その声はか細く、少しだけ震えているようにも聞こえた。
2021年、沖縄の合宿地。柏木陽介は自室で、電話の向こうの妻に告げた。
「クビになると思う」
妻は努めて、明るく接してくれた。
人生、なるようにしかならないよ。家族はいつも一緒だから大丈夫。
少しだけ救われた気がした。
だが、電話を切れば、再び現実とひとりで向き合うことになる。ため息は深く、長かった。
どうしてこうなってしまったんだろう。
前編はこちらから>>柏木陽介は自ら「壊れ続けた」。新型コロナに蝕まれたスター選手の転落と再生
◇
ただただ、サッカーが好きなだけだった。
育った家庭は裕福ではなかった。
母からは「少しでも長く使えるように」と、かなり大き目のスパイクを買い与えられた。それをスリッパのようにパタパタと鳴らしながら、夢中でボールを蹴った。
小学生のころから、地元神戸に本拠を置くヴィッセルの下部組織に勧誘された。
それでも周囲の勧めもあり、自由を重視して中学校の部活でプレーした。
世の中は才能を放っておかなかった。
中学卒業と同時に、J屈指の充実した下部組織を持つサンフレッチェ広島が柏木を招き入れた。
ボランチにコンバートされると、才能が開花。
世代別の代表に入り、トップチームにも昇格した。10代のうちに日本代表にも招集され、やがてビッグクラブの浦和に迎えられた。
メディアに取り上げられることも多くなった。
周囲から「トップ選手として、子どもたちが夢を持てるように」と勧められ、運転手付きの高級車で移動するようになった。
上昇志向を持つべき、と無言の声に背中も押され続けた。
代表でもプレーできるように、とトレーニング量を増やした。ときに自分を殺して守備にも奔走し続けた。
ハリルホジッチ監督の日本代表にも招集されていた2016年。
キャリアのピークを迎えていた柏木だが、ある時ポツリと本音をもらしていた。
「オレ、もっとサッカーがうまくなりたいねん。ホンマはそれだけなんやけどな」
◇
生来の人懐っこさもある。
“スーパースター”柏木の周りには、たくさんの人々が群がった。芸能人などとの人脈も増えた。
だからこそ、である。
浦和で”構想”から外れたその日から、人々が引き潮のように自分のもとから去っていくように感じた。
ピッチ内でもそうだ。
通告以前は、チームみんなが柏木の動きを見ながらサッカーをしていた。だから余計に、変わった状況のもとでは「自分の居場所がなくなった感覚」が強かった。
すべてが損なわれた気がした。
すべてを失ったように思えた。
そして自分の未熟さで、その状況にダメを押してしまった。
何より大事にしていた家族まで、傷つけてしまった。
気丈に振る舞う妻、渚さんの声を聞いて、いたたまれない気持ちになった。
好きなサッカーをしていただけなのに…。
自分の人生は、どうしてこうなってしまったのだろう。
◇
このままプレー機会を失うのではないか、とすら思っていた。
それだけに、すぐに獲得オファーが届いたのは、意外だった。
手を上げたのはFC岐阜。
2020年からJ3に降格していたが「再び高みを目指したい」と接触してきた。
話をもらえるだけありがたい。
申し分のない条件も提示してくれた。家族を養っていく上でも、断る理由はないと思えた。
渚さんは慎重だった。
もしも、私たちの生活のために、と思うんだったら、考え直してほしい。そう言ってきた。
「本当にサッカーを楽しめるのか。そこだけは、どんな状況であっても大事にしてね。あなたが楽しくサッカーができているのが、私たちにとっても一番の幸せなんだから」
なんなら、私だって働けるんだからね。
そうも言ってくれた。
本気でオファーを寄せてくれている岐阜に対しても、失礼な判断をしてしまうところだった。
どこでもいいからとってくれるところを…ではない。本当に行きたい先なのか。もう一度、しっかりとクラブのビジョンを聞かせてもらった。
よくよく考えた上で、柏木は岐阜に行くことを決めた。
今度は渚さんも喜んでくれた。
◇
岐阜でのプレーが始まった。
合流してみて意外に感じたのは、個々のレベルが高いことだった。若さもあって、よく走れる。足元の技術も高い。
だが一方で、ものすごく大事なことが欠けているような気もした。
なぜ走るのか。なぜボールをキープし、なぜ蹴るのか。そうしたあたりが、どの選手もまったく整理されていなかった。
