6月2日は「世界摂食障害アクションデイ」。
日本摂食障害協会アンバサダーで、元マラソン日本代表の原裕美子さんは、現役時代の過酷な体重制限によって、食べて吐く過食嘔吐を繰り返す摂食障害と窃盗症に苦しみ、スーパーで衝動的に万引きを繰り返した。
窃盗罪で7度の逮捕と2度の有罪判決を受けたことを機に、自身の闘病を公表した原さん。
後編では治療の現状や、女性アスリートの体重管理を巡る問題、摂食障害の啓発に向けた“新たな一歩”について、原さんに思いを聞いた。
生理が再開したのは33歳のとき。今の選手たちの“細さ”への危機感
今年12月に執行猶予が明ける原さんは、現在も摂食障害と窃盗症の治療を続けている。通院する下総精神医療センターでは「条件反射制御法」という専門的な治療を受け、食べ吐きと万引きの欲求を減らす反復作業を続けている。治療が奏功し、買い物に出かけても「盗みたい」との欲求が湧くことはなくなった。本を出版した当時は続いていた食べ吐きも、昨年末以降はおさまっている。
「最近は自分が食べ吐きしてしまうときの『心の信号』を身体で感じられるようになりました。例えるなら気分がよいときは青、ちょっと危ないときは黄、食べ吐きしちゃうのは赤の自分というように...。気持ちが沈んだり、落ち着かなかったり、青から黄へと変わるタイミングは何となく分かるんです。予兆が現れたら、友達と会ったり走りに出たりして、黄色にならないように気をつけています」
日中は物流倉庫の事務スタッフとして働き、夜は居酒屋で接客のアルバイトもしている。職場の同僚や常連客は、原さんの過去を知った上で受け入れてくれたという。社会復帰を順調に果たす傍ら、スポーツ団体や病気の当事者団体の講演活動やメディア出演を通じて、自身の体験を語り続けている。
積極的に講演や取材に応じるのは、女性アスリートを取り巻く現状への危機感からだ。著書でも原さんが地方のホテルで、小学校中学年くらいの新体操クラブの女の子たちと居合わせた際のエピソードが収録されている。
<バイキング形式の朝食会場でのことです。「あれは油が多いからダメ」「こっちを食べなさい」という、コーチらしい人の声が聞こえてきました。子どもたちのお皿に目をやると、半分にカットされた食パンにサラダ、卵焼きがちょこんと乗せられているだけ。私は言葉を失いました。>
摂食障害に陥る危険性が高いスポーツには、中長距離など持久系種目に加え、体操競技やフィギュアスケートといった審美系種目が挙げられる。近年は「女性アスリートの三主徴(エネルギー不足・無月経・骨粗しょう症)」として、食事量を過剰に減らして猛練習を続けると、無月経や骨粗しょう症のリスクが高まることが徐々に周知されてきた。
原さんも15歳で生理が止まり、再開したのは17年後の33歳のときだった。摂食障害や無月経は長年にわたり問題であったのに関わらず、潜在化していたのはなぜか。原さんは「指導者の理解不足」を理由に挙げる。
「私が走っていた頃は、体重が軽ければ速く走れるという考えの指導者ばかりでした。骨密度や筋肉量など『中身』を気にせずに、体重計の数字しか見ていなかったんです。指導者やコーチが『生理が止まっても治療すれば大丈夫だ』という考え方でしたし、私もそれに洗脳されていました。中身を育てるには食事が大事だと気づいたときには、もう手遅れだったんです」
フィギュアスケーターや陸上選手など複数のアスリートが摂食障害や無月経を公表したことで、女性アスリートの身体や心のケアに少しずつ目が向けられるようになった。その一方で、原さんは「指導者の性別と質」の問題も指摘する。
「スポーツの指導者は圧倒的に男性が多いのが現状です。しかし、生理といった女性の身体の悩みは、女性にしか分からない面も大きいのではないでしょうか。ましてや思春期の中高生は男性の監督に相談しづらいだろうし、結果的に一人で抱え込んでしまうと思うんです。けれども、女性の指導者が増えることで、女性にしか分からない悩みや心と身体の問題に気づいていけると思うので、もっともっと増えてほしいですね。
陸上競技は特に、指導者資格がなくても指導できてしまうのが問題です。例えば日本サッカー協会のライセンス資格のような制度を設ければ、食事や生理への正しい知識を持った上でアスリートたちを指導できるんじゃないかと思います。
