11月20日に開幕したサッカーW杯。開催国のカタールを含め32チームが出場する。そこに、日本から1人の女性審判員が参加している。山下良美さんだ。
山下さんは男子のW杯で史上初めて選出された女性主審候補の1人。実は元々は自身が選手としてサッカーをプレーしていたが、いつしか「審判員」としての道を歩むことになり、夢の大舞台で笛を吹くチャンスを得た。
現代サッカーにおける際どいプレーの判定に欠かせないVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)。その印象や、選手や審判へのSNSでの誹謗中傷などについてW杯開幕前に本音を聞いた。山下さんは自ら、マラドーナの「神の手」を引き合いに出して語り始めた。
【インタビュー前編はこちら】サッカー少女が女性初の主審候補になるまで。山下良美さんが果たす3つの責任(カタールワールドカップ)
「タイミングとしては結構遅かったんです。カードを出したの...(笑)」
初めて出したイエローカードを、山下さんはよく覚えている。実際にカードを宣告したことよりも、試合後に選手とやりとりを交わしたことが印象に残っているという。
「冷静さを持ってジャッジしようと努めていたので、出した時の感情は特になくて。試合後、その試合に出場していた(カードを出した選手とは別の)千葉の選手に『カード出してたね』と言われ、『あれ、初めてのカードだったんだよ』と返しました」
初めてのカードこそタイミングは遅かったのかもしれない。だが、その後のレフェリーとしてのキャリアは、トップを走っていく。
Jリーグ史上初、AFCチャンピオンズリーグ史上初、J1史上初──。
女性審判員としての実績や可能性を広げる山下さん。2022年8月にはJFAで女性初の「プロフェッショナルレフェリー」契約も結んだ。
選手としてプレーしていた山下良美の「分岐点」となった日
「プロフェッショナルレフェリー」とは、トップレベルの審判員が審判活動に専念できるようJFA(日本サッカー協会)が導入している制度。文字通り、職業としてのプロの審判員だ。
選手としてプレーしていた山下さん。審判員の資格取得について「正直、最初は乗り気ではなかった」と話す。なでしこリーグ(当時)の副審が担当できるようになる2級の資格を取得した時のことも「選手としても力を入れてやっていたので」と冷静に振り返る。
そんな山下さんに「分岐点」ともいうべきタイミングが訪れる。それは、女子1級の資格を取得した後のことだった。
「女子1級になったタイミングで、審判員の道に進もうと自分の中で決断をしました。ある日、1回目の女子1級審判員の研修会とチームとしての凄く大事な試合が重なって。その時点で私の中で結論は出ていたんですけど、「研修会の方に行く」と口に出して伝えなければならない大きなタイミングでした。そこで決断したことで、そこからは更に審判員というものに向き合える気持ちが強くなっていったと感じます」
まさに人生は決断の連続。当時下した決断について、「もちろん良かった」と肯定した上で、「良かったと言わなきゃいけないと思っています」と審判員としての責任感ものぞかせた。
プロの審判員としてのキャリアを歩みはじめると、順調に経験を積みあげた。
2021年には女性審判員として初めてJリーグ(J3)で主審を担当。22年にはJ1の試合で笛を吹き、アジアのクラブチーム王者を決めるAFCチャンピオンズリーグで女性として史上初めて主審を務めた。
今の山下さんを突き動かすものは、審判員として「日本のサッカー界に貢献したい」という強い信念だ。
女性を含めた“プロ”のレフェリーが増えることの意義をこう語る。
「選手がプロを目指すのと同じように、審判員としてもプロとしての『選択肢』ができるのは大切なこと。プロフェッショナルレフェリーとしてピッチに立てるのは、日本サッカー協会の方々のご尽力があってこそ得られる機会なので、感謝の気持ちを忘れずにいたいです」
女性審判員に聞く「なでしこ」の魅力と課題
開幕した男子ワールドカップに注目が集まる一方で、女子の競技や環境はどうか。
2011年に「なでしこジャパン」が女子W杯で優勝し、国民栄誉賞を受賞した。あれから10年以上の時が経った。当時の盛り上がりを振り返ると、正直「一過性のブーム」に終わってしまったような印象は否めないだろう。
だが、2021年には女子プロサッカーリーグ「WEリーグ」が誕生。女子の日本代表は2023年の女子W杯の出場権も獲得している。山下さんは「選手としてプロを目指せる環境ができたことの意味は大きい」と話すが、女性の審判員として、女子サッカーの課題をどのように見ているのか。
「課題が解決していたら、今頃はもっと盛りあがっているはず。まずはとにかく、試合を見ていただく方が増えるというのが1番だと思います。私も女子サッカーの試合を見ますが、面白いんですよ。「なでしこらしさ」とよく言われますが、清々しいとかひたむきな心とか、本当にそういうのが見える。それに感動するので。その面白さを伝えたいなぁとは思いますが、私は審判員という立場なので、一試合一試合しっかりと素晴らしいものになるように臨むことだなと思っています」
