一気読みしてしまった。
西森路代さんが前回書かれていて俄然興味を持った『おいしいごはんが食べられますように』、高瀬隼子さんの小説で、2022年上半期の芥川賞受賞作である。
うーん……唸りましたね、「食が生みやすい不穏」のこれでもかという連続に! ひとり読みつつ「あるよねえ」「いるわーこういう人」などとつぶやきながら読んでしまった。
「みんなで食べるご飯はおいしい」に感じる雑さ
埼玉のとある会社の営業部が舞台で、主要人物は5人ぐらい。小さな世界の濃密な話だ。まず2ページ目から引っ掛かってしまう。
「飯はみんなで食ったほうがうまい」と支店長が言って、スタッフがいささか強引に昼食へ連れていかれる。似たような体験をされたことのある方、わりにいるんじゃないだろうか。私も何度か経験がある。
「雑な表現だな」と毎度思ってしまう。「気の合う人と食べるとかなりうまい」なら、分かる。さらにいえば「ひとりごはん、私は嫌なんだ」じゃないのかな、とも。とにかく「一般論にして断定するのやめようよ」と思ってしまうのだ。ひとり飯のほうが気楽でいい、マイペースで食べたい、食べる場所は自分で決めたいという人だっていっぱいいるのだし。
部内の数名が不承不承ついていく様も描かれる。
作家で脚本家の向田邦子さんがかつて、名作ドラマ『阿修羅のごとく』で書いた「ふたりでいると思ったらひとりぼっちだった、ってほうがもっとさびしい」というセリフを思い出してしまう。支店長、「みんな」は気持ちも一緒についてきてくれてると思っているんだろうか。
などと冒頭からあれこれ考えてしまったのだが、発言主の支店長は重要人物ではない。ドラマの中心となるのは入社6年目の「芦川さん」だ。
おいしいものが嫌いな人なんていない?
上司からの誘われランチや飲み会にはきちんとつきあう。だが病弱でよく早退し、同僚たちがカバーする羽目になる。体調不良で早退したのに「薬を飲んで寝たら治った」ので、お詫びにマフィンなんかを焼いちゃうのが芦川さんだ。
「クッキー、レモン風味のマドレーヌ、トリュフ、りんごのマフィン、ヨーグルトの入ったチーズケーキ、ラズベリーのカップゼリー、ドーナツ」などのお詫び菓子は、「ピンク色の花の絵がプリントされた半透明のビニールと黄緑色のリボンで包装された」ラッピングがほどこされる。
自由が丘の料理教室まで行ってホールケーキ作りを習い、会社にホールで持ってくることも。腕前はかなりのもののようだ。
まず思ったのは「おいしいものを食べて喜ばない人はいない」と信じている人が生み出しがちな不穏さだった。
自分がおいしいと思うものはみんな好きなはず、おいしいものが嫌いな人なんていない、いるとしたら随分と変わり者……なんてエゴイズム、人間は抱きがちなものだと思う。だが、おいしさ(=味の好み)は人によってかなり違うものということを、グルメな人は忘れてしまいがちじゃないだろうか。
ましてや職場の話だ。そもそも甘いものが苦手な人、ダイエットを考えている人もいるはずだが、「芦川さん」はそのあたりをあまりケアしないキャラクターとして描かれる。
「善意でやってくれてることに文句言うなんて」
「贅沢言わないで、なんでもおいしくいただきましょうよ」的な意見もあるだろう。そう、善意なんである。わきまえた大人の意見だと思うし、職場内なら感謝してありがたくいただくのが当然となるだろう。
つまりは「芦川さん」なる人物は、こちらに「わきまえ」や「大人の受け流し」を無言のうちに強要し続けるのだ。
※ここから展開的なネタバレあり
「胃袋をつかまれる」=恋する、か
彼女は二谷という同僚と深い関係になっていく。
彼の家の1コンロキッチンで作る、ある日のメニューが忘れられない。
・三杯酢につけたきゅうりとシラス
・香味だれのかかった鶏のからあげ
・揚げなすの入った味噌汁
私には、見えた。
多分きゅうりは蛇腹に切られ(包丁で切り込みをたくさん入れて、味の染みをよくする方法のひとつ)、香味だれのねぎはごく繊細に、均一にみじん切りにされ、から揚げにはかいわれ菜が寄りそっている。そして、味噌汁に大豆かすは入っていないはず。
「味噌汁のなすを……揚げるか芦川!」とページに向かって声に出してしまった。近年は敬遠される「手間ひま」の集約のような晩ごはん。
芦川さんは二谷に言う。食べることや料理するのが好きというより、
「よりきちんと生きるのが、好きなのかもしれないです。食べるとか寝るとか、生きるのに必須のことって、好き嫌いの外にあるように思うから」と。
二谷はカップラーメンを常食として、可能なら栄養サプリで食事を済ませたい、なんて願っている人間だ。芦川さんはそんな彼を心配する。
せめてお味噌汁でも作ってみたら、豆腐なんて手崩しでかまわない、菜っ葉はキッチンばさみで切るとラクですよ、手作りのものは体がホッとするでしょう……と。
これには、参った。
私が普段訴えていることそのままである。二谷は心の中で「しねえよ」と即答し、「芦川さんみたいな人たちは、手軽に簡単、時短レシピ、という言葉を並べながら、でも、食に向き合う時間は強要してくる」と嘆く。冷水をぶっかけられたような気がした。お前だって俺からしたら食不穏を生み出すひとりなんだよ、と二谷に面と向かって言われたように感じられてならず、しばし小説を置いてしまったほど。
「誰だっておいしいものは好きでしょう」と決めてかかるのもエゴなら、「食事は大事にしましょう、手間抜きでラクな方法もあるから」と説くのもまたエゴ。私も一種の「芦川さん」なのだな、ということを『おいしいごはんが食べられますように』に教えられたような気がする。
そして結局、二谷は彼女のごはんを食べ続けていく。
西森路代さんは、芦川さんのことを「とにかく『食』にこだわるのだが、それは、よく言われる『男をつかむなら胃袋をつかめ』などという言説を信じているからだろう」と書かれた。
私は調理のワークショップを何度か開催したこともあるのだが、実際に参加者の方々から「好きな人の胃袋をつかみたくて」という言葉を聞いた。そのたびに感じた不安を思い出す。「胃袋をつかまれる」=恋する、ことになどなるのだろうか、と。料理などの技能がなくても「一緒にいたい」と思う人でないと根本的に続かないのではないだろうか。料理の腕前から家庭的な部分を期待して好ましく思うタイプの人間と「対等の関係」は築けるのだろうか……。
二谷はなんだかんだ言いながら芦川さんの料理を受け入れ、結婚も視野に入れるけれど、心の中ではその食に対して距離を取り続ける。
芦川さんは、胃袋をつかんだのだろうか。
【蛇足】をちょっとだけ。「芦川さん」の内心は本作内でまったく開示されない。内面が吐露されるのは二谷ともうひとりの同僚だけで、その構成がミステリアスでとてもよかった。大映時代の市川崑監督か若い頃のフランソワ・オゾンに映画化してほしかったな、と夢見る。