験やヨガなど様々なアクティビティの選択肢があるが、草原の中を走るE-MTB(電動付きマウンテンバイク)ライドは、2023年の観光省のサステナブルな旅アワードに選ばれるまでになったという。
普段入れない草原を走るプレミアムな体験
そんな人気のE-MTBを、実際に私も体験させて頂くことに。
私が訪れた1月末には、草原といってイメージする緑鮮やかな大地ではなく、乾燥したススキが生い茂り、1週間前に降ったという雪がところどころ残っていた。私はマウンテンバイク経験はほとんどないのだが、大丈夫だろうかー。
ガイドをしてくれるのは、地元のアドベンチャーガイド会社「あそBe隊」代表の薄井良文さん。元消防山岳救助隊長ということで非常に頼もしく、ツアーでも「隊長」と呼ばれている。
説明を受け車道を少し走ったあと、ついに草原へ。隊長は「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたゲートを開けると、石灰を撒き始めた。
「この草原には、放牧している牛や馬がたくさんいるので、病気を持ち込まないように、これを踏んで消毒してから入ってください」
特別な許可を得てのツアーだという「プレミア感」を再認識しながら、撒かれた石灰の上を歩き、バイクの車輪を回した。草原がしっかり管理されていることを感じる。
いざ、草原を滑走。草原は予想以上にガタガタしており、私は目の前に集中するのに精一杯。景色まで見る余裕はなかった。
加えて、草原には放牧されている牛や馬の糞がそこらじゅうに落ちている。避けれられたのも初めの数分...余裕がなくなりその後はずっと牛糞の上を激走した。
ツアー終盤、丘の上で止まって草原を見渡すと、ところどころ低い木が密集したり、森化したりしている部分が見える。
「草原を維持するには人の手が必要なので、管理できなくなってくると、ああやって木が生えて森林化するんです」と隊長はいう。
草原はもちろん綺麗だが、森林だっていいじゃない、と思ってしまうが...。
「草原は景観、つまり観光資源であり、あか牛のための放牧地でもあり、茅葺屋根の材料出荷の場所でもあるんです」と阿蘇における草原の多様な役割について説明してくれた。
そしてさらに探ると、阿蘇の草原の更なる重要性を知ることになった。
草原は放っておくと森林に...。それじゃだめなの?阿蘇の草原が重要な理由
阿蘇の草原は、資源のためだけではなく、環境のためにも重要だと話すのは、阿蘇の自然を守る公益財団法人「阿蘇グリーンストック」の増井太樹さんだ。
「草原は温暖多湿な日本の気候だと自然と維持されることはなく、放っておくとあっという間に森になります」
「草原と森林にはどちらも豊かな生態系が育まれているため、どちらがより優れているのか、生態学者としてもその良し悪しを判断することはできません」と話す。
しかし、日本に森林は国土の約7割を占めるほどたくさんある一方、草原は約1%しかなく、さらに近年、日本各地にあった草原が急速になくなっており、「日本最大の阿蘇の草原がなくなると、草原に生息する様々な生き物が絶滅してしまい、日本の生物多様性が損なわれてしまう」と危惧する。実際、阿蘇の草原には絶滅危惧種を含む、約600種の植物や昆虫、生物が生息しているという。
他にも注目されているのは、九州の「水がめ」としての機能だ。阿蘇は熊本や福岡、大分などの都市に流れる6本の一級河川の源流域で、九州の多くの人の水資源となっており、「実は草原は森に比べて、水を多く育むことができるんです」と話す。
阿蘇地域における最新の研究では、草原は森林と比較して蒸発散量が少ないことなどが分かり、森林よりも多くの雨水を地下に浸透させ、徐々に河川や地下水として送り出すと示唆されている。
そしてその地下水こそが、台湾の半導体メーカーTSMCが新工場を熊本に開所した理由の1つでもある。半導体は生産過程で大量の「純粋」を使うからだ。排水や地下水維持への懸念がある一方、大きな経済効果も期待されている。
草原を燃やす「野焼き」は環境に悪くないの?
ここまでくると、阿蘇の草原の重要性がだんだん分かってきた気がする。
しかし、その草原を維持するために毎年春先に行われる「野焼き」は、環境に悪影響はないのだろうか?
「まず、生き物の観点からだと、実は野焼きで1カ所が燃える時間は数分程度と短く、地中の温度は上がらないんです。そのため地中で冬を越している植物の根や種子、昆虫などは火から逃れることが出来るため生態系に破壊的な影響を与えることはないんです」と増井さんは説明する。
また、最近の研究によると、阿蘇の草原の土壌には世界に類を見ない、極めて膨大な炭素が蓄積されていることがわかってきたという。野焼きを行っている草原は、阿蘇に住む人が1年間に排出するCO2量の1.7倍に相当する量の炭素を固定していることになると言われている。
知って、体験する...。サステナブルツーリズムに大切なのは「上質化」と「ストーリー」
阿蘇の草原の重要性への理解が深まると、草原で行うアクティビティや野焼きへの参加が、どう草原保全につながるのかがよく分かる。
阿蘇市のサステナブルツーリズムを長年推進してきた阿蘇市経済部まちづくり課の石松昭信さんは、こうした「ストーリー」を理解することがサステナツーリズムには重要だと話す。
「草原の大切さを知り、遊び、ガイドや地元の人と交流する。阿蘇を訪れることで、草原の保全に貢献できるという『ストーリー』を楽しんでほしい」と力強く語る。
こうした質の高いアクティビティを楽しむ海外からのインバウンド客も増えており、地元の宿の上質化も進めている。地元内牧温泉の宿の1つでは、コロナ禍後、物置き部屋となっていた大宴会場をスイートルームに改修し、宿泊単価を上げた。すると、少ない客数でも収入が上がったという。
「サステナブルツーリズムには、高付加価値化が重要だと思っています。質の高いサービスや商品を提供していくことで、それに見合った対価が支払われる。宿の場合では、従業員にも良いし、客が少なければフードロスも減る。それによって持続的に循環していく。そこを目指していきたいと思っています」
草原によし、地元の人によし、観光客によし。3方良しの観光モデルを、阿蘇市は実現し始めている。
ーーー
ハフポスト日本版は招待を受け、現地の取材ツアーに参加しました。執筆・編集は独自に行っています。