(編注:記事には家庭内暴力の描写が含まれます)
「もう二度と逃げる心配をしなくていいぞ。家に帰ったらお前の足をへし折ってやるからな」
運転席にいた父が、私に向かって叫んだ。
母と父はきょうだいを引き連れ、家から逃げ出した私をウィスコンシン州グリーンベイの警察署に迎えに来たところだった。
後部座席に座っていた私は、前方の信号を見ながら、車が減速するのを待っていた。タイミングを見計らってドアを開け、飛び降りようと思った。
飛び降りた後にどうするか考える余裕はなかったが、家に戻ればもっと悪いことになるだろうとわかっていた。
その日の朝、私が前の晩に家を抜け出してパーティーに行ったことが父にばれて口論になった。家のルールに反することだとはわかっていたが、親にばれないよう祈りながら、いちかばちか賭けに出た。
しかし、10歳の弟を巻き込んだことで事態は悪化した。
私は弟に、朝家に戻る前にランニングシューズとショートパンツをガレージに出しておくよう頼んでいた。家に戻ってくるのを父や母に見られた時に日課の早朝ランニングに出たと思わせるためだ。
家に入ると、父は私に「おはよう」と言った。「ランニングはどうだった?」
「良かったよ」と私は答えた。
ほっと安堵のため息をついて、部屋に向かった。どうやらうまく逃げ切ったようだ。
しかし数時間後に父が私と弟をリビングに呼び出した時、何か良くないことが起きていると気づいた。
父はなぜかすべてを知っているようだったが、起きたことを説明するよう弟に求めていた。
私は、父が電話を盗み聞きできる録音システムで知ったのだろうと思った。このシステムは、私たちきょうだいが「真っ当な道」を歩んでいるかを確認するために父が導入した最新手段だった。
私に忠実な弟は、話すことを拒んだ。弟が心配になり、私から話そうとしたが、父は即座に私を黙らせた。
「お前の弟が話すんだ」と父は言った。弟に告げ口させようとしているようだった。権威と忠誠心の戦いといったところか。
私は震えながら、弟に「話して」と懇願した。父が時計を外そうとした。それは次に何が起きるかを伝える確実なサインだった。私はもう我慢できなかった。
「逃げて!」階段を駆け上がり、ドアを飛び出しながら弟に叫んだ。裸足のままコンクリートの歩道を走った。父がすぐ後ろに迫っていたが弟の姿は見当たらなかった。
私は近所の庭をジグザグに駆け抜けて大きな茂みに身を隠した。父が去った後に、知らない人の家のドアをノックして警察に電話をかけた。
警察官には私に何もできないと言った。父は私や弟を殴ってはいなかったし、警察は私たちに差し迫った危険はないと判断した。しかし、私は警察よりよくわかっていた。
私は保守的なカトリック家庭の6人きょうだいの上から2番目の子どもで、我が家では激しい暴力が当たり前だった。
物心ついた時から、母と父は常に喧嘩をしており、母がナイフを持って父を追いかけたり、父が母の頭に拳銃を向けたりする事態にエスカレートすることも珍しくなかった。
私が12歳の時、母は喧嘩の最中に父の顔を刺して刑務所に入った。子ども時代、私は常に恐怖の中に生きていた。
なぜ母と父がそんなに喧嘩をするのか理解できなかった。我が家で起きていることは普通でないと気づいたのは中学生になってからだった。
先生や学校のカウンセラーに相談したいと何度も思ったが、父は私たちに「家の中で起きたことを、外で話してはいけない」と厳しく命じた。家族への批判は、聖書でイエスを裏切ったユダのような行為だと父は言った。
時がたつにつれて、両親の間の暴力は減り、怒りの矛先は私たちきょうだいに向けられるようになった。
我が家には厳格なルールがあったが、私は13歳の時には破っていた。
化粧をして、耳にピアス穴を開け(父に見つかり強制的に外された)、許可を得ずに男の子とデートをし、家を抜け出してパーティーに行った。
両親は私たちに「必要なしつけ」をしていると考えていたが、私にはそうは思えなかった。父は「鞭を惜しめば子どもを駄目にする」と言った。ルールを破れば破るほど状況は悪化し、私は反抗と虐待の連鎖の中にいた。
警察から家に戻る車の中で、後部座席に座っていた私の心臓はドキドキ高鳴り始めた。前方の信号が青から黄色に変わり、父は減速した。今しかない。私はドアを押し開けて飛び出した。
転ぶことまでは想定していなかった。立ち上がって走ろうとした時には、すでに両親がそばにいた。ふたりは私の両腕をつかみ、前の座席の自分たちの間に私を押し込んだ。もう逃げられなかった。
次の朝、母は私を医者に連れて行った。顔の左側にあざと父の指輪の跡があり、口を開けられなかった。私は階段から落ちたと医者に説明することになっており、母が近くで見張っていた。
