「人が死んでいく 人も家も街も みんな焼けていく」(小西幸子)ーー。
1945年8月6日午前8時15分。
アメリカ軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、広島に原子爆弾を投下した。人類史上初めて、核兵器が使われた。
広島で被爆し、戦後も生き延びた人たちはあの日何を目にして、その後どう生きたのか。
2人の被爆者の体験をもとにした漫画『あの日、ヒロシマで 被爆後のヒロシマを生きた少女と軍医の話』(みらいパブリッシング)が今夏、出版された。
作者は、さすらいのカナブンさん(@sasurai_K1、以下カナブンさん)。
被爆者の孫で広島出身のカナブンさんは、被爆者たちの証言や手記を漫画にして発信する活動を続けている。
子どもと大人、2つの視点
漫画に収録したのは、広島で被爆した少女と軍医の実話に基づく物語だ。
当時14歳だった小西幸子は、広島電鉄が乗務員を育成するために設立した女学校に進学した。少ない食料配給に腹を空かせ、厳しい労働環境に耐える日々。
それでも、級友同士で助け合ったり、好意を寄せる人と映画を観に行ったりと、日常の中に小さな喜びを見つけていた。
そして迎えた8月6日。幸子が寮で休んでいた時、原爆が広島の空に投下された。
◇ ◇
軍医の肥田舜太郎は、現在の広島市である戸坂(へさか)村での往診中に被爆した。
焼けただれた肉の塊、無言で通り過ぎる顔のない裸の行列。
職場の陸軍病院に急いで向かう途中で目の当たりにしたのは、地獄の惨禍だった。
「このキノコ雲の下 戦っている人達がいる」
「一人でも多く生きて帰す それが医者としての私の使命だ」
次から次にけが人が避難先の小学校へと押し寄せる中、被爆者たちの治療に当たり続けた。
実在の被爆者の体験に基づく2つの作品。
原爆投下から77年たった今、なぜ漫画という形で被爆者の声を残そうと思ったのか。若い世代に伝えたいこととは。カナブンさんに聞いた。
「わしも原爆に遭っとるんで」祖母は語り始めた
ー広島出身・在住のカナブンさんが、原爆の漫画を描こうと決めたきっかけは何でしたか
私は今40代で、広島県の北部で生まれ育ちました。広島市の中心部から離れた県北でも平和学習はあり、子どもの頃は毎年体育館で被爆者から話を聞いたり、原爆に関する映画を観たりしました。
小学生の夏、被爆者から話を聞くという宿題が出ました。
聞いた話をまとめていると、祖母が「わしも原爆に遭っとるんで」と言い出しました。
田舎暮らしの、バイクしか運転できないおばあちゃんが当時広島市内にいて、しかも電車を運転していたとか言います。
そこから話を聞き始め、祖母も被爆者だと初めて知りました。
実は、祖母は「被爆者は差別されるから」と娘(私の母)にも詳しく話したことはなく、その後漫画にした時に母が「初めて知る話だわ」と言っていました。
毎夏、学校には被爆者が話をしに来てくれました。広島の学校だからなのか、体験手記や絵本も身近にありました。
でも祖母の話は私しか聞く人がいません。誰にも知られず埋もれてしまうのはもったいない、みんなに聞いてもらいたいと思いました。
祖母の話を学校の授業で発表したのですが、その場で終わってしまいました。同級生から「もう少し聞かせて」と求められることもなく、“デッドストック”になってしまったのです。
文集にして図書室に置いたとしても、誰も興味を持ってくれないことは目に見えていました。
でも漫画なら興味を持ってもらえるんじゃないかな?と思うようになり、そこからさらに詳しく祖母に聞くようになりました。
描くことの罪悪感があった
話を聞くのは夜中、「腰が痛い」とマッサージを頼まれる30分から1時間ほどです。祖母からは「絵が上手いんだから、わしが御幸橋の上で見た光景を描いてくれ」と頼まれていました。
登校途中に歌っていた歌やその歌詞、友だちの話、学校生活、街の様子や電車の動かし方など、聞いてはメモしていきました。
そこで、いざ漫画にしよう!と思っても、進みませんでした。
「戦争も原爆も体験したことがない自分が描いたら嘘じゃないか?」「見たこともないことを、さも知ったふうに描くなんて...」という罪悪感が出てきたんです。
そもそも、漫画をまともに描いたことはありませんでした。
進まない間も、新聞記事を切り抜いたり、記事やニュースを見せて祖母の話を引き出したりと、漫画のための資料や証言集めは続けていました。
そして2011年頃、漫画制作ができるパソコンのソフトを入手しました。
アナログで描く漫画はトーンにお金がかかりますが、デジタルならソフト代だけです。
それまでは30ページも描いたことがないような趣味の絵描きでしたが、ソフトの入手を機に祖母の体験を描き始めました。
