暖かな日差しが眩しいある夏の日の午後、わたしはデンマークで一日の利用者数がもっとも多いノアポート駅から徒歩5,6分のところにある、Ørstedsparkenという公園の前にいた。鳥のさえずりが響き、街の中心地であることを忘れてしまうかのような緑豊かな公園の前には、ある男性を囲んですでに何人かの人々が集まっていた。
「ようこそ!」
にこやかにそういうと、男性はわたしと夫にすっと右手を差し出した。少し汗ばんだその手を握ると「今日は来てくれてありがとう」と男性はわたしたちにほほ笑んだ。
「ではそろそろ始めましょうかね」
そう言って、男性はその場にいた10人ほどの人々に簡単な自己紹介を始めた。Sさんと、ここでは仮に呼んでおこう。彼は半年前まで路上生活者だった男性だ。約10年間、コペンハーゲンの路上で暮らしてきたという。年齢は60代半ばぐらいだろうか。浅黒く焼けた肌と笑顔がこぼれる口元からは、10年の月日の重みが感じられる。
この日、わたしたちは「路上生活者が案内するコペンハーゲンウォーキングツアー」に参加していた。Sさんは厳密には半年前に路上生活を卒業している。現在はアパート暮らしだという彼は、路上で生活していた頃から1年に200日はガイドをしてきたという。そしてその生活を終えた今も、自分の体験を伝えたいとこの仕事を続けているのだそうだ。
「今日のツアーでは、わたしの生活に欠かせなかった場所をいくつか紹介します。今も路上生活をしている人はいますから、かれらが寝床にしている場所を見せることはしませんが、わたしがしてきた生活をもとに、路上生活がどんなものであるかをお話したいと思います。」
そういうと、彼は周りに立っているわたしたちの目を見つめながらこう言った。
「ここにいる皆さんは、全員、人生で挫折を経験していますよね。どんな人でも、上手くいったり、失敗したりという経験をします。それは、だれであってもです。それを人生と呼びます。」
Hugs & Food
Sさんはそういうと、まるで「わたしの言いたいことはわかりますよね?」と言いたげな表情で少し微笑んでから、言葉を続けた。
「今日は皆さん、色々なことを聞いてみたいと思っていると思います。わたしもなるべく皆さんの質問に答えたい、路上生活者に対する偏見をなくしたいというのもわたしがこの仕事を続けている理由のひとつだからです。そのためには、わたしたちのことを知ってもらうことが大切です。それでも1つだけ答えられないことがあります。」
そこまで言うと、Sさんは「では少し歩きましょうか」と、グループの先頭に立ち、歩を進めた。道路を渡り、角を曲がって大きなアパートが立ち並ぶ閑静な地区を、Sさんはスタスタと進んでいく。そんなSさんの背中を眺めながら、答えられないことっていったいどんなことだろう?と想像してみる。自分が路上生活をしている(いた)と人前で言えるだけでも、すでにどんな質問にだって答えらそうじゃないかと思うほどの勇気を感じてしまうけれど、それでも答えられないこととはいったいなんだろう。
5分ほど歩くと、ある建物の前でSさんは立ち止まった。静かな街角、大きなガラス窓のあるその場所を少しのぞくと素敵なランプが見え、テーブルと椅子が整えられていて、カウンターの奥にはキッチンのようなものも見える。カフェだろうか。建物の前にはプランターがあり、夏の花が咲き乱れていた。入口は閉まっていて人気はない。扉には Hugs & Food とある。
ここは、路上生活者が食事をしたりシャワーを浴びることができるスペースだとSさんは教えてくれた。コペンハーゲン中心部の教会が主体となり、寄付金などをベースに、かれらの食事や衛生面を支える活動を1996年から続けている団体で、平日は毎日温かい昼食を用意している。この日はちょうど休日で閉まっていたが、普段は多くの人々が出入りする場。Sさんも大変世話になったのだそうだ。
食事とシャワー以外にも、特に助かったことがあるとSさんは言う。それはここで服を洗濯をしてもらえたこと、そしてロッカーを借りることができたことだ。
コペンハーゲンで路上生活をしている人々の中には、大きな乳母車や自転車を押しながら移動している姿を見かけることがある。暖かい服や寝袋、食べ物などを持ち歩いているのかもしれない。道端で集めた飲料水の空き缶や瓶、ペットボトルなどを集めて現金に換えるために、大きなビニール袋を提げて歩いている人もいる。荷物や現金を少しでも安全なところに保管するために、ここでロッカーが利用できるのはとても助かるのだそうだ。「ときには公衆トイレで用を足している間に寝袋が盗まれますからね」とSさんは言う。
あとから少し調べてみると、Hugs & Food では映画上映会などで少しでも日常のストレスを緩和できる時間を作ったり、皿洗いや掃除などの簡単な仕事を通して生活費を稼ぐことができるような仕組みもあることがわかった。路上生活者にとって、温かな食事とつかの間の憩いの時間、まさにハグをくれる場所。それはSさんにとってのライフラインだったのだろう。
朝目覚めてはじめに考えること