その夜、父は私の部屋に来て「早く良くなりますように」と書かれたカードをくれた。
父は私を強く抱きしめて、頬に2回キスをした。子どもの頃、父はいつもそうしていた。キスは1回ではなく、2回。
父が部屋を出ていった後、私はもう一度鏡に映った自分の顔を見た。悲しみに打ちのめされ、寝室の床に倒れ込んで泣いた。
翌日、私はダッフルバッグに荷物を詰めて家を出た。今度は警察に助けてもらうために必要な証拠を持っていた。最終的に、私は児童養護施設に送られた。警察は2年前に同じ対応を兄にしていた。
兄の事件は私たちの人生を大きく変えた。私は、床に倒れた兄を父が蹴り続けたあの週末の午後を鮮明に覚えている。
兄を救おうと必死になった私は、絶対にできないだろうと思っていたことをやってのけた。父の暴力の音をテープレコーダーに録音したのだ。
兄が学校のソーシャルワーカーに渡したこのテープが、家から解放されるために必要な証拠になった。しかし、録音の出所を警察がうっかり父に知らせたため、私に対する父の怒りはさらに深まった。
残酷な運命のいたずらだった。常に正しいことをして不正に立ち向かえと説いていた父が、その正反対になってしまったのだ。
里親の家での生活は平穏だった。家庭の居心地の良さはいくぶん欠けていたが、もう恐怖を感じなくてよかった。
しかし、私は残されたきょうだいたちが恋しく、心配でもあった。私と兄が保護されたにも関わらず、きょうだいたちは家に残ったままだった。
私たちが住んでいた郡は「最小限の介入」を原則とし、それぞれの子どもが虐待されているという明確な証拠がない限り、家族のもとに残す法制度があったからだ。
良い意図に基づいた方針ではあるものの、このやり方では虐待されている子どもたちや、虐待的な環境の影響を受けている子どもたちが見逃されてしまうことが少なくない。
私は家を出てからわずか5年後の21歳の時に、両親と同じように暴力を振う男性と関係を持つようになり、何度も別れては彼のもとに戻った。その人が虐待や他の犯罪で刑務所に入った時、私は妊娠3カ月だった。
目の前には大きな困難が待ち受けていた。良い親になれないのではという恐怖心がある一方で、社会学を勉強したことで、自分には不利な要素が山ほどあることも知っていた。
虐待された子どもたちは、虐待的なパートナーを選びやすいだけではなく、自分の子どもを虐待する可能性も高い。そうなってはいけない。
私は手に入る限りの育児書を読みあさった。かかりつけの小児科医から勧められたトーマス・W・フェラン博士の『魔法の1-2-3方式』は、暴力を使わない子育てを学ぶのにとても役立った。
私は、娘が安全で、愛され、サポートされていると感じられる家庭を作ることに全力を注いだ。他のすべてが失敗しても、それだけを正しくできていれば良いと感じた。
良い親になることは、自分の過去への癒しにもなった。自己啓発書をたくさん読むだけではなく、セラピーも受けた。
セラピーは、16歳で里親の家に住み始めた時に初めて経験して、有益だと知った。カウンセリングではいつも虐待の過去を話し、セラピストは私に両親を許しているか、許すことは可能だと思うかを尋ねた。私は許していなかったし、許す気もなかった。
しかし、それを考えなおさざるを得なくなる出来事が、妊娠7カ月の時に起きた。
1995年7月のある朝、仕事に行く準備をしていたアパートで、17歳の妹クリスティンが脳出血で倒れた。クリスティンも両親と疎遠になり、当時私と一緒に住んでいた。
救急車を呼んだ後、私は両親に知らせなければならないと思った。私たちは病院で再会し、それから2日後に妹は亡くなった。私たち家族はかつてないほど打ちのめされた。
クリスティンの死ですべてが変わったが、中でも両親は大きなショックを受けていた。悲しみと後悔はあまりにも大きく、ふたりは以前のようには生きられなくなった。妹と一緒に彼らの一部が死んだかのようだった。
両親は私たちとの関係を修復して、出産を間近に控えた私を助けようとしてくれた。それは私には理解できないほど大きな変化だった。
クリスティンが死んだからといって両親の虐待の過去を消すことはできなかったし、両親を許せるかどうかもわからなかった。
それでも妹を失った悲しみに打ちのめされていた私は、やってみようと決心した。
出産に備えて、母はベビーシャワーの準備をして、親戚や友人を招待した。出産の時には、クリスティンにちなんで名づけた娘クリスティルのへその緒を切った。父はきょうだいたちと一緒に、病室の外を緊張しながら歩き回っていた。
生まれた瞬間から、クリスティルは私の両親にとって特別な存在になった。クリスティンの死で、命のはかなさを実感したからかもしれない。私が両親に心を開くことができたのも、同じ理由からだった