私がうかうかしている間に、祖母は人の名前を間違えたり、登校時の歌を歌えなくなったりと、記憶もあやふやになってきていました。「罪悪感が…」とか言ってる場合でなく、描ける環境が揃ったなら今始めないと、と思い立ちました。
大人は何をしていたのか
ーお祖母さんの体験を描いた1作目『原爆に遭った少女の話』の公開後も、今回の著書で収録された2つの作品『ヒロシマを生きた少女の話』『原爆と闘った軍医の話』を制作されました
祖母の漫画を完成させてみると、後からアラが見えてくるようになりました。
他の方の体験談にある差別や、被爆の痛みといった描写が足りないと思い、これじゃあ原爆を描けていないな…と。
祖母の従姉妹、増野(旧姓・小西)幸子さんの被爆体験を知った時、「足りないのはこれだ」と思い、漫画にさせてもらえないか祖母を通じて打診しました。
背中にガラスが刺さった傷痕を見て「ピカがうつる!」とみんなが逃げていった辛さ。「ピカドンがあって終わり」ではなく、戦前戦後で生きた様子を描くことができました。
ですが祖母と増野さんの体験を描くうちに、「この時大人は何をしていたんだろう?」と疑問を持つようになりました。戦争を終わらせようと思わなかったのか、本当に勝てると思っていたのか...。
体験手記を読みあさるうち、戸坂の村人たちの様子がつづられた冊子『芸備線の夏』に出合いました。その中に、肥田舜太郎先生やその他の体験手記がありました。
原爆投下後、近隣の村から援護があったり、酷いけがをしながらも軍人たちが集まって情報共有をしたり。医者はけが人の治療に当たるだけでなく、未知の症状に立ち向かい、責任と責務を持って行動していました。
大人はあの時、何をしていたのか。その疑問への一つの答えがそこには記録されていました。2014年、漫画に描かせてほしいと肥田先生に手紙を出し、ご了承いただきました。
資料集めをしたり、現地に足を運んだりと準備を進める間に、先生は亡くなられました。先生の手記やインタビューはたくさん残っていたので、そのまま制作を続けて5年後に発表しました。
ー幸子が戦後、他県で働いてた際、銭湯で幸子の背中の傷痕を見た同僚たちから「あんたピカに遭ったんか!」「逃げにゃ原爆の毒がうつる」という言葉を浴びせられるシーンがありました
広島で被爆したことで差別を受けた話は増野さんから何度か聞き、手紙や手記にもつづられていました。
被爆者の方が語る時、必ずのように口にする言葉があります。
「あの時助けてあげられず見捨ててしまった…」
「水がほしいと言われても断った。あげておけばよかった」
「『私の名前は○○です、家族に伝えて』と言われ…」
必ず話すことは、その人にとって切り離せない原爆の話です。
増野さんが繰り返し語った差別の体験を、他の人にも知ってほしいと思いました。
「漫画は入り口にすぎない」
ー作品を通じて、若い世代に伝えたいメッセージはありますか
「戦争は天災とは違います。実は何年も、何十年も前から準備されている」
「いつかは戦争も、予防し、発生を抑えることができるようになる日がくるはずです」
『原爆と闘った軍医の話』に登場するもう一人の軍医で、原爆の犠牲になった近藤六郎さんのこれらの言葉は、特に今の人に聞いてほしいです。
ただ、漫画の中に自分の考えは入れない方がいいとは考えています。被爆者の体験を、現代の価値観で代弁してはいけないなぁ、と。
戦争も原爆も体験していない人間が、理解できる気になってはいけない。
ー被爆者が高齢になり、体験を後世に語り継ぐ人たちはどんどん少なくなっています。こうした中で、当事者の手記などをもとに漫画で被爆体験を伝えることの意義をどのように感じていますか
直接体験を話す方がいなくなってしまったら、被爆者の持つ強いメッセージを誰が伝えてくれるでしょうか。
これから先に体験を伝え続けるために、被爆地では伝承者を育成する事業などが行われています。ですが、どうしても+αで伝え手の考えや価値観も入ってしまうと思います。
何代にも伝えられていくうちに、大元のメッセージが変わってしまわないかをちょっと心配していて。だからこそ自分は一次資料の重要性を感じています。
その意味で、自分の漫画は入り口に過ぎません。
漫画をきっかけに興味を持ったり、「こんなの嘘だ」と思ったりした人が一次資料である手記などに辿り着き、原爆についてさらに知ってもらえたらいいなと思っています。
当時の話や感情も、世代がずれると若い方には想像ができない部分も出てくるかもしれません。当時と今を上手くつなげられる漫画を描きたいです。
<取材・文=國崎万智@machiruda0702/ハフポスト日本版>