Hugs & Foodへの感謝の気持ちはどれだけ伝えても伝えきれないんだ、嬉しそうにそう言いながら、Sさんは来た道とは別の道を通ってまた公園へと向かった。入り口を突っ切り、水辺と芝生が美しい公園のまん中あたりまで来るとおもむろに足を止め、わたしたちに向き直る。
「路上生活者が朝、目を覚まして一番はじめに考えることがなにか皆さんわかりますか?」
だれかが「食事?」、別のだれかは「天気?」と答えた。
「そう、たしかに天気は重要です。食事のことはいつも考えています。でも、それ以前に大事なことがあるんです」
そういうと、Sさんは「一番に考えること、それはここから一番近い公衆トイレはどこにあるのか、ということです」と言った。
トイレが重要だというのは、人前で用を足したくないというレベルの話ではなかった。店で食べ物を買うことができない時、Sさんはゴミ箱に捨てられたものを口にすることもあったという。するとお腹をこわす。路上生活者の中には、同じ理由で常にお腹の具合が悪い人が多いのだそうだ。具合が悪くてもいつもトイレが近くにあるとは限らない。そのために粗相をして服を汚してしまったり、着替えや洗濯をしなければいけないときもあるのだという。トイレの位置を把握しておくことは、その日一日、自分の尊厳をなんとか守って過ごすために欠かせないことなのだ。
路上で暮らすということは、常に人目に晒されているということでもある。こまめな睡眠を重ねながらなんとか身体を休ませるけれど、せいぜい一度に眠れるのは2、3時間程度。さらに暑さ寒さが重なったり、身体の具合が悪ければ、ただ横になっているだけでも苦しいときもあるだろう。それでも、同じ場所でゆっくりできるとも限らない。自分だけのスペースがなく、常にだれかに見られているという暮らしはストレスも半端なく大きい。
「毎日、だいたい20~25kmぐらいは歩いて過ごしていました」
Sさんは公園の中をスタスタと歩きながらそう語った。そういえば、このツアーが始まってからSさんの歩行速度が速いことに気づく。一見それほど丈夫そうには見えないのに、Sさんは身軽に歩みを進めていく。
路上生活を続けていたSさんは、ある時から自立したいと思うようになり、必要な資金を集めるために捨てられた空き缶や空き瓶、ペットボトルを回収し始めた。デンマークには飲料水のアルミ缶、ガラス瓶、ペットボトルなどをスーパーの回収機に入れるとPANTと呼ばれるデポジットが返金されるという仕組みがある。Sさんは道端やゴミ箱の脇に捨てられた空き缶などを毎日コツコツと集めながら、換金しては自立のための資金として貯金していたそうだ。
「とにかく毎日たくさん歩きました。そして一日中靴を脱がずに過ごしていました。夜もね、路上で寝ていたから。でもそれは足に良くないとわかりました。蒸れると良くないんですね。冬場などは路上に雪解けのための塩が撒かれますが、それがボロボロになった靴の隙間に入ってきてね、痛いんです。放っておくと壊死するらしいですね。痛くて医者で見てもらって、靴だけはできるだけ良い物を履くようにと言われました」
そんな生活でも、自分は男性だからまだましな方だったとSさんは言う。路上生活者の8割は男性だが、なかには女性もいる。彼女たちは人気のないところでレイプされることも多いのだとSさんは静かに語った。
希望を、忘れたくない
あちこちで立ち止まりながら、路上生活のリアルを次から次へと語っていくSさん。食べ物は一度にたくさん買うとネズミにやられてしまうなど、語られるエピソードひとつひとつにわたしたちは息をのむ。見慣れた優しいコペンハーゲンの街並みはSさんの日常を重ねると、どんどん灰色になり孤独や恐怖感を帯びてくる。そうして歩きながらわたしたちはツアーの最終地点、ラウンドタワーへとやってきた。
「ここは、わたしの路上生活での最後の寝床でした」そういってSさんは、今は小さなホテルになっている、ラウンドタワー裏にある建物の隅の方を指さした。確かにここはつい最近まで改修工事が1年以上続いていた場所だ。工事現場であったことから人通りも少なく、足場にテントがかかっていたこともあって、その陰で雨露をしのいでいたのだという。
「ここではほんとうにたくさんの人々に助けられました。工事が行われていた頃は毎朝6時ごろから現場の人がたくさん来るんですが、いつも彼らは自分の朝食と一緒にコーヒーとチーズ入りのパンをわたしにも持ってきて『Sさんこれ食べな』と渡してくれました。
昼には近くの会社で働く女性たちが社員食堂のビュッフェの食事が余ったからと持ってきてくれて。午後の会議で出たデニッシュ・ペストリーとコーヒーまで届けてくれたこともあったなぁ。夜には街で飲み歩く若者たちと1時間ほど世間話をしたこともね。
突然マフィアみたいな強面の男性がわたしの姿を見て、『ちょっと待ってろよ』と言って立ち去り、小一時間ほどして寝袋を手に戻ってきたこともありました。ちょうど寝袋を盗まれた時だったので、ほんとうに救われました」
人として他者とかかわったエピソードを語るとき、Sさんの表情は和らぐ。それを見て、聞いていたわたしたちも、そうか、そんな出来事もあってほんとに良かったと安堵感で微笑み、ほっと胸をなでおろす。
