日本は「謙虚である」ことを美徳とする。
自分の能力や地位などにおごることなく、素直に意見を受け入れ、接すること。この姿勢の美しさが私は好きだ。
一方で、誰かを心の底からほめても「いえ、そんなことはありません」「とんでもない」などと、私の言葉をまるで否定するかのような反応を見ると、謙虚はおろか、謙遜を通り越して、卑下しているのではないかと思うことがある。
そうした態度は謙虚さの表れなのか、あるいは自信のなさの表れなのか。
内閣府が発表した2018年の調査資料を見ると、日本の若者は諸外国の若者と比べて、自分自身に満足していたり、自分に長所があると感じていたりする割合が最も低い。
この背景には、育ってきた環境、つまり、子育てが影響しているのではないかと感じる。日米で子育てを経験した親の立場から、その違いを考えてみた。
褒めるアメリカ、謙遜する日本
親は子どもに何を期待しているか。
「こんな人になってほしい」と、自分の経験からゴールを描き、親はせっせと子育てをする。他者とのコミュニケーションを重視して、共感的な言葉をかけたり、実利的、実用的な側面を重視して目標達成を促すこともあるだろう。このように親の期待は態度に表れる。
気持ちに日米の差はないが、その態度の表れ方に違いがある。とくに子どもを褒めるシーンにおいて、それが顕著に表れるだろう。
例えば、私の両親の口グセは「あなたは素晴らしい存在」であり、誰にでも自慢した。
これは我が家に限ったことではなく、多くのアメリカ人は子どもを大いに自慢する。とりわけ母親は「あなたは特別な存在よ。賢いし、成功するに違いない」と、ことあるごとに私を褒めた。
誰よりも私を知っている母親が、私を賢いと言ってくれていることが嬉しかったし、心強かった。私にとっては重要な支えであった。
一方、日本では、自分の子どもが誰かに褒められた時に「いえ、そんなことありません」と、親が否定する光景をよく目にする。
先日も、友人の子どもが素晴らしい功績を上げた時に「素晴らしいお子さんですね!」とほめると、「そんなことはないですよ」と、その子の親である友人が謙遜した。
いくらその子が両親から褒められていたとしても、第三者の私の前で「ダメ」と言われたら、謙遜の美徳を備えていない無垢な子どもたちは傷つかないだろうかと心配になった。
また、日米の社会のあり方の違いを実感することもある。
目立つことを嫌い、集団になじむことを好む日本と、秀でてチャレンジすることをよしとするアメリカでは、失敗の捉え方が違う。
あくまで主観であるが、アメリカでは失敗から学ぶ姿勢を重視するが、日本ではまず失敗しないことが重要視されているように感じる。日本人スタッフと話していると、学校と社会とでは「失敗」の捉え方が違っているようにも感じることがある。
例えば、日本の教育現場では自立を促し、失敗を恐れずにチャレンジすることを教えていると聞く。ところが、実際に社会に出た途端、仕事でミスをすると叱られる。これは日米に変わりはないが、叱責を恐れるがあまり、部署のトップの中には任期中に対処すべき問題が起きたとしても目をつぶって先送りする者がいて、それを「事なかれ主義」と呼ぶと聞いた。
社会には「失敗は許されない」風潮があるという現実を知った日本の若者は、せっかく学校で教えてもらった「失敗を恐れずチャレンジ」する姿勢をうまく生かすことができないのではないだろうか。
せっかく養ってきた自己肯定感も絵空事と感じてしまいそうだ。
「謝罪は相手への理解でもある」と専門家
アメリカでも日本でも、親というものは、子どもに幸せになってほしいと思う気持ちを十分に表現し、自信を持たせたいと思っても、なかなかうまくはいかないのが現実であろう。
恥ずかしい話であるが、すでに成人に近い息子たちは確かに立派に育ったが、私の子育てが正しかったかと言われれば、疑問に感じることもある。
なぜなら、息子に、私の過去の行いを指摘されることがあるからだ。もちろん、反省し何とか巻き返したいと思う。
しかし、「確かにそうだと思っても、過去に戻ってやり直すことはできない」。多くの親はそう感じ、そのままにしていることが多いのではないだろうか。
臨床心理学の専門家に話を聞いてみた。
折を見て、「あの時、あなたをわかってあげられなかったね。私のやり方がまずかったね。ごめんね」と素直になるだけで関係性は改善へ向かうという。そして、謝罪は決して勝負ではなく、相手へ理解を示すという側面もある。親が謝ることで、子どもは「自分を理解してくれた」と受け取るという。
この言葉を聞いてハッとした。多くの親は、自分は親として子どもより優れた存在でなくてはいけないと考えるが、そうではないのだろう。
子どもが一人の人間として認められたと実感することが、彼らの自信へとつながるのなら、こんなにうれしいことはない。
「謙虚」。自分の能力や地位などにおごることなく、素直に意見を受け入れ、接すること。この姿勢を今こそ実行するときなのかもしれない。