息子の不登校「はげます母親」をやめられなかった私の後悔

2学期がはじまる。このタイミングは行き渋りや不登校の子どもにとって、1年でもっとも苦しい時期といわれている。息子は小学校4年生で不登校になった。私は、しばらくの間「はげます母親」であることをやめられずにいた。その時の対応を今も後悔している。
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「行きたくない」という気持ちが、10歳の息子の全身から噴き出しているようだった。

玄関の手前で、手さげをもったまま靴をはかずに、うなだれて、無表情で、数歩の距離を何分もかけて少しずつ進む。 

「先生が待ってるよ。がんばって行ってみよう。一緒に行くから、イヤになったらすぐに帰ろう」

重たそうに体を引きずる息子を、時間をかけて連れ出す。心のどこかで「無理に行かせようとして、私はひどい母親だ」と気づいている。けれど「行ってみよう」とはげます母親であることをやめることができない。息子の様子をみれば「行ってみる」意味なんかないことは、明白だった。

自分の子が不登校になるのがこわかった

息子は小学校4年生のゴールデンウィーク明けから学校に行けなくなった。

思い返せば小学校3年生の冬ごろには、精神的な原因と思われる腹痛や胸痛があり、まず学童保育に行かなくなった。夜にはたびたび家で荒れていた。4年生になってすぐに行き渋りがはじまった。

今でこそ、「家にいても成長はする」「多様な学びの選択肢がある」ということを知り、悩んでいる方に笑顔で伝えることができる。けれど、当時の私は自分の子が「不登校」になることがとてもこわくて、つらくて、後ろめたくて、そういう気持ちを抱えたまま息子に寄りそおうとしていた。

最近「不登校の親の会」に経験者として参加することがある。今まさに、不登校初期の葛藤する気持ちを抱えている保護者の方と、直接話す機会が増えた。多くの保護者は「なんとか学校に行ってほしい」という悩みからスタートする。その気持ちを否定したくはない。けれど、そこにとどまっている限り見えてこない道があることも、今の私は知っている。

すでに通り過ぎたあの頃の自分の気持ちに、ずっとフタをしてきた。自分が、子どもの方を向いて動けていなかったと悔やむ気持ちが強いからだ。

がんばっている母親に見られたかった

息子が不登校になったあと、数カ月後には、私がほぼ毎日学校に行くようになった。

息子の通う公立小学校は、欠席連絡は「連絡帳で」と決まっていて、電話での連絡は原則禁止だった。5年ほど前だったが、メールやアプリの連絡手段は採用していなかった。

息子は1人っ子だったので、不登校になる前から、体調不良で休む時には連絡帳は他の家庭の子どもに頼んでいた。登校班の集合場所に行き、その時いる子どもに連絡帳をお願いした。学校から戻ってくる連絡帳は、私自身が比較的親しくしている方のお子さんにお願いしていた。

不登校になってからも、しばらくはこの方法を続けていたが、帰りに連絡帳を託される子も、朝の登校班の子も、ものすごく負担を感じていたことにある日気づいた。はっとした。一瞬で体中がチクッとしたあとに、すぅっと体が冷たくなって動悸がした。

「これ以上、わが家のことでよその家庭に迷惑をかけられない」

数カ月かけて学校と連絡方法を交渉した。いくつかの具体案を出したがなかなか通らず、胃の痛い期間が続いた。

最終的には、夕方私が毎日学校に行き、プリントや連絡などを受け取る。こちらは宿題を提出する…という方法に落ち着いた。担任が放課後不在の日も、職員室のキャビネットの引き出しに連絡や手紙が入っていて、私は提出物と引き換えにそれを持ち帰ることになった。

