「家族」。それは、きっと誰もが向き合わざるをえない存在だ。親との関係、兄弟姉妹との関係、パートナーとの家事分担や子育て――日頃の他愛ない会話を振り返ってみれば、「家族」があちこちに見え隠れしている。
いろいろな事情で家族とのつながりが断たれている人も、「断たれている」という事実に無頓着でいることは難しいだろう。『推し、燃ゆ』で2021年に芥川賞を受賞した作家・宇佐見りんさんは、2022年5月に上梓した『くるまの娘』(河出書房新社)で、「家族と自分の関係性」という大きな問いに挑んだ。
物語の主人公は、17歳のかんこ。両親と3人暮らしだ。父はひとたびカッとなると、ひどい言葉で家族をののしり、暴力を振るう人だった。母は脳梗塞で倒れ、後遺症で記憶に障害が残ったことで、昔の思い出にこだわるようになった。感情のコントロールも難しくなった。かんこには兄と弟がいるが、2人とも結婚や進学を理由にして家から出て行った。
ある日、父方の祖母が急逝する。バラバラになっていたかんこの家族は、父の実家への道中でひとところに集まり、「車中泊」をしながら短い旅をすることになる。かんこ一家は子どもたちが幼かったころ、家族の楽しみの一環として、よく車中泊をしていた。コンロを積んで、好きな食べ物やお菓子を買い込んで、いろいろな場所へ出かけた。既婚の兄が、「家に泊めて」と甘える母を制するように提案した今回は、明らかに以前とは趣が異なる。だが昔を思い出した母は、はしゃぎながら受け入れる。
読者は、かんこたちと車中泊の旅を共にしながら、この家族一人ひとりの体に沁みついた歴史と風景を、追体験していく。
今作において鍵となるのが、この「車」だ。宇佐見さんはこう語る。
「家族とは、私のアイデンティティに大きく関わっている存在ですし、他の多くの人にとってもそうなのではないかと思います。一言では語ることのできないものを題材に小説を書こうと考えたとき、登場人物が車の中で感情を吐露している場面が頭の中にパッと浮かんできました」
車は、作中で家族のメタファーとして機能している。
例えば、妻とホテルに泊まる予定の兄が、険しい道を通るかんこたちの車を「自分の車」で先導する場面。兄の車は、かんこ一家が昔乗っていたのを譲り受けたものだ。後を付いていきながらの母とかんこの会話では、かんこたちが乗っている車は、「あの頃」とは別の車であることが印象付けられている。兄は既に車を乗り換えていて、かんこたちと距離を取りたいと思っていることも。
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(兄の車の後を追い)ハンドルを切る父の横で、「なつかしい」と母が声をはずませる。
「覚えてる。お店のお兄さんに同じ車種のミニカーも貰ったの。どこやったかね」
「持ってるよ」かんこは言う。「にい(兄)はなくしてるかも知らんね」
※丸カッコ内は筆者注
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家族の物語が「家」と結び付けて描かれることはめずらしくない。テレビドラマなどを思い起こしてみても、私たちはしばしば、その家の間取りや置かれた家具、食事などの様子から、描かれる家族の暮らしぶりや関係性を想像している。
今作で「車」を用いたのはなぜなのか。
「家はその場に固定されているものですが、車はぐんぐんと移動して、その空間ごと、いろいろな場所へ突き進んでいきます。壁で内と外が区切られた空間を生み出しているという意味では家と通じる部分もありますが、車のほうが外の景色も、移動による時間の流れも、感じやすい。閉じられた空間が、息苦しくなったり、別の局面では外の世界から守られているように感じられたり。書き進めるほどに、家族を描くには車という舞台がしっくりくると感じられてきました」
車は、居心地が悪ければ降りられるし、乗り換えることもできる。自分の行きたい場所へ行き、見たい景色を見るために、私たちはみずから「乗り物」を選ぶことができる――そういうクリーンな結論に向かって物語を紡いでいくことも可能だったろう。傷つくことに疲れて家を離れていった兄と弟は、まさにそんな選択をした側なのだろうと思う。
だが、かんこは車を降りない。些細に映る出来事で激情に駆られる母の有様に、何度となく傷ついても。学校に行けなくなったことを父に「生きざまが醜い」とまでなじられ、殴られても。
作中、かんこの心境はこんなふうに描写される。
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自分を傷つける相手からは逃げろ、傷つく場所からは逃げろ、と巷では言われる。だが多かれ少なかれ人は、傷つけあう。誰のことも傷つけない人間などいないと、少なくともかんこは、思っている。では、自立した人間同士のかかわりあいとは何なのか? 自分や相手の困らない範囲、自分の傷つかない範囲で、人とかかわることか。
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このどうしようもない地獄のなかに家の者を置きざりにすることが、自分のこととまったく同列に痛いのだということが、大人には伝わらないのだろうか。
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背負って、ともに地獄を抜け出したかった。そうしたいからもがいている。そうできないから、泣いているのに。
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宇佐見さん自身、かんこのそうした心情に共感しながら書いた。作中、傷つける側と傷つけられる側はめまぐるしく入れ替わる。父はその母親から愛されず、父親からは日常的に殴られ、傷を抱えたまま大人になった。親子の権力関係下では被害者と映るかんこ自身も、弟と喧嘩をしたときの決定的な一言で、相手の心に消えない傷を負わせた経験があったことも、読み進めるうちに明らかにされる。
「個人が自立していることが最善だとする風潮は、これまで『子どもは親の言うことを聞かなければならない』『家庭の事情のために自分の意志を曲げなくてはならない』という言説が強かったことへの対抗として生まれてきたものだと思うんですね。つらければ逃げたらいいとか、親の問題を子どもが背負う必要はないとか。私も心からその通りだと考えています」
「ただ、背負わなくていいということと、背負わなければ楽、ということは違うとも感じるのです。今作での『車』には、悪事を犯した者たちを乗せて地獄へと運ぶ火車(かしゃ)のイメージも重ねています。かんこは、丸ごと救えないか、行先を変えられないかと奮闘している。こういう感覚は、今の社会では『依存』の一語で済ませられがちです。だからこそ、この小説では否定することなく書きたいと思いました」
自分が傷つけられたからといって、他者を傷つけてもいいという道理はない。時に有形無形の暴力として発露する他者の傷つきや痛みを、受け止めなければならない義理もない。
けれど、私たちは経験的に知っているのではないか。「相手が悪い」と結論づけて、終わりにできなかった瞬間。一時的に「健全」ではないかもしれなくても、相手を背負おうとせずにはいられなかった瞬間。
自立なのか、依存なのか。健全なのか、不健全なのか。人と人との関係が二項対立的に語られるとき、そこからこぼれ落ちていく生々しくてかけがえのない感覚が確かにある。宇佐見さんは作品を通じて、それを常にすくい取ろうとしているようだ。
本作に分かりやすい起承転結はない。かんこは、家ではなく自家用車の中で暮らし始めるという風変わりな状態に陥りながら、光を求めてもがき続ける。
「これまで発表した2つの中篇作品では、意識したわけではないのですが、主人公が自分の内面を思いきり爆発させるような形で物語が終わっていました。でも、世界ってそういう分かりやすい『結末』よりも、爆発する寸前でどうにかこうにか踏みとどまっている、一人ひとりの終わらない苦しみによって構成されているような気がして。奇妙な言い方かもしれませんが、今回は書いたことで、作品からそれを教えられたと感じています」
(取材・文:加藤藍子@aikowork521 編集:泉谷由梨子@IzutaniYuriko)