『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(以下『白鳥さんとアート』)は「声」が詰まった1冊だ。
「聞く」声、「話す」声、その場で生まれる「雑談」、ちょっとシリアスな著者の「語り」。
いろんな声が現れては消えるので、詰まりがなくてなんだか風通しがいい。どれも肩に力の入っていない小さな穏やかな声だから、繰り返し言いたいけれど、メンタルがしんどい人も安心してください。
小さな呟きの声の連続なのに、「声が生まれる場」で常に何かが起きる。読み終わった後は、舞台にぎっしりと演奏者が並ぶオーケストラによる、物語性に富んだ楽曲を聴いたように圧倒され、深い余韻がいつまでも残る(連ドラ完走ロスのようなあの感じ)。
「見えない」人が「見る」。でもどうやって?
「白鳥さんと作品を見るとほんとに楽しいよ!」
物語は、著者・川内有緒さんの20年来の友人で、念入りなアート好きのマイティ(佐藤麻衣子)さんのひと言から始まる。
年に何十回も美術館に通う全盲の美術鑑賞者、白鳥建二さん。好みを端的に言うならば、作品としては「よくわからないもの」。3人に共通する「推し」ジャンルは「現代美術」。
「見えない」人が「見る」ってどういうこと? わからないので知りたい。思わずページをめくってしまう。
でも、どうやって?
せっかくだから、実践してみませんか?
「例」の部分には、皆さんの声を入れてみてください。
━━何が見えますか。
(例)絵が描かれていて、3人いて、真ん中の人は棒を持っています。横に「全盲の美術鑑賞者、白鳥建二さん」と書かれています。そうか、この人が白鳥さんなのか。
━━そうなんだ。
(例)あ、棒は白杖? 白鳥さんは隣の人の腕をつかんでいます。赤いワンピースで、髪の毛が長い人。
━━へえ。
(例)白鳥さんから、「なにが見えるか教えてください」という吹き出しがあるので、目の前に作品があるのかも。
━━ふうん。
(例)でも真っ黒です。黒板みたい。なんだかざらっとした表面だから、うーん、暗い穴……洞窟の入り口?
━━洞窟?
(例)いや、上映途中の映画館に入るところ? そういえばもう1人は白鳥さんたちと違う方を向いてるから、やっぱり、ここは美術館で、この人は他の作品を見ているのかも。あれ??
あなたは何を「見て」、どんな言葉を発しただろう。まず赤い色に目がいった人、あるいは足下の影に気づいて、屋外だと想像した人もいるかもしれない。 作品を前に、あなたが何を感じてどんな声を発するのか(あるいはしないのか)、それは自由。そもそも「これだ!」という正解がない。
「見えない」白鳥さんとの美術鑑賞法は、そんなふうに「わからなさ」を前提に「感じたことを話す」ことになる。
「わからなさ」というキーワードは、通奏低音のように1冊を通して流れているものだ。
ちなみにこの作品は、イラストレーターの朝野ペコのイラストを、装丁家の佐藤亜沙美がデザインした制作物(『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』表紙)です。実際に触ることもできるので、本屋さんに行って手に取ってみてほしい(さり気なく推すパターン)。
全盲の白鳥さんが撮った写真、その数約40万枚
白鳥さんは、年に何十回と美術館に通っているそうだ。
20年以上前、「自分は全盲だけど作品を見たい」と美術館に電話して以来、自身の体験から編み出し、実践してきたのがこの独自の美術鑑賞法だった。
彼はほぼ毎日散歩に出かけるという。(うん、あるよね。そういうの)
その際に写真を撮るらしい。「読み返さない日記」と表現する写真の数、約40万枚。(ええ、見えない人が写真を撮る? 見返さない?? なのに、なんで???)
