異なる思想や考えを持つ相手と対話すること。昨今、これがますます難しくなっていると感じている人は多いのではないだろうか。
社会の分断が深刻だと様々な場面で叫ばれる今、それを解決するためにも対話は欠かせないはずだ。公開中の映画『対峙』は、そんな対話の大切さと、対話できる勇敢さを描く作品だ。
アメリカの高校で起きた銃乱射事件の被害者両親と加害者両親が4人だけで対話に臨む。殺風景な教会の一部屋を舞台に展開されるこの映画は、行き詰まる緊張感の中、誰もが「なぜ」を自らに問いかけ、苦しんでいる姿をありありと映し出している。
監督を務めたのは、これが長編映画初監督の俳優出身フラン・クランツ。同監督に本作の狙いについて話を聞いた。
対話することの勇敢さを称えたかった
クランツ監督は、2018年にパークランドの高校で銃乱射事件が起きた際、インタビューを受ける犠牲者家族の言葉に聞き入ったという。以降、こうした事件に関する書物を読み漁り、銃撃犯の両親と犠牲者の両親が会談する記述に出合ったことが製作のきっかけになったそうだ。
本作は被害者家族と加害者家族の4人の対話だけで構成される。回想シーンなどもなく、極端にシンプルな作りになっているが、それだけに4人が発する言葉一つひとつに重みが宿る。なぜクランツ監督は、このような大胆な構成を採用したのだろうか。
それは、「対話することの勇敢さを称えるため」だと言う。
「様々な記事や本を読んで、憎しみや悲しみを抱えることになった原因の相手と対話できる人がいることに心を動かされました。そんな人々の勇敢さを称える作品にしなければいけないと考え、対話以外の余計な装飾はすべて削除しました。
回想シーンも入れず、音楽も使用せず、舞台を質素で必要最低限のものだけある部屋にしました。4人の登場人物の感情だけが描かれるものにすることが、この勇敢な人たちを最も価値あるものにできると考えたんです」
加害者家族を描くことの難しさ
凶悪事件が発生したとき、私たちは報道を頼りに犯人の生育環境を想像する。加害者家族はバッシング対象になりやすい。クランツ監督は、本作で立場の異なる2つの家族を描くために細心の注意を払い、絶対に加害者家族が「モンスター」のように見えてはいけないと言い聞かせたのだという。
「こうした事件が起これば、加害者の親のことをモンスターだと思う人が多いですが、私がリサーチした中で、そのような人は1人もいませんでした。加害者の両親たちは、ただただ必死だったという人ばかりです。親だって人間ですから間違いもしますし、子どもを愛しているからこそ盲目的にもなります」
クランツ監督は、リサーチの中で加害者の両親に共感している自分を発見したという。
「自分としてもこれは驚きで、自分の気持ちとどう向き合えばいいかわからなくなる瞬間がありました。私も小さい子どもがいるのですが、自分ならどうするだろうと考えざるを得なかった」
クランツ監督は俳優でもあるため、4人の登場人物それぞれの台詞を自ら即興で演じながら考えたそう。その時、すべての人物に感情移入できるように、品格を持った描き方をするよう心がけたという。
「最初は加害者の両親がヴィランというか、敵対的な人物に見えるような描き方になってしまっていたのですが、リサーチの中での気づきがあったので、人として品格ある人物に見えるように修正していったんです」
銃乱射事件の遺族に言われたある言葉
本作がアメリカで公開された際、クランツ監督は、サンディフック小学校銃乱射事件で子どもを亡くした遺族の方と話す機会があったそうだ。その遺族は加害者を赦しているそうで、映画に対しても前向きな印象を持たれたとのことだが、一方でこうも言われたという。
「彼女自身は犯人を赦すことで人生を前に進めることができたそうです。しかし彼女は、誰もがこの映画を応援できるわけじゃない、人によっては痛みを伴う内容だし、(遺族の中には)これは自分の物語ではないと思う人もいるだろうと言っていました」
彼女の言葉には、「当事者性」を考えることの難しさがにじんでいる。アメリカには銃乱射事件の犠牲者が数多くいるが、その心のあり方は一様ではない。この映画の内容で癒される人もいれば、傷が深くなる人もいるだろう。映画として優れていても様々な意見が当事者にもあることを、クランツ監督は重々わかっている。
クランツ監督は、映画に対する残念な反応についても話してくれた。
「この映画は、アメリカの政治的な問題にも絡んでいます。個人的に悲しかったのは、銃規制を求める団体にこの映画の上映の主催を断られたことです。彼らは、この映画は銃社会に反対する姿勢が足りないと判断したようなんです」
クランツ監督自身も銃規制を強化すべきと考えているが、映画の中でそれを示唆するような台詞は確かにない。
「登場人物の1人が映画の中でこう言います。『子どもが自傷行為に及ぼうとした時、自宅の危険物をすべて取り除くのか』と。確かに銃は無くした方がいいと思いますが、銃さえなくなれば解決するかというとそういうことではないと思うんです」
銃をめぐってもアメリカ社会は分断している。本作はその問題に対して性急に答えを出すのではなく、まずは耳を傾けることの大切さを描いていると言える。
「赦す」とはどういうことなのか
この映画は、良い意味で答えを出さない。クランツ監督自身、この映画を作ったことで「よりわからなくなった」と語る。そして、そのことをポジティブに捉えているようだ。
この映画で最も難しい問いかけは、「赦す」とはどういうことなのかだ。クランツ監督にとって「赦す」とは何か聞いてみた。
「自分自身、まだ葛藤しています。『監督はこうした状況を許せるか』とよく質問されます。正直に言って私はその答えを持っていません。人が誰かを赦す、その力は素晴らしいものだと思います。同時に、自分に同じことができるかと問われると怖いとも思うんです」
クランツ監督は、この映画の製作動機の1つとして、「人はいかに他者とつながるのか」への関心があったという。
「分断された現代社会では、人とのつながりが増々大切になるなか、では、どうすればつながれるのかを考えた時、それは人と苦しみを分かち合うことではないかと思うんです。それは楽なことではありません。しかし、それができれば絆が生まれるはずですし、絆を持つことができたなら、もしかしたら『赦す』ことは必ずしも必要ないのかもしれません」
そうしたつながりを象徴するのが2人の母親だと言う。加害者の母親リンダが苦しみを吐露し、被害者の母親ゲイルに同じ母親だと認めてもらうこと、これがリンダにとって何より必要なことだったとクランツ監督は語る。
監督は、一人の人間として、そして一人の親としてこれからの社会の行く末を案じている。今、社会に必要だと感じていることをこの映画のタイトルに込めたそうだ。
「この映画の原題は『MASS』ですが、これは集団乱射を指す『Mass shooting』からきているのではありません。それよりも世俗的に『人が集まる』という意味でこのタイトルをつけました。人が集まるという単純なことが、いまの社会に一番必要なのではないかと思ったからです。
どうすれば集まれるのか、簡単には答えが出せませんが、人と人がつながり、集まれるようにすることが価値あることだと感じられる作品にしたかったのです」