パートは時短にしてもらい、暑い日も寒い日も、毎日学校に顔を出した。学年以外の先生にも顔見知りが増えた。

年に2回のPTA主導の学校行事ボランティアも、月に1回まわってくる旗振り当番も積極的につづけた。

「あのお母さんは学校に協力的」

「あのお母さんはがんばっている」

そう思ってほしかった。誰にかはわからない。自分かもしれないし、先生たちにかもしれない、ママ友になのかもしれなかった。

そう思ってもらうことで、息子に対するなにかを防げると思っていた。

学校との橋渡しをつづけた3年間

そのうち不登校が年単位になっていった。

宿題は毎日させて毎日届けていた。パートのある日は朝5時半に起きて、昼食を用意してから出勤した。

できるだけ放課後登校をさせ、週1回ずつのスクールカウンセラーの面談と通級指導教室(※1)、合わせて週に2回はつきそいをつづけた。

不登校が1年を迎える頃には個別指導の放課後デイサービス(※2)と、区の相談室も加わった。パート以外の日は息子を家族以外の誰かに接点を持たせようと必死だった。

公立小学校に在籍している間は、学校との関係をなんとかつなごうという考えを完全には消せなかった。日々学校とやり取りする中で、息子や私が傷ついたことも多かった。「この学校に息子が通い続けるのは、どこかのタイミングで無理が出ていただろうな」と、私自身が3年かけて思い知る結果になった。

息子を背後においてかばいながら、学校との橋渡しをつづけた3年間だった。 

 元気に笑う「今」を積み重ねる

これだけ学校の存在が生活の中に入り込んできて、息子は「全然安心できない不登校」だっただろうなと、小学校卒業間近になって気づいた。気持ちはまったく休めていなかったと思う。完全に治っていない傷を、親である私が何度も刺激して、出血させていたようなものだ。

私が「子どものため」と思い込んでいた不安は、私自身が感じている不安だった。息子の苦しさに寄り添うものではなかった。

さまざまな情報に触れる機会も増えて、私は「学校に戻す」ことに少しずつこだわらなくなった。

そして、息子が「泣いていない」「苦しんでいない」ことに安心するようになった。

自宅でPCを自由に使わせ、やりたいことには今まで以上に付き合った。

不登校が2年を超える頃には、宿題は無理にやらせなくなった。とにかく心が元気になるのを優先した。YouTubeからでも、歴史や音楽、英語に自然に触れていた。

そのうち、息子が「夢中になっている」とか「笑っている」ということが、私の中で何よりの喜びになっていった。

あんなに無理をしてがんばるなんて、バカだったなと自分で思う。息子の心の健康をしっかり取り戻すことを優先するべきだった。子どもの「この先」が不安で仕方がなかったから、できることをすべてやろうとしていたのだと思う。 

けれど、「今」を積み重ねた先にしか「この先」はない。毎日泣きながら苦しんで「今」を積み重ねるより、元気に笑う「今」を積み重ねればいい。私の不安は、それを吐き出して聞いてもらえる場所があればいい。

息子は中学で不登校特例校(※3)に入ることができた。息子を中心において、学校と一緒に話し合いながら成長を見守る3年間だった。理解のある環境で、息子はじっくり元気を取り戻した。今は本人が希望した通信制高校に通っている。

どこにいようと、何をしていようと、わが子が笑顔で安心して食べて寝ること。

その土台の上にこそ、本当の幸せがきっとある。もしもやり直せるならば忘れずにいたい。

「迷ったら、子どもが安心して笑う方を選ぶ」

(文:朗子 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版)

※1 通級指導教室…通級(つうきゅう)と省略して呼ばれることが多い。
通常の学級での学習や生活におおむね参加できるが、一部特別な指導を必要とする児童生徒に対しておこなう特別支援教育の形態のひとつ。
必ずしも在籍校に該当する通級指導教室があるとは限らないため、他校に設置されている通級指導教室に通うこともある。

※2 放課後デイサービス…正式には放課後等デイサービス。福祉サービスのひとつで、障害のある子どもや発達に課題のある子どもが、放課後や長期休暇の際に利用する。学童保育に似たサービスだが、息子の場合は、個別指導で学習をみてもらうタイプの塾のようなところを利用した。

※3 不登校特例校…不登校児童生徒を対象に、特別な教育課程を編成して教育を実施できる学校。
申請があった場合に、文部科学大臣が法律に基づき認める。2022年4月時点で、全国で21校ある。2022年6月には政府が全都道府県・政令指定都市への設置を目指す方針をしめし、話題となった。