食品メーカーが開発したのは、「腸」健康アプリ
2023年1月、アメリカ・ラスベガスで開かれた「CES」(旧 Consumer Electronic Show)に、サントリーが初めて出展した。そこでお披露目されたのは、清涼飲料でも酒でもなく、ヘルステックのサービスだった。イノベーションアワードも受賞した。
そのひとつが、スマホアプリ「腸note」だ。
スマホを腹部にあてることで、腸の健康状態が分かるというもの。医師の診断とは違うため、あくまでも目安。腹痛や下痢に悩んでいた金川典正さん(サントリーグローバルイノベーションセンター 研究部)が、自身の経験をもとに開発し、2月16日に正式リリースした(iOSのみの対応)。
腸の不調に悩むのは3人に1人 「着たい服が着られない」「電車に乗れない」
消化器内科が専門の三輪洋人医師(川西市立総合医療センター総長)によると、2016年の調査で、少なくとも日本人の4人に1人が腸の不調を抱えていることが分かっている。軽度の下痢や便秘も含めれば、3人に1人が悩んでいる可能性もあるという。さらに、便秘や下痢が、QOLや労働生産性の低下をもたらすとの報告もある。
金川さんも、まさに腸の不調に悩んできたひとり。「自分自身お腹が弱くて、よくグルグルと鳴っていました。自分なりに対策はしていましたが、突然調子が悪くなるので、どこへ行くにも下痢止めが欠かせませんでした」と話す。
もともとは、サプリメントや「トクホ(特定保健用食品)」飲料向けの基礎研究を進めていたが、腸についても調べ始めた。
100人以上に悩みをヒアリングした。
40代の女性は、便秘の際、なんとか排便しようと頑張りすぎた結果、自分の期待していなかったタイミングで便意に襲われてしまったと悩んでいた。「便秘でお腹がぽっこり出てしまうので、着たい服が着られない」と嘆く女性や、「いつ催すかが不安で、電車に乗れない」と話す若い男性もいた。
自分だけではなく、あるいは自分以上にこれだけ多くの人が悩んでいる。なんとかできないか―。
金川さんが着目したのは、自身のお腹から鳴っている「グルグル」という音だった。
音だけで簡単に腸の状態を把握できて、対処の仕方が分かれば最高じゃないか。
「腸の音(腸note)」というテーマで研究をスタートした。
腸の音を聞いて健康状態を分析 「原始的だが、原点」
スマホアプリ「腸note」は、スマホをお腹に当てて1分ほど録音すると、AIが腸の動く音だけを読み取って分析する。それに加えて実際の便の様子などを入力することで、腸の状態を判断してくれるという仕組みだ。
医師の診断とは違い、あくまでも目安のためのツールだが、分析結果にあわせたアドバイスも提案してくれる。
腸noteの開発アドバイザーで、便秘外来や自律神経などが専門の小林弘幸医師(順天堂大学医学部 教授)は、「違和感や不快感、痛みを感じるのであれば、医師の診断は受けるべきで、腸noteの結果だけを鵜呑みにするべきではないですが、同じ人の腸の状態を継続してモニターできる点が画期的」と話す。
近年の研究で、脳と腸とが密接に関わっていることや、下痢や便秘の原因としてストレスが関わっていることが分かってきている。一方で、ストレスの感じ方は個人によって異なる。食事による腸内細菌の状態や遺伝も千差万別だ。
その点、同じ人の腸について、通常時と不調時との違いを、生活習慣などに紐付けることで、個人個人にとって必要な対応を理解するヒントになり得るという。
「音に注目したアイデアも面白い。医師も聴診器で内臓の音を聞いて、判断していることは多い。原始的ではあるけれど、原点とも言える」
なぜ、サントリーがヘルステック?ほかにも続々と
しかし、清涼飲料やビールで知られるサントリーが、なぜ腸noteのようなヘルステックに取り組むのか?サントリーグローバルイノベーションセンターの安東範之社長は、より良い研究や開発に繋げる狙いがあると話す。
「製薬メーカーであれば、お医者さんを通じて、患者さんの状況が分かって、必要な創薬に向けた研究ができます。我々もお客様が健康でいられることがゴールなので、病気ではないけれど健康のお困りごとがあるという生活者さんの声をもっと捉えて、研究に活かしたいと考えています。そこで、生活者さんと研究者とのコミュニケーションツールとして、ヘルステック領域に踏み出しました」
腸note以外にも、既にいくつかのプロトタイプが出来つつある。
例えば、XHRO(クロ)。首元に取り付けるデバイスだ。
スマートウォッチやスマートリングのように脈拍などを測定できるほか、脳波センサーなども搭載した。あらゆるデータを組み合わせることで、体調変化や加齢状態の予測を目指す。
サントリーいわく世界最軽量レベルで、今後は装着がより簡単なモデルへの改良を目指す。
リアル「やってみなはれ」の腸note
サントリーは「やってみなはれ」の企業文化で知られる。
創業家で現会長の佐治信忠氏は、経営層30人ちかくが円卓を囲む会議で毎回、「やってみなはれ」と発破をかけて締めくくる。2023年は「はちゃめちゃにやってみなはれ」だった。
が、サントリーグローバルイノベーションセンターの安東社長によると、正確には「そこまで言うなら、やってみなはれ」だという。
「お客さんが喜んでくれるのか考え抜いた上で、人を幸せにするために必要だというのなら、縮こまらずに新たな価値にどんどんチャレンジしろ。前例主義や官僚主義に陥るな。ベンチャー精神で取り組め」
という意味が込められている。
3年前、金川さんが提案した腸noteのアイデアは、食品や飲料を本業とするサントリーにとって、当時は辺境や異端ともいえる発想だったと安東さんは振り返る。しかし、「腸の状態は、お客様が健康に生きていくためのバロメータになる」と食い下がった金川さんを「そこまで言うなら」と後押しした。
CESでのイノベーションアワード受賞に、佐治会長も「やってみなはれやなぁ(やってみなはれを体現したな)」と、金川さんらをねぎらった。
介護現場への応用も視野 腸のビッグデータで研究発展を
腸の音をAIで解析する「腸note」。
開発者の金川さんは、そこで得られるビッグデータを活用し、将来的には新たな価値にも繋げていきたいと意気込む。
「より多くのデータが集まって、音と腸環境に関する研究が進めば、音の変化によって排便の30分前予報だって可能になるかもしれません。例えば、介護現場での排泄への対応もラクにできるんじゃないかと思っています」
CESへの出展を機に、国内外の研究機関から共同研究の引き合いもあるという。
「ここ2年間で、関連論文がかなり増えるなど、世界の研究者も音と腸環境の関係に注目し始めています。AI自体の能力や汎用性が高まったことが背景にあると思います。腸noteを通じたビッグデータで、世界の研究の発展に貢献して、多くの人の健康に繋げていきたいです」