最近は日本陸連が指導者資格制度の拡大に向けて動き出し、女性指導者を増やす活動も始まったと聞きました。指導者を指導するセミナーでは私の本が取り上げられたそうです。自分の過去の苦い経験が、今の女性アスリートの環境を変えることに役立てられるのはうれしいことですね」
「小中学生に体重管理は必要ない」コーチとして伝えたいこと
この春、原さんは新しいチャレンジを始めた。オリンピアンの為末大さんが率いる「新豊洲Brilliaランニングスクール」のコーチに就任し、主に中高生を中心に指導することに。7月から本格的な活動を開始する予定だ。単に速さを求める指導ではなく、食事や生理の大切さを伝えていくつもりだ。
「例えば小中学生に体重管理なんて必要ないと思うんです。身体をつくる大切な時期に食事を無理に制限すれば、その後の競技人生にダメージを与えかねません。子どもたちの『今』だけでなく、10年後、20年後を見据えた指導をしていきたいと思っています。まだまだ摂食障害の恐ろしさを理解していない指導者は多いですが、自分が苦しんだ経験のすべてを子どもたちのために生かしたいですね」
摂食障害と窃盗症を公表したことで、同じような症状に悩む当事者やその家族から相談を受けることも増えてきた。ただしそれは「氷山の一角に過ぎない」と原さんは言う。特に窃盗症は行為そのものが犯罪に結び付くため、打ち明けるのをためらう当事者は多いという。
クレプトマニア医学研究所の公式サイトによると、通常の窃盗行為は、「お金がないから物を盗もう」といったように利益獲得を目的としている。これに対して窃盗症の場合、盗む直前のスリルや緊張感、達成感などが特徴的で、盗むこと自体が目的にもなっている。盗る物自体には大して関心を持たないことも多くあるという。
診察に用いられる米国の精神医学会の診断基準(DSM-5)では、「盗む衝動に抵抗できない衝動制御障害」と紹介されているが、通常の窃盗行為との違いや、依存症であると周囲に理解してもらうこと自体にハードルがある。犯罪行為だという負い目もあり、周りに打ち明けられないまま症状が深刻化してしまうケースもある。
今、摂食障害やそれに伴う窃盗症に苦しんでいる人たちに呼びかけたいことは―。原さんは「勇気を出して打ち明けてほしい」と話す。
「自助グループに通っているとき『原さんは有名人だから応援してもらえるんだ』と言われたこともありました。でも、マラソンで結果を出したかどうかは関係なく、同じ摂食障害、窃盗症患者として、信頼できる人に打ち明けることがすべての始まりだと思うんです。
専門の病院に行くのが一番ですが、心のハードルが高ければ、まずは家族や信頼できる友人に相談してほしい。そして相談を受けた方も『大変だね』と軽く済ませずに、一緒になって考えてくれたらよりいい方向に動くのではないでしょうか。
摂食障害と窃盗症の知識が社会に広まっていけば、当事者が打ち明けやすい環境にもなるはず。だから私はこれからも過去の経験とともに『勇気を出して打ち明けて』と伝え続けていきます」
相談窓口の案内
摂食障害やクレプトマニアの症状に苦しんでいる人や、周りに悩んでいる方がいる人たちなどに向けて、次のような支援機関や相談窓口があります。
▽摂食障害
摂食障害全国支援センター:医療従事者や一般の方向けに摂食障害に関する情報発信をするほか、支援拠点病院がある都道府県(宮城県、千葉県、静岡県、福岡県)以外に住んでいる人に向けた窓口「相談ほっとライン」を運営。
NABA:摂食障害からの回復と成長を願う人たちの自助グループ
▽クレプトマニア
赤城高原ホスピタル:群馬県の赤城山麓にある、北関東唯一のアルコール症の専門病院。クレプトマニアの治療も行っている。
K.A(クレプトマニアクス・アノニマス):クレプトマニアの自助グループ
クレプトマニア医学研究所:再犯防止に向け、臨床心理士や精神科医が治療に当たる。
スポーツの減量などをきっかけに、同じように摂食障害や窃盗症に苦しんだという体験を語ってくださる方は、reader@huffpost.jpまでご連絡ください。