以前のパターンに戻りそうな時もあったが、クリスティンとの思い出と彼女を失った悲しみが、口論が暴力にエスカレートするのを防いでくれているかのように感じた。
クリスティルには起きたことを包み隠さず伝えたいと思っていたので、彼女に尋ねられた時、自分が受けた虐待について真実を話した。
それでも、私は過去にとらわれたくなかった。両親は本当に変わったので、クリスティルが祖父母と関係を築くのをためらうようなことはしたくなかった。
クリスティルが4歳の時に両親は離婚し、父はすぐに再婚した。その後、父とは年に2回会う程度になったが、私とクリスティルと母はよく一緒に時間を過ごした。
私はシングルマザーで時間もお金もなかったので、母はできる限り助けてくれた。
私が仕事をしたり友人と過ごしたりできるよう、母はクリスティルの世話をしてくれただけではなく、一番良い学用品を買い与え、毎年新しいリュックサックを持たせてくれた。
クリスティルの野球の試合やダンス発表会、授賞式に毎回出席し、孫の功績を称え続けた。
毎年冬にはふたりでフロリダへ旅行し、夏にはウィスコンシン州ドア郡でキャンプをした(仕事がない時は、私も一緒に行った)。
クリスティルは今でも、エプロンとコック帽子姿のおばあちゃんと、キッチンで料理やデザートを作った思い出を楽しそうに話す。
毎年11月には、夜明けとともに起きてブラックフライデーのショッピングに出かけ、土曜日は母の巨大なベッドでポップコーンを食べながらディズニー映画を見て過ごした。
母はクリスティルを猛烈にかわいがり、助けが必要な時には躊躇なく介入してくれた。
クリスティルは周りの人たちに「私のおばあちゃんは世界一」と自慢していた。
クリスティルがまだ赤ちゃんだった時に、母は私に謝った。自分のしたことを認め、家庭内暴力が私やきょうだいに与えた影響を認めた。
その謝罪とクリスティルに注いでくれた愛情のおかげで、私は許しの扉を開くことができた。
2011年にガンだとわかった時、母は再び過去について話したがった。夏の間ドア郡にオープンした店の外のベンチに座り、「あなたにしたことを謝らなきゃいけない」と言った。
私は「もう何年も前に謝ったでしょ」と答えた。
「ええ、でもあなたが私を許してくれたかどうか知りたいの」と母は言った。「許してくれている?」
母の目から涙があふれ、声からは苦しみが伝わってきた。
私は手を伸ばして母を抱きしめた。「ええ、ずっと前に」と伝えた。
私はずっと前に、母を許していた。
それから2年後の2013年に、母は亡くなった。今、私は母のことがとても恋しい。
父は、二度と暴力を振るったり、「ルール」に従わない家族と縁を切ると言ったりしないという約束を守ってはいたが、過去を謝ろうとはしなかった。
私が暴力の話を持ち出すと、父は話題を変えた。自分がした虐待に向き合い認めることは、父にとって大きな痛みを伴うのだろうといつも感じていた。
だから、私は父は完全に許していないのかもしれない。許しが過去を手放し、関係を続けることを意味するなら、私は許したと言えるだろう。
しかし、父の虐待でもう傷ついたり怒ったりしていないという意味なら、私はまだ許せていない。
母の謝罪が私に安らぎをもたらし、私たちの関係に良い影響を与えたことを知っているから、父とも同じようになりたいと望んでいた。しかし残念ながら、その機会は父が2021年に急死した時になくなってしまった。
私たちは、自分の家族を選ぶことはできない。でも自分の人生をどう生き、どんな人間になるかを選べる。誰を受け入れ、誰を拒むかを選べる。誰をいつ、許すかを選べるし、許せないこともある。
母と和解できたこと、母の愛が私とクリスティルに届いたことに本当に感謝している。
同じような境遇にある人全員が、私のように恵まれているわけではない。
暴力的な生い立ちは私を様々な面で苦しめたものの、私の中で虐待の連鎖は終わった。
神の恵みや、セラピーや小児科医の助け、何十冊もの本、たくさんの努力、そして温厚な性格の子どもを持った幸運により、私はクリスティルに一度も手を上げずに育てられた。
それ以上に、自分が夢見ていたような親子関係を築くことができた。お互いを受け入れ、楽しみ、尊重し、無条件の愛を与え合う関係だ。
クリスティルは今パリに住んでいるため、頻繁に会うことは難しいが、毎日のように話したりメッセージを交換したりしている。
数週間前にパリを訪れ、一緒に街を歩きながらふたりの時間を楽しんだ。パリを訪れた時によく行くサクレ・クール寺院にも立ち寄った。その時、クリスティルはこの寺院で必ずやる、あることをした。祖母のためにキャンドルを灯したのだ。
ハフポストUS版の寄稿を翻訳しました。