鈴木邦男さんが亡くなった。
新右翼・一水会の創設者。享年79歳。晩年はその言動から「左翼」と言われることも多かった。とにかく日本の右翼・左翼の垣根を取っ払い、分断と対立を乗り越える象徴みたいな人だった。
そんな鈴木さんは、私にとってものすごく特別な人だ。なぜなら、私の人生は鈴木さんと出会ったことで大きく変わったからだ。だいぶおかしな方向に。
初めて会ったのは、私が物書きになるずっと前、20歳そこそこの頃だ。当時の私はフリーターで、北海道から上京してまだ2、3年。何者かになろうともがきながらも何をしていいのかわからなくて、とにかくいろんなイベントに通うなどして「自分探し」の真っ只中にいた。そんな頃、高円寺で開催されたサブカル系のイベントの打ち上げで隣になったのが鈴木さんだった。1996年頃だったと思う。
なんだかぼーっとしたおじさんだなぁ。それが第一印象だった。そんなぼんやりおじさんは話すとむちゃくちゃ面白くて、一緒に飲んでるうちに「新右翼団体・一水会の鈴木邦男」だと気付いた。その少し前、私は小林よしのり氏の『ゴーマニズム宣言』に鈴木さんが登場していたのを読んでいて、「え、あの右翼の人?」と驚くと、鈴木さんは「はい、すみません」と謝った。この時から最後に会った時まで、鈴木さんは何も悪くないのに会うたびに息をするように謝るのだった。いつもニコニコしながら。
さて、この鈴木さんとの出会いで、私は大いなる勘違いをしてしまう。それは「右翼の人って優しくて面白くていい人なんだ!」と思い込んでしまったのだ。これは大切なことなので強調しておきたいが、右翼が皆、鈴木さんのように寛容で優しいわけでは決してない。いや、右翼に限らず、ああいう人は滅多にいない。
しかし、そんなことは全く知らない私は鈴木さんとの付き合いを深めていく。出会って以来、鈴木さんは自分のイベントや一水会の集会などがあるとハガキで知らせてくれるようになったのだ。ハガキ……。今思うとびっくりだが、ハガキは当時におけるSNSのようなものだったのだと思ってもらえればいい。
そうして鈴木さんのイベントなんかにしょっちゅう行くようになり、その過程で出会ったのが作家の見沢知廉氏だった。一水会でスパイ粛清事件を起こして12年の獄中生活を送り、出所してきたばかりだった見沢氏は、獄中で執筆した作品で新日本文学賞を受賞。出所と同時に作家デビューし、三島賞の候補になるなど目覚ましい活躍をしていた。
そんな見沢氏は鈴木さんの後輩的な存在にあたるのだが、自分探し真っ只中の私に彼は「生きづらいなら革命家になるしかない」と無茶なことを言い、左右の英才教育を私に施した。
まずは左翼の集会に連れて行かれるものの、専門用語ばかりで何を言ってるのかチンプンカンプン。次に行った右翼の集会では、「お前らが生きづらいのはアメリカと戦後民主主義のせいだ!」と右翼の人が叫んでるのを聞いて、「戦後民主主義」の意味すらわからないのに何かに覚醒、入会(一水会ではない。2年で退会した)。
その後、右翼に所属しながらも元赤軍派議長の塩見孝也氏と出会い、初対面で「平壌へ行こう!」と誘われて北朝鮮に渡航を繰り返すように。そうしたら5回行ったところで警察からガサ入れが入るのだが、そんな塩見さんとの出会いも鈴木さんなくしてはあり得ないことだった。だって、鈴木さんが「塩見さんは面白いよ」と激推しするのだ。
さて、そんなふうに人生がいよいよおかしくなってきた頃、私は25歳で1冊目の本を出し、デビュー。2000年のことだ。
その頃から鈴木さんは私と会うたびに「どうせ僕は踏み台ですから……」といじけたことを言うようになるのだが、03年、イラク戦争が始まる1ヶ月前には、ともにイラクに渡航。
戦争を止めるため「人間の盾になる」「イラクで戦争反対と訴える」と勇んでバグダッドに乗り込んだのだが、総勢30名ほどのイラク渡航団には右翼の鈴木さんだけでなく塩見さんはいるわ、頭脳警察のPANTAさんはいるわ、渡航団長は一水会の木村三浩さんだわ、ロフトプラスワンの平野悠さんもいればバイトもいるわ、「キツネ目の男」関係者もいるわでイデオロギーが大渋滞の珍道中。