だから、局面での判断が適切ではなくなる。
なんでいま、そんな選択するの…?見ていてびっくりするようなことが、練習の中で何度もあった。
思い切って、指摘をしてみる。きょとんとされた。
だって、DFが寄せてきたから…。そんな回答が返ってきた。
寄せてくるやろ。だって、DFはそういうもんやで。
内心そう思いながら、その日はそこまでにするしかなかった。
◇
勝つためには、チームがどうあるべきなのか。
ピッチに立つすべての選手が、常にそこを考えながら局面ごとの判断をしている。
それが当たり前だと思っていた。
大前提がない中で、どうやったら適切な判断につながるアドバイスを受け入れてもらえるのか。
「言葉が伝わらん」
めずらしく、家族にまでサッカーについての愚痴をこぼした。
だがそんな様子を、渚さんは嬉しそうに見守っていた。
「浦和のときだったら、伝わらないと思った瞬間にスッと引いてしまっていたと思うんです。槙野さんとかがそうですが、経験もリーダーシップもある選手がたくさんいたので、誰かに任せればいいや、となっていたんじゃないかと」
ここでは自分でやるしかない。
それは逆に言えば、自分が必要とされている、ということでもある。
浦和では居場所をなくして、心をさまよわせていた。
そんな夫が、根気強く自分だけのタスクを完遂しようと、歩み出している。
妻として、こんなに嬉しいことはなかった。
◇
「最初はやっぱり、話しかけにくかったです。子どものころから見ている選手でしたから」
生地慶充は当時をそう振り返る。
FC東京の下部組織から、筑波大をへて加入したルーキー。
「ほぼ同期入団」と言うには、元・日本代表の経歴を持つ柏木は大きすぎる存在だった。
実際に一緒に練習してみて、より大きな差を感じた。
すべての判断が速い。視野も広く、キックの種類も多いから、想像もしない方向にどんどんパスを展開していく。
別な世界の選手だな。
そう思ったのだが、その割には向こうから距離を詰めてくる。
言っていることは簡単ではなかった。なかなか理解できないこともあった。
とにかく怒られた。あきれたような顔をされることもあった。だがそれでも、根気強く教えてくれようとしていた。
年齢やキャリアのギャップもあって、意見を素直に受け入れにくいところはあった。
だが、見せつけられるプレーは本物だった。しかもそれが毎日、弛みなく続く。この人の言うことには耳を傾けなければ…。そう思うようになった。
1年目のシーズンが終わる頃、思い切ってLINEをしてみた。
来季は陽介さんからレギュラーを奪えるように頑張りますーー。
柏木はいつでも、誰に対しても即レスをする。
このときは少しだけ間を置いて、こう返ってきた。
「メシでもいこうか」
◇
2年目。柏木の生活リズムは変わった。
東京に一時帰宅することがなくなったのだ。
移籍直後は休みのたびに東京に戻った。
こんなときくらいは…と友人を誘う。高級料理店を訪れる。それこそがオフの息抜きだと思っていた。
だが、新しい生活に慣れるにつれ、考えが変わった。
近所には広大で、人も少ない公園がたくさんある。
都内の公園のように、駐車場を確保したり、人混みの中で居場所を探したりするストレスはまったくない。
それだけで、子どもと遊ぶ時間はこんなにも楽しく、リラックスできるものになるのか。
いまさらながらの発見だった。
少し足を伸ばせば、豊かな自然がある。
都内に住んでいる当時は、山登りも、川歩きも宿泊必須の一大イベントだった。岐阜なら気軽に、毎週でも楽しめる。
外食にしてもそうだ。都内のレストランのように華美ではない。
だが飛騨牛のような世界に誇る食材もあれば、全国の食通が集まるような中華の名店もある。
本当の豊かさが、ここにはある。
そんな気がした。
◇
東京に戻るかわりに、柏木は岐阜県内を回ることにした。
クラブは歴史的に、地元と選手の交流イベントを重視してきた。
柏木も可能な限りここに参加するようになった。
個人的にも動いた。
県内各所を訪れては、特産品や観光地をSNSで宣伝した。
とんでもないやらかしをしてしまった自分を受け入れてくれた。
なにか恩返しをしないとーー。そんな考えがあった。
ある時、岐阜で活動するある放送作家と親しくなった。