「VARのこと、ぶっちゃけどう思ってます?」審判員としての本音
近年のサッカーでは、ファールなど判定が難しく際どいプレーについてVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)が導入されている。Jリーグによると、フィールドの審判員とは別の場所で、複数のアングルの試合映像を見ながら主審をサポートする審判員のことを指す。
明らかな誤審を減らす目的で始まったが、審判の判定に介入し、正否を問う存在でもある。VARについて実際にどう思っているのか。率直に聞いてみると、返ってきたのは意外な答えだった。
「まずはとにかく、ポジティブな要素しか持ってないです。仲間が増えるので。いつもフィールド上では4人でやってますけど、それが2人増えて、6人になるっていう。数的な仲間が増えるということ。あとは、今のこの時代はやはり、フィールド上で審判員だけが見えていないっていうこともあるので...」
審判にとってVARは敵ではない。仲間と表現するように、″自身を脅かす存在”ではなくむしろ「味方」なのだ。
「“見えていないところで、全然知らないことが起こっていた”っていうのは、試合の進行上も良くないかなと思いますし、現代サッカーではVARでもう1回プレーを見られるチャンスがあることはすごく良いことだと思います。ただ、例えば、昔のマラドーナの「神の手」のようなことはまず起こらなくなるので、それがなくなっちゃうっていうのは、(起こってしまったらまたそれは話が別ですけれど)少し寂しい気持ちもあります。サッカーファンの方はどうなのでしょうか...」
ただ、デメリットがないわけではない。山下さんが例を挙げる。
「1つだけデメリットがあるとすれば、やはり試合が中断してしまう。時間が掛かるというところはあると思うので、そこはなるべく時間を短縮していく努力を審判員としてしなきゃいけないなと思ってますね」
選手や審判に批判がSNSで簡単に届く時代。どう感じている?
SNSの中でも、Twitterは試合中にリアルタイムでツイートする人が多く、スポーツの「LIVE感」とも特に相性が良い。会話が広がる楽しみがある一方、選手や審判などへの誹謗中傷などは競技を問わず問題となっている。
自身に向けた声を含め、その点をどのように考えているのか。
「もちろん私にもそういうネガティブな声は届きますけど、(エゴサーチなどをして)自分からは探しに行かないし、SNSなどの情報を見ない方なのであまり届いてこない。個人的な考えですが、ネガティブなことを言われるのは審判員という立場では当たり前だとも感じるので、それが良いかどうかは分かりませんが、そこまで深くは考えてないです。審判が注目を集めるのは、主に試合中の判定についてだと思いますが、VARの話でもしましたけどリプレイ映像が見られる時代は判定力を向上できるチャンスが増える。審判員としても、技術をさらに向上できるっていう意味で映像を見られることは改めて良いことだと思ってます」
山下さんは「選手を傷つけるような行き過ぎた誹謗中傷はもちろん許されることではない」と強調した上で、こう続ける。
「サッカーの楽しみ方というのは色々とあると思います。選手や審判員に対して喜怒哀楽を示しながら試合を見るという方もいるでしょうし、それも楽しみ方の一つなのかなと思っています。例えば、私の場合は、悔しくて熱くなって審判の判定に『当たっちゃう』みたいなのもそれはそれで良いと思ってるので、そこまで気にはしてないです。ただ、審判員としては自身の判定に関する反省と分析は試合後もしっかりしなきゃいけないと思っています」
山下良美にとっての「理想の審判」とは
ワールドカップという、各国の素晴らしい才能を持ったスター選手たちが集う大舞台で笛を吹くプレッシャーも感じているという。大会に向けて意識していることを聞いた。
「プレッシャーはもちろんあります。でも、試合に臨むにあたっては、プレッシャーよりも責任の方がすごく大きい。トップ選手が集う舞台に参加することへの審判としての責任というものをとにかく強く持っています。審判という立場でW杯という舞台に入れるっていうことを本当にありがたく思っているので、責任を感じられるっていうことを嬉しく思いながらも、それを力に変えたいなと思ってます」
「プレッシャーや責任を力に」。審判員も、国を背負って出場する選手たちと同じような気持ちを持っている。「こういう審判になりたい」という理想像を明確にする代わりに、毎試合必ず、やり遂げようとしていることが山下さんにはある。
「試合に臨むときには常に、選手が夢中になってボールを追いかけ、夢中になって勝利を目指して、観ている人たちも夢中になって応援して、試合が終わってから『悔しい』とか『うれしい』とか、どんな感情でもいいので心を動かされる。そんな試合になるように努めていきたいと思っています。今後も、試合の規模にかかわらず、選手たちが作り上げる素晴らしい試合を審判員としてサポートすることができたらそれでいい。毎試合そんなことを目標に臨んでいます」
4年に一度、サッカーの頂点を決めるW杯。主役の選手たちを支える審判の存在にも注目したい。