そんなイラク行きでは、塩見さんがアラブの人たちに日本のレッドアーミーの議長と知られると歓迎されることに驚いたり、そんな塩見さんが現金10万円をインフレ率6000倍のイラクでイラク・ディナールに換金したら持ちきれないほどの量になってしまい、ホテルの自室で「塩見銀行」を開店したり(資本主義に反対してるのに)、撮影禁止のとこを撮影した塩見さんが数時間、イラクの秘密警察に拘束されたりと、本当にくだらない思い出しかない。しかもほとんどが塩見さん絡み。
鈴木さんのことで覚えているのは、オヤジギャグだ。今でも忘れないのは、バグダッドにあるアル・ラシイドホテルに入る時。このホテルは入り口にデカデカと「父ブッシュの踏み絵」があり、それを踏まないと中に入れないという思想性強めのホスピタリティが売りなのだが、イラク滞在中、鈴木さんは何度も嬉しそうに「アル・ラシイドホテルには、ブッシュの踏み絵があるらしいど」というオヤジギャグを繰り返したのだった。もう本当に、耳にタコができるほど。そのたびに「もう鈴木さん、何回もうるさい!」と言うと、嬉しそうに同じギャグを繰り返していた鈴木さん。っていうか私たち、イラクに何しに行ったんだろう……。
さて、そんなふうに、私の人生は鈴木さん、塩見さんという父親より年上の右翼、左翼のおっさんと遊ぶことでだいぶおかしな方向に行き、またものすごく楽しくなったのだが、05年、衝撃的なことが起きる。
私に左右英才教育を施した見沢知廉氏がマンションから飛び降りて亡くなってしまうのだ。
一水会に入って間もない82年に事件を起こし、12年の獄中を耐え、その後、作家デビューした見沢さんを、鈴木さんはものすごく可愛がっていた。だからこそ、その落胆ぶりは見ていて辛かった。ある追悼の会で、鈴木さんは「こんなに若い見沢が死ぬなんて。代わりに、代わりに……」と声を詰まらせた。てっきり「代わりに自分が死ねばよかった」と言うのかと思ったら、「代わりに塩見さんが死ねばよかった」と鈴木さんは悪戯っぽい笑みを浮かべ、聞いていた人たちは爆笑。塩見さんは苦笑いしながら「鈴木さんよぉ〜」と食ってかかる、というお決まりの左右コントが繰り広げられたのだった。
そんな塩見さんも17年、亡くなってしまう。鈴木さんが顔を傷だらけにしていたのは、その追悼の会でのことだったと思う。なんでも顔から転んで救急車で運ばれたとかで、その頃から体調を崩すようになった。そうして会うたびに、老いと病が鈴木さんの身体を蝕んでいくのが痛々しいほどにわかった。
だけど、また一緒に安居酒屋でバカ話ができると思ってた。そんな日が来ると思ってた。
しかし、「愛される右翼」は、逝ってしまった。
今思えば、私は出会った時から、ひたすら鈴木さんに「なついて」いた。そしてそんなふうになついてくる私を、鈴木さんはぼーっとした様子でなんとなくいろんな人に紹介してくれたりして(だいたい危険人物)、知り合いの一人もいない東京に、確実に私の居場所を作ってくれた。そのせいで私には謎な人脈や変な経験ができて、そういうすべてが、物書きになることにつながった。
特筆しておきたいのは、そんな鈴木さんに、私は何かを押し付けられた経験が一度もないということだ。「自分は正しい」という傲慢を感じたこともない。逆に時々感じたのは、この人は「正義の暴走」の恐ろしさを知っているということだ。
鈴木さん、お金がないフリーター時代、カツアゲしたりして(「300円ちょうだい」とか言ったらほんとにくれた)、ここ数年は「私にとっての鈴木さんは“年老いたハムスター”みたいな存在」って言ったりして、いろんな集会やイベントで顔を合わせるたびに「また来てんの? 暇なの? 行くとこないの?」と言ったりしてごめんなさいとはまったく思わず、ただただバカバカしくて底抜けに楽しい思い出しかない。
ああ、ほんとに面白かった。鈴木さんもそんな感じで逝ったように思うのだ。
ということで、鈴木さんのことを思い出すと、今も思わず笑みがこぼれる。
(2023年2月1日の雨宮処凛がゆく!掲載記事『第624回:追悼・「愛される右翼」鈴木邦男。の巻(雨宮処凛)』より転載)