「民主党を支持する人は、子どもを持つの?」
アメリカの屋外フェアで、ユタ州南部の民主党のブースを手伝っていると、パンフレットを抱えた女性に尋ねられた。
私は言葉を失い、女性が眉をひそめて待つ間、どう答えるべきか考えていた。最終的に「まあ、私たちも同じ生殖機能を持っていると思いますよ」と答えた。
女性が聞きたかったのはそんなことではないことは分かっていたが、それが彼女に対する私の思う答えだった。
私たちのブースは、共和党や地元団体、宗教団体のブースに溢れる会場内で、目立つ存在だった。私たちの意見に反対する人々に声をかけられることは予想していたが、個人ビジネスを宣伝するためにブースを歩き渡っている女性から、こんなにも変わった質問をされるとは想像もしていなかった。
女性がくれたパンフレットは2枚だけだったが、内容を見ると、妊娠中の母親の超音波画像に音楽を付けたDVDを制作するのが彼女のビジネスだと知った。今度は私が眉をひそめた。もし私が妊娠していたら(それはまだ10年先のことだったが)、どんな音楽を選ぶだろうか?
私の軽率な返答が、民主党支持者は子どもを産まないというあの女性の考えを裏付けすることになったかもしれない。それでも、彼女の態度は私を苛立たせた。彼女はもちろん、民主党支持者も子どもが産めることを知っていた。ただ、望んでいないと思っていたのだ。
私はそのパンフレットをテーブルには置かず、自分のバッグにしまい、深呼吸をした。私、もしくは私が属するグループが、このような偏見に合うのはこれが初めてではなかった。
30代半ばで子どもがいない女性への偏見
30代半ばで子どもがいない私のような女性は、身勝手で、孤独で、間違っていて、見逃している...またはただの変わり者、とどこかで読んだことがある。
また噂では、民主党支持者(ユタ州ならなおさら)は民主党が中絶を支持しているという理由で子どもに否定的だと言われていた。
これらの偏見と向き合うことは、その後の10年間における私のアイデンティティの支点となった。私はそうした偏見とは違う、と周囲の人々に証明しようとした。このように、偏見はエネルギーを自分自身のためでなく、自分を守るために使わせ、魂を傷つける。
「いつか子どもが欲しいか分からない」という状況が許されていないように私は感じていた。それはどちらか一択で、当時確信がなかった私は、偏見の型に嵌められた。
高齢で子どもを持つことへの冷たい視線
10年間で多くのことが起こった。ユタ州からイリノイ州に引越し、夫と出会い、辛い不妊治療を経て、私は44歳で娘を出産した。そして数年後に仕事の転勤で家族でテキサス州に引っ越した。
そこで通い始めたテニスクラスで、2人の女性に出会った。私たち3人とも子どもがいたが、2人のクラスメイトは20代で出産していた。私が44歳で娘を出産したと話すと、2人は眉をひそめ、話を止めた。だから私も話を止め、サーブの練習を続けた。
数週間後、私はテニスコートで、テキサスでは珍しい涼しい秋の空気を感じ、平和でアクティブな朝の時間を味わっていた。でも、フォアハンドの練習中に、1人のクラスメイトが40歳の誕生日だと話したとき、私のスムーズな朝の時間は砕け散った。
みんなで「おめでとう」と言葉をかけた後、私は練習に戻ろうとした。でも、テニスボールの跳ねる音の代わりに聞こえた言葉に、私は唖然とした。
誕生日の女性は「40歳になったなんて信じられない、すっごく年取った感じ!でも、若いうちに出産しておいて良かった。高齢で出産する人の気が知れない。子どもが成長したときに健康で元気でいたいもん」と話した。
私はラケットを下げて彼女を見つめた。彼女は肩の下に落ちてきた巻き髪を指でねじりながら、もう1人のクラスメイトを見た。私を見ようとはしなかった。
もう1人の女性はうなずき、「早く出産すれば、育児を楽しめるよね」と言った。
涼しい秋の空気は今や蒸し暑く、圧迫感があった。反論が得意な私は、言い返そうと思った。でも結局、何も言わなかった。私は47歳(これはクラスメイトにとってはとても高齢)で、反応するのは無意味だと理解していたからだ。
クラスメイトたちは「年をとってから子どもを持つなんておかしい」と私を批判していた。こうした意見は変わることなく、偏見の親戚のようなものだ。ここでの暗黙の偏見は、「高齢で出産する女性は、もっと早く子どもを持つことができたにも関わらず、意図的にそうしなかった」というものだった。
でも、それは私には当てはまらなかった。確かに、30代半ばでは子どもが欲しいか不確かだったけど、まだその時は夫に出会っていなかった。「一般的な時系列」に合わせるために、20代でどこかの誰かと子どもを作るべきだったのだろうか?