「皆さん、わたしがはじめに答えられないことがあるといったのを覚えていますか。わたしのツアーはここで終わりですが、皆さんからの質問を受ける前に、答えられない質問について話しておきましょう」
ほっとしたのもつかの間、Sさんはそう言うと、自分の思いを語り始めた。
「わたしが答えられないのは、なぜ路上生活者になったのかという質問です。
なぜそうなったのかを尋ねられると、わたしは過去の出来事を振り返らなければなりません。このことを説明するために、辛く悲しかった過去の自分にずっと引きずられてしまいます。
でも大切なことは、どれだけ辛い過去があっても今を生きること、前を向いて、未来に希望をもって生きていくことです。ですからわたしを過去につなぎ留めておかないために、この質問には答えないことにしているのです。
昔、自分の人生に絶望したとき、道路に飛び込んで死んでしまいたいと思ったことがありました。そしてある場所でタイミングを見計らっていました。
でも、さぁ飛び込もうと思った瞬間、車の中に子どもが乗っているのが見えたのです。その時、何の関係もない子どもを自分の死に巻きこんではいけないと強く思いました。そして、そう思う自分は本当は生きたかったのだとわかったのです。
人生には大変なことがあります。それでも、必ず希望をもっていてほしい、それを忘れないでいてほしいです。
どん底を経験したわたしでも、またそこから立ち上がりました。路上生活者は自尊心がとても低い、だから自分の尊厳を守れないような場面に遭遇しないように生きています。でもわたしは、ある時から自分の現状を素直に受け止め、心を開き、人からの助けを受け入れました。だって自分にはそれが必要だとわかったからです。
だからどんなことがあっても、希望をもって生きてほしい、そしてときには必要な支援を受け取って良いということも忘れないでほしいのです。
最後に、どんな人でも路上生活者になる可能性があるということ、そして路上生活者はあなたと同じ人間だということも伝えさせてください。わたしやかれらに対し、人として尊重してかかわってほしいのです。それをいつも心に留めておいていただけたら嬉しく思います」
では、質問があれば…そう言いかけたSさんの声は大きな拍手でかき消された。道を行く人々は拍手するわたしたちの方を見て、何事かと視線を送る。そんなことはお構いなしに、わたしたちはSさんに拍手を贈り続けた。コペンハーゲンの街角が、また優しさに包まれた瞬間だった。
(2022年11月13日のさわひろあやさんnote掲載記事「路上生活者が案内するコペンハーゲンウォーキングツアー」より転載)
路上生活者が案内するガイドツアーに参加したい方はこちら↓から。ガイドさんによって様々なお話が聴けます。デンマーク語。
本文中に紹介したHugs & Food
デンマークの路上生活者についてのデータ:
資料:Hjemløshed i Danmark 2022
TV2 Lorry, Vi anbefaler. Film om Hugs & Food februar 2020
Sさんがなぜ自分が路上生活をするようになったか、その理由を語りたくないと言っていたように、人にはそれぞれ苦しみや辛い過去、背景があります。データはあくまでもそれらを簡略化、数値化したもので、データだけで一人ひとりの人生をうかがい知ることはできません。そういったことを前提に参照していただけると幸いです。
ここで紹介するのは、デンマーク国立福祉研究分析センターが発表している路上生活者についての資料とHugs & Food で働く方の発言の一部です。ここからも、いかにさまざまな要因が長期的に影響した結果、路上生活に至るのかが少しはわかるように思います。
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2022年にデンマークで路上生活をしている人々の数は5789人(デンマークの人口は580万人、日本の人口の約20分の1)。この数は2019年と比べて約10%減少している。減少の背景には、特に増加傾向にあった若者(10-20代)世代に対し自治体や支援団体が住宅提供支援を集中的に行ったことや、コロナ禍での路上生活者支援がその後の自立につながったこと、また住居のない人々のための一時滞在施設が近年増加していることも影響しているらしい。
どの世代にも共通するのが、約40%の人々が精神疾患を理由に路上生活に至るということ。50代以降はそれ以外にもアルコール依存や経済的理由が背景となっている一方、20代~40代は薬物依存や経済的な理由が背景となっている。若い世代(10、20代)は家族や友人宅で暮らすことができなくなったことも大きな要因のひとつだという。
Hug & Food の関係者の話では、精神疾患の背景として、たとえば子ども時代の親や家族との関係、親の依存症等の問題、また軍隊で兵士として戦闘地域に派遣された後にPTSDなどを発症し、精神疾患が長期化する人もいるという。