刑事と容疑者として出会うふたり『別れる決心』はその距離を「食」が代弁する

ライターの西森路代さんと白央篤司さんによる「食」をめぐるリレーコラム。今回は、西森さんが繰り返し見ているという韓国映画『別れる決心』に登場する食事のシーンから、登場人物の心の動きを読み解きます。
『別れる決心』
『別れる決心』
©2022 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED

先月の白央さんのコラムは、私が前回取り上げた『おいしいごはんが食べられますように』について書かれていた。白央さん自身に引きつけているところもたくさんあり、でもそれが私にとっても他人事とは思えずちょっとチクチクしながら読んだ。たくさんの人にも刺さったのではないだろうか。

そのコラムの最後の【蛇足】の部分では、『おいしいごはんが食べられますように』の「芦川さん」の内心が開示されない構成がミステリアスで、市川崑かフランソワ・オゾンに映画化してほしかったと書いていたことにも、興味を持った。 

なぜならば、ここ数日はパク・チャヌク監督の新作『別れる決心』のことばかり考えていたからだ。この映画も、市川崑などが活躍した時代を思い起こさせるミステリアスさがあり、クラシックな趣のある作品でもある。しかし、そうした時代の映画と違うのは、見る角度によっては、女性の登場人物の目線からも、男性の登場人物の目線からも見ることができるように演出していることである。  

妻と食べる鍋、容疑者と食べる高級寿司

『別れる決心』
『別れる決心』
©2022 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED

この映画にも「食」のシーンが随所に出てくる。

最初に登場するのは、主人公の刑事・ヘジュン(パク・ヘイル)と、その妻のシーンだ。週末婚をしているため、土日に離れた町に住む妻の元に帰ったヘジュンは、「お寿司がいいのに」という妻に対して、「寿司は店を選ばないと」「俺のいる間は温かいものを」と言って、アツアツの鍋を差し出す。

映画が始まってすぐにこのシーンがあることで、ヘジュンが韓国映画によく出てくるような仕事一辺倒で無骨な刑事ではなく、週末には自分の時間を持ち、妻に対して自然にケアのできる人物であると物語っている。

次に「食」が出てくるのは、夫殺しの被疑者であるソレ(タン・ウェイ)が、DNAを提出するために警察署を訪れたときのシーンである。取り調べの合間に、ヘジュンは寿司の出前を取り、ソレと一緒に食べる。先述のセリフでも分かる通り、寿司にはこだわりがあるヘジュンだけに高級寿司である。コーヒーを手に、別室で取り調べを見ている後輩刑事は、「(あの高級な寿司は)経費で落とせる?」と言って机を叩き、大げさに悔しがるのだった。

寿司を食べるこのシーンの前後からは、ヘジュンとソレの気持ちが徐々に近づいているのがわかる。中国から来たソレは韓国語がままならず、たまに間違えると、ふたりで笑い合ったり、ソレが海と山では海が好きというとヘジュンは前のめりで「僕も」と言ったりもする。寿司を取ったのは、そういう楽しい雰囲気の延長だろう。

食べ終わった後は、同じタイミングで容器に蓋をし、箱を重ねる。ヘジュンはテーブルをウェットティッシュでふくが、ソレはそのティッシュを自然に受け取って自分の側を拭く。そして、拭き終わったウェットティッシュを、ヘジュンが持つ紙袋に投げ入れる。その一連の流れのスムーズさからは、長年一緒にいる間柄でないと出せないような空気感が醸し出されていた。

ヘジュンが同僚の刑事と一緒に、前出の寿司ほどではないが、それなりに高そうな弁当を食べるシーンもある。

このシーンが何かを物語っているわけではないが、日本では見かけないお弁当なのが印象に残った。ごはんに卵焼き、漬物にナムル、揚げ物、韓国らしい赤い色合いのメインのおかずがそれぞれ仕切られた場所に入っているのだが、その仕切りのひとつには汁物が入っている。日本ならば汁物は弁当箱とは別のプラスチックカップに入っているのが通常だろう。「韓国にはこういうお弁当があるのか!」と文化の違いを知った。きっとパッキンが強力な弁当箱なのだろう。

「食」が持つグロテスクさ

『別れる決心』
『別れる決心』
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私は初回のコラムでウォン・カーウァイの『花様年華』について書いたが、お互いが気持ちを押さえながらも不倫の関係になっていくところや、車の後部座席を印象的に撮ったシーン、劇中で使われるナット・キング・コールの「キサス・キサス・キサス」とチョ・フンヒの「霧」の悲しいメロディなど、この2つの作品にはなんとなく近い雰囲気を感じる(ちなみに「霧」は各種、音楽配信サイトで聞くことができる。曲を聞いただけで、タン・ウェイじゃないが自然と涙が出てくるような曲である)。 

『花様年華』では、食事のシーンが、要所要所に配されながらも、それが感情を示さないことを指摘したが、ソレとヘジュンの「食」のシーンは、ヘジュンの気持ちを表しているように感じる。

例えば、ソレが晴れて被疑者ではなくなった際に、ヘジュンが自分の家でソレのために炒飯を作る。これは、ふたりが近づいたことを意味するのだが、炒飯を作っているときに、ふたりが凄惨な未解決事件の話をしているため、料理がグロテスクに見えてくる。このシーンを見ていると、「食」というものは、こうして恋愛とともに追っていくと、グロテスクなところもあるものだなと、改めて実感させられる。パク・チャヌク、確信犯だなと思うシーンだった。

この映画は何度も見たくなる作品と言われている。私も一度目に見たときは、悲しい余韻に浸っていたのだが、文章を書くために二度、三度と見ると、ひょうひょうとしたシーンが多いことがわかる。

特に、ヘジュンの妻は、ザクロやスッポンなど、女性性、男性性を保つために良いとされる食材にこだわっているのだが、そうした食材のシーンにも、笑えるシーンが多い。

しかし、そんなクスっと笑えるシーンがあったかと思えば、すぐにシリアスな場面へと転換するこの映画。ヘジュンとソレの距離が生まれるにしたがって「食」の在り方も変わっていてせつなかった。二度目に被疑者として現れた彼女の取り調べのときに用意された食事は、もう高級寿司ではなかったのだった…。

(文:西森路代 編集:毛谷村真木) 

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