岐阜の力になりたいんですよ。柏木は熱っぽく語った。
共感してくれると思いきや、その女性は首を振って言った。
「希望を与えるとか、力になるとか、ちょっと上から目線じゃないですかね」
◇
ハッとさせられた。
思えば、岐阜の人に「力になってほしい」と言われたことはなかった。
女性は続けた。
「好きだからここに住む。楽しむ。それでいいんじゃないですか」
そのとおりだと感じた。
そしてこれまでのことも考えさせられた。
自分はずっと「特別な居場所」を求めてしまっていたのかもしれない。
サッカー選手として高みを目指す上では、それも必要だった。
うまいだけでは特別ではない。誰よりも球際で身体を張り、誰よりも走る。そこにこだわったからこそ、日本代表でもプレーできた。
だが、それと引き換えに、純粋にサッカーを楽しむことは難しくなった。
そして何より「特別さ」をピッチ外にも持ち出すようになってしまった。
◇
高級車に乗り、高級レストランに通う。華美な人脈を保つ。
あるいは、何かを与える。そうしていないと、特別な居場所は守れないような気がした。
新しいサッカーをするから使わないーー。
その通告を境に「特別な居場所」は損なわれた。絶望から最後は自ら、居場所を壊してしまった。
そんなものはなくても、豊かな人生は送っていける。
岐阜の土地は、柏木にそう教えてくれようとしていた。
だが習慣なのか、あるいは未練なのか。
「力になりたい」。「希望を与えたい」。発するメッセージには、特別な居場所を求める気持ちがまだにじんでいた。
作家の女性はそこを指摘した。
そして特別ではなく「フラットであること」を勧めてくれた。岐阜に暮らすみんなと同じように、岐阜の魅力を享受する。
それでいい。それがいいのだ。
目の前を覆っていた霧が、一気に晴れていくような感覚があった。
◇
2023年。柏木は現役を引退することを決めた。
最初に伝えたのは妻、渚さん。
そしてもう一つ、決意を付け加えた。
「オレ、これからも岐阜で働いていきたいんよ」
東京には自宅がある。
おそらく家族はそっちに戻りたがる。だから単身で…そう言いかけたときに、渚さんが口を開いた。
「こっちに家を建てましょう」
私も岐阜が好きよ。子育てしやすいし、自然もあるし。
それに何より、と続ける。
「こっちで暮らす柏木陽介が、私は好き。今までよりも、ずっと」
◇
2024年1月。柏木は浦和の街を訪れていた。
旧知の中華料理店に、引退の報告をするためだった。
店に向かって、行列ができているのが見える。
そんな時間でもないけどな…。いぶかしがりながら近づいていく。
なんとそれは、柏木を待ち受ける街のみんなの列だった。
拍手とともに、赤いチューリップを一輪ずつ手渡してくる。店にたどり着くまでに、両手でも抱えきれなくなった。
聞けば200人以上だという。
店のオーナーが声をかけ、サプライズで街の人々を集めたそうだ。みなそれぞれに「陽介、おつかれさま!」と声をかけてくる。
胸の底の方が、じんと温まるのを感じた。
コロナ禍当時のことを思う。
これだけ大事にしてくれた街のみんなにあいさつもできないまま、逃げるように浦和を去るしかなかった。そのことはずっと、心にひっかかり続けていた。
浦和に帰ってこないのは寂しいけど、岐阜で頑張れよ。
そう言ってくれる人もいた。
力強く、柏木はうなずく。
3年越しに迎えた、本当の「門出」の時。
つまりここは、オレの実家のようなもんやな…
そんなことも思った。
◇
金華山から岐阜の街に、冷たい冬風が吹き下ろしている。
その中を柏木陽介が、ゆっくりと走っている。
「太りたくないからね。それだけよ」
照れ隠しなのか、そううそぶく。
長袖シャツのスリーブを握り込むようにして走る姿は、今までと変わらない。行き交う住民に声をかけられては、手を振って返しながら、ゆっくりと歩道をゆく。
送り出してくれた浦和の街と同じように、クラブを街のハブにして、岐阜を盛り上げられたら。
中華料理店での会を機に、そんな思いは強くなった。
一方で、こうも思う。
まずは誰よりも岐阜の魅力を享受すること。すべてはそこからだし、そこに尽きるのかもしれない。
「新しい生活を楽しみますよ」
そう言い残すと、少しだけピッチを上げて去っていく。
その背中はやがて、街の景色の中に溶け込んでいった。