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人は、「死にたい」気持ちとどう向き合っていけばよいのか。
ドイツ文学の研究者でありながら、40歳でASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如多動症)の診断を受けて以来、発達障害の当事者研究をしながら多数の著作を刊行している横道誠さん。2023年9月に出版された『解離と嗜癖 孤独な発達障害者の日本紀行』(教育評論社)は希死念慮(※)が強かった時期に書いたという。
一方、YouTubeチャンネル「未来に残したい授業」を運営し、チャンネルで対談してきた研究者や専門家からの若者に向けた自殺防止メッセージを集めた『9月1日の君へ━明日を迎えるためのメッセージ』(教育評論社)を刊行した代麻理子さん。
「死にたい」気持ちと向き合ってきた2人がトークイベントを開催。参加者との質疑応答を通じて、生きづらさを解消する方法について語り合った。
※希死念慮…「消えてなくなりたい」「楽になりたい」など自殺に対する思いにとらわれること。
<連載の第1〜3回はこちら>
『嫌われる勇気』は仮想敵?
イベント参加者からの質問:「数年前に自閉スペクトラム症の診断を受けました。人との境界線が曖昧で痛い目にもあってきていますが、いまだにうまく人付き合いができません。お2人は境界線について、どのように捉えていますか」
横道:境界線ですか。自分と他人の境界線があいまいな人は、「基本的に他者は自分の思い通りには動かせない。動かそうとすると大事故になる」って割り切って、自分の課題に集中することが大事だと思います。
古代の思想派の哲学で、エピクテトスが「とにかく自分のことに集中しましょう」と言っています。アドラー心理学を翻案した有名な『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)って、私は警戒しているところもあるんだけど、「自他分離」はいいなと思いましたね。
代:『嫌われる勇気』を警戒していたのはなぜですか?
横道:自助グループ界隈にいると「自己啓発の問題」というのがあるんです。
自己啓発的な考え方とは「こういうふうに自分を変えたら、あなたは『勝ち組』になれる」などの考え方です。自助グループは福祉にもつながる世界なので、ある意味では『負け組』のための世界です。でも、一発逆転して『勝ち組』に回りたいと思うのは普通のことなので、自助グループの参加者は自己啓発系の思想に熱中して振り回されてしまうことがあるんです。
自己啓発の発想は「他人と過去は変えられないけど、自分と現在・未来は変えられる」ですが、繰り返し述べてきたように、私は当事者より環境を変えることが重要だと信じています。
当事者の置かれた環境の調整によって現在と未来が変わります。さらに言えば、自助グループに当事者の家族や友人・知人を巻きこむことで、他人を変えることもできます。
また、環境の変化に合わせて当事者の認知も自然に変わっていくので、過去の出来事も違った意味合いで改めて別様に立ちあがるのです。したがって、過去も変わります。
そういうわけで、自己啓発系のバイブルたる『嫌われる勇気』は私にとって仮想敵みたいなものなのですが、それでも、アドラーの「自他分離」、つまり「これは私の課題で、それはあなたの課題でしょう」の考え方はすごく大事だと思いました。そのように割り切ることで、いろんな混乱から抜けられるはずです。
代さんは境界線について、どう思いましたか?