そして、夫と私が子作りを始め、何回も不妊治療を経験した後、私の子宮の中央に隔壁があると分かり、手術なしでの妊娠は不可能で、これまでの不妊治療は最初から意味がなかったと分かった。
正しい答えはあるのか?
子どもを難なく授かった人が思うほど、必ずしも妊娠は簡単ではない。テニスクラスへ行く途中にカプチーノを買うかのように、誰もがいつでも子どもを持つことができるわけではないのだ。
もちろん、ユタ州のフェアで出会った女性は、私が子どもを持つのが遅かったのは、民主党を支持しているからだと思っただろう。彼女と私のテニスクラスのクラスメイトは、それぞれが偏見や意見を持ち、興味深い友人同士になっただろう。
私がそのテニスクラスに行くことは2度となかったが、そこでの出会いやフェアでの経験は、私が将来の偏見や批判だけでなく、非難に備えるための手助けをしてくれた。
私が深く理解し毎日のように心配している気候危機は、多くの「犯人」を非難してきたが、親たちも例外ではない。最近の炎天下のテキサスの午後、私は友人のFacebookの投稿を読んだ。それは子どもを持つことに関連するCO2排出量について、そして個人が気候変動を遅らせるためにできる最善のことは、子どもを持たないことだという内容だった。
ユタ州のフェアで民主党を支持する私に偏見を持った女性を、私は面白おかしく思った。テニスクラスのクラスメイトが私を高齢の母親として批判したとき、私は激怒した。しかし、子どもを持つことで自分が無責任に地球を傷つけていると非難されたとき、私は打ちのめされた。そして正直、少し動揺した。新たな人間を世界に送り出しながらも気候変動について心配するなんて、私は偽善者なのだろうか?
思考が渦巻く中、娘が新しいスーパーヒーローを描いた日を思い出した。その名は「ネイチャー・ガール」。使命は動物と地球を助けることで、自転車に乗り、唯一の弱点はアレルギーだ。娘が描いたカラフルなネイチャー・ガールの絵が、控えめな自画像だったのは明らかだった。
私はどちらが地球にとって悪いかを考えた。存在するだけでCO2排出量に影響を与える子どもを持つことなのか、それとも地球を愛し、尊重し、救おうとする子どもを持たないことなのだろうか?
それぞれの人生、それぞれの選択肢
私たちは他人に対して、そして自分自身に対し厳しすぎる。フェアで会った女性、テニスクラスのクラスメイト、Facebookの友人から何かを得たとすれば、それは他人が子どもを持つ、または持たないという選択への高い受容性だ。
あなたが子どもを持つ、または持たない理由を自分が知っていると仮定しないことを約束する。またそれに何か問題があると思ったりしない。あなたが子どもを若いとき、または年を取ってから持った理由、全く持たなかった理由、または他の方法で親になった理由を決して問わない。そして、もし子どもを持っても気候危機の責任を問うことはない。それはもっと複雑な問題だ。私はあなたの選択とあなたのタイミングを、偏見や批判なしで受け入れる。
そして、私は自分自身を受け入れる。地球のことを気にかける44歳の民主党支持者だって子どもを持つのだ。ネイチャー・ガールに聞いてみてほしい。きっと世界を救いながら、それについてすべて話してくれるだろう。
ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。