仕事を定年退職した男性が美術大学に編入して制作した作品が「めっちゃかわいい」「行動力も感性も若々しい」とネット上で話題になっている。
注目を集めているのはカワウソが描かれたタンブラー。作品を受け取ったアートディレクターのカイシトモヤさん(東京造形大学教授)が写真をTwitterに投稿すると、たちまち「いいね」やリツイートが広がった。
カイシトモヤさんは「いくつになっても学び始めること、作り続けることの素晴らしさが伝わってくる」とコメント。
ハフポスト日本版の取材に対しても「側面にカワウソが3匹描かれていて、それぞれ正面と左や右の3つの方向を向いています。タンブラーのどこから見ても、かわいいです。いくつかのデザインのタンブラーの中から選ばせてもらいましたが、これに一目惚れしました」と絶賛した。
ハフポスト日本版はタンブラーを作った男性に、制作の裏側を尋ねた。
大好きなビール、毎日違うタンブラーで
タンブラーを作ったのは川崎市に住む碓井義忠さん(68)。2019年3月、美術教員として勤めていた川崎市の高校を65歳で定年退職し、翌4月に武蔵野美術大学(東京都小平市)通信教育課程の3年に編入した。
「定年退職の直前に受講したセミナーで『老後は“きょういく”と“きょうよう”が大事』と聞きました。『きょう、行くところがある』『きょう、用がある』毎日にしようと。そこで美大への編入を決めました。学生時代には油絵を学びましたが、学校教員として制作した立体に関心を持ち、定年後は陶磁を学ぶことにしました」
入学後に新型コロナウイルスの感染が拡大し、通学に不安を感じてスクーリングを控えたため、2022年3月の卒業までに3年かかった。カワウソのタンブラーは、卒業制作として作ったうちの一作だという。
「ビールが大好きなので、1カ月間、毎日違うタンブラーでビールを飲めたら楽しいだろうと思い、約30個の制作を目標にしました。最終的には、あまり上手に作れなかったものも含めて約100個も作ってしまいました」
「『3カ月分』のタンブラーを保管しておく場所もないので、知り合いに配りました。中には『特別なときに使います』と言ってくれた人もいて、うれしかったです。配布したうちの1本が、カワウソのタンブラーでした」
日本酒から連想したカワウソ
碓井さんがカワウソを描こうとしたのも、お酒好きからだった。
碓井さんのお気に入りの日本酒「獺祭」(旭酒造)の「獺」は「カワウソ」を指すことから、「カワウソの描かれたおちょこで獺祭を飲みたい」と思い立ったという。そのアイデアを下地に、タンブラーにもカワウソを描くことにしたそうだ。
「タンブラーに描いた模様の多くは『シルクスクリーン』と呼ばれる版画のような技法で転写しましたが、カワウソは手書きです。筆や針を使って毛並みを再現しました。タンブラーを3等分すると制作しやすいので、正面と左や右を向いているカワウソを1匹ずつ描くことにしました」
カワウソ以外の部分には「青海波」(せいがいは)と呼ばれる波状の模様を描いた。模様の図鑑を参照して青海波の美しさに見惚れ、採用したという。
絵の具を40回以上も試作
タンブラーの制作で最も苦労したのは、カワウソや青海波の模様の描写ではなく、意外にも「絵の具作り」だったという。
「当初は青いインクに糊やザラメを混ぜて煮たものを使っていましたが、模様を版画のようにタンブラーに転写した際に、なかなか色が移ってくれませんでした。そこで、切手の裏に使われる糊、洗濯糊、片栗粉などを使い、何度も絵の具を作ってみましたが、1年以上も失敗が続きました」
考えあぐね、名古屋市の透明水彩絵の具などを扱う会社にメールで問い合わせたところ、「白笈」(はっきゅう)と呼ばれる蘭の球根から採取したでん粉を使ってみることを提案された。すぐに試すと、うまくいった。
「本当にうれしかったです。これだったらなんとかなりそうだと。卒業制作も佳境の2021年10月のことでした」
描く題材や技法、そして絵の具など、細部にわたって作品にこだわりを詰め込んだ碓井さん。2022年4月からは京都芸術大学(京都市)通信教育部に編入し、もう一度、陶芸を学ぶ予定だという。
「京都は『京焼』と呼ばれる焼き物で有名なので、他の地域とは異なる伝統的な技術を学びたいです。スクーリングで京都に行く際は、観光も楽しむ予定です」
碓井さんは今後も「きょういく」と「きょうよう」を磨いていくようだ。