代:私も『嫌われる勇気』には影響を受けました。夫が子ども達に、彼らが望んでいないことを半ば無理やりさせようとしているなと感じた場面があって、「それは子ども本人がしたいことではなくて、親であるあなたがさせたがっているだけだよね。これは子ども達じゃなくて、あなたの問題だよ」と伝えたことがあります。その時は自分に『嫌われる勇気』がインストールされていた感覚があって(笑)。あの本は、伝える勇気をくれる本だなと思っています。
そして、私が「境界線」と聞いて浮かんだのは、発達障害当事者は距離感のつかみ方が下手だということ。私も人との距離感が近すぎる、おかしいと言われることがよくあるんですが、横道さんも『解離と嗜癖』で距離感で失敗したエピソードを詳細に書かれていますよね。
横道:自閉症者や発達障害者が距離感をとるのが下手というのは、公平ではないかもしれません。
つまり、9割の定型発達者にとっての距離感と、1割未満の発達障害者の距離感は違うのかもしれない。発達障害者たちも「普通」を気にするから、定型発達者の文化を自分で取り入れて、擬態しようとするんです。
でも、取り入れ方がみんなそれぞれだから、発達障害者同士でも喧嘩になっちゃうんですよね。
人に近づき過ぎて、自滅する場合の解消法
代:私は人との境界線があまりないというのは、近づき過ぎちゃうことなのかなと思っています。『解離と嗜癖』の中の神戸編が、対人関係の手痛い失敗を描写していて、読みながら青ざめました。
<その人と特別な関係を築きたいと思うあまり、度を越して接近し、まもなく足場を踏み外して、奈落の底へと転落してしまうのだ。相手が戸惑っていることはなんとなく予感しつつ、僕は驀進(ばくしん)してしまう。相手はしばしば僕の熱意にほだされ、絆が固く結ばれたかのような瞬間が訪れる。
でも近しくなった結果として、様々な相違点は、かえって前傾にせりだして見えはじめ、両者のあいだには葛藤が発生してゆく。傷つけあい、軋轢は高まり、関係性は燃え尽きる。そのようなことをどれくらい繰り返しただろうか>(『解離と嗜癖』より)
もう1カ所、私が「うわ、これ私のことだ…」と思った箇所があります。
<交流が深まっていく過程も、それが無に期していく過程も、いつも似たような経過をたどってきた。自閉スペクトラム症があると、それぞれの当事者は他者にとっては謎に満ちた「マイルール」を設定しているものだ。それが人間関係での「地雷」として機能する。僕たちは、絶対に犯してはならない蜘蛛の巣のような結界を築き、その中で生き、死んでいく。
めぐらされた網を他者が犯そうとすると、自分のテリトリーを守るために、侵略してきた者を全力で排除する。排除するためには、すべてを犠牲にしてもいいと言わんばかりだ。だから自閉スペクトラム症者同士の人間関係は、悲劇に彩られている。他者に対する配慮が欠けやすい特性がある上に、自分の領分は命をかけて死守する。双方が互いの地雷を踏みぬくような言動を多面的に展開し、お互いが致命傷を負って、やがて関係を断つことになる>(『解離と嗜癖』より)
横道:発達障害の場合は、同類が少ないから余計に似た人がいると盛り上がっちゃうんですよね。「この人こそ自分の理解者だ」「ベストパートナーだ」みたいに。
もちろん、これは発達障害者に限ったことではありません。「ヤマアラシのジレンマ」と呼ばれる心理学的な概念があって、ヤマアラシが互いに近づき過ぎると相手のトゲが刺さるから、適切な距離を取りましょう、ということ。誰でもそういう傷つき体験を繰り返していますが、発達障害者は自助グループなどに行かないと、「同類」に会うことが少なく、それゆえに出会ってしまうと、「ヤマアラシのジレンマ」を定型発達者以上に強烈に体験してしまう。
代:傷つき過ぎて、もう一度つながりをつくろうという意欲が湧かない人もたくさんいると思います。それでも、もう一度人とつながろうとしたときに、命綱の発想があるといいのでしょうね。本当に困っていると難しいのかもしれないけど…。
横道さんの著書『みんな水の中』(医学書院)には「橋を焼く」との表現がありました。壊れそうになったらつながる道を自ら壊しちゃうという。これも私にはすごく思い当たることがあります。読んでハッとして、もうそういうことはしないようにしよう…と思いました。自意識過剰ですが、横道さんは私に忠告してくれているんだと思っています(笑)。
横道:忠告みたいなことは思っていないけど、私の本は発達障害の当事者よりも、支援者や家族に読まれることの方が多いと感じています。どうにかもっと当事者に読んでもらいたいと思っているので、嬉しい感想です。
(構成:片岡由衣)