盛りだくさんな白鳥さんのエピソードは「?」の連続だ。ラブコメ要素まで入ってくる。面白くない訳がない。
白杖でツンツンとあたりを突つきながら、電車で移動し、待ち合わせにもほとんど遅れない白鳥さんだが、ある夜、酔っ払って自宅への帰り道がわからなくなったことがあるという(白鳥さんはお酒好き)。
「やっぱり目が見えないから大変なんだなあ」と想像する有緒さんに、白鳥さんはあっさり言う。
「目が見えないという状態が普通で、“見える”という状態がわからないから、見えないことでなにが大変なのか実はそんなによくわからない」
水戸黄門ご一行ならぬ、白鳥さんご一行(そういえば白鳥さんも水戸在住だ!)。ゆく先々に、事件はなくとも美術作品と、その場所ごとに新たな仲間がいる。 登場する人物のキャラクターが「立って」いるのは、有緒さんが面白がって「見て」いるからだろう(密かに脇の「推し」キャラを心に秘める)。
印象派の絵画から、現代美術家のインスタレーション作品など、1章ごとに見に行く作品ジャンルががらりと変わるので飽きない。
Twitterで「推し仲間」と確信した「自由地図ブックス」さんは、「逆説的ですが、美術案内として“も”すばらしいと感じました」と投稿(もちろんRT)。
「逆説的」という表現は、アート以外のテーマがあまりに多く、多様な読み方ができる本であることを端的に語っている(「自由地図ブックス」さん、すごい!)。
3回読んでも読み切れない。だからついまた読んでしまう。
結論を出さない「オープンダイアローグ」との共通点
フィンランドの精神医療の現場で生まれた「オープンダイアローグ」という対話の手法がある。困りごとのある人が相談者となり「話す」。それを複数のメンバーがチームとなって「聞く」というシンプルなものだ。
メンタル超絶不調だった時期(前編参照)、出会った1冊が斎藤環(監修)水谷緑(まんが)『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』(医学書院)だった。漫画(絵)はほんとしんどい人にも優しい。
一読するや、これは自分に良さそうだと直感した。
同じように興味を持った友人たちと、夏頃からオンラインで実践を重ねている。
最初のチームでは、私自身が困りごとを「話す」人を体験した。うまく言葉にできないことを、そのまま受け入れてもらい、肯定される不思議な時間。それまで体験したことのない「よき感触」として私の心を揺さぶったので、うまく言葉にできないまま「オープンダイアローグって面白いよ〜」と「推し」始め、現在は「聞く」人にもなり、複数のチームで継続している。
端的に言って、すごくいい。
ある日、ふと気がついた。オープンダイアローグには、「対話の場」におけるルールがある。
話す人の体験や思いを否定しない。
結論を出さない。
「聞く」「話す」をわける。
その場で生まれた声に耳を傾ける。
ただ対話を続ける。
これらが、アートを見る場での白鳥さんの立ち位置と共通しているのだ。
アートを前にした白鳥さんは、オープンダイアローグという対話の場での「聞く人」のようにも思える。複数の声が異なっても、無理に1つの答えを出そうとはしない。むしろいろんな人の声が響き合う「多声性(ポリフォニー)」を大切にする。
結論を出さないというのは、わかりたいと思っても、「わからなさ」を保留にするという意味だと感じている。
正しさや客観性を目指すのではなく、「わからなさを保留にする」と、その場の誰もが、互いに異なる考えをもつ存在として尊重される。すると人と人の関係性がフラットになる。人が対等になる、そんな場に生まれるのは「安心」。
オープンダイアローグで実感するのもこの「安心」だ。否定も結論もない。話が変わってもとがめられない。「今ここ」にいる自分から生まれる自由な語りが許される場では、緊迫して張り詰めてどん詰まっていた思考が程よい温泉に浸かってゆるゆる溶け出すように心地いい。 実践を重ねる度に、心の強ばりがほどけて、私の心身の調子は驚くほど変化していった。
どうでもいい会話の積み重ねのその先に
再び、「推し」である白鳥さんご一行の後を追う。旅先の1つ、風間サチコ《ディスリンピック2680》(2018年)が展示されている黒部市美術館でのこと。
黒と白の木版画作品で、ジャンルでいえば現代美術。本の中では、鑑賞している作品が掲載されているのだが、この《ディスリンピック2680》に限っては、該当箇所が真っ黒に塗りつぶされている。
作品はカバー裏側に掲載されていて、ここでは本に書かれた会話から、白鳥さんと同じように、読み手もどんな作品なのか想像できる仕掛けになっている(素敵なアイデアだ!)。
「聞く」人を前に、「見た」人が自由に「話す」声から、横長に大きな作品の、左側と右側のディテールの描き分けが見えてくる。それは人が競争原理によってランク付けされ、勝ち組と負け組が選別される過酷なオリンピックを描いた作品ではないだろうか。
その場で生まれた言葉の断片が積み重なるふくよかな「場」から、「集合知」のような声にも辿り着く。
アートを前に生まれた声をいったん持ち帰り、有緒さんは「書く」ことでエピソードを「語り」、深めていく。そして「優生思想」というテーマに行き当たる。結論は出せない。出さない。有緒さんの戸惑いや迷いが、読み手である私の心の奥に感触として残る。
ご一行がアートを見る旅は、舞台を変える度にテーマも変えて、いつもそんな感触を与えてくれる。 ところで、この推し活のおかげで、私はなんとリアル白鳥さんやマイティにも会うことができました(推し活ハイライト)。
その貴重な機会に、当の白鳥さんはこの本をどう読んだのか聞いてみた。
「俺にとっては、自分の価値感、ものの見方なんかを確認する本になっているんです」
え、自分のことなのに「確認」?
例えば……と挙げた1つが、前述の「優生思想」についてだ。
「1966年から74年まで兵庫県衛生部が、『不幸な子どもの生まれない運動』をしていたというエピソードが出てくるんです。俺、それは聞いたことはあったはずだけど、有緒さんが書いたのを見て、そのエピソードと『優生思想』の文脈がつながったの」
本に書かれたエピソードは有緒さんの「内なる声」だ。白鳥さんはいわば「他者の声」から、「自分」を確認したという。
「『不幸な子どもを増やしたくない』って、そりゃ不幸な子どもが増えるのはあんまりよくないよね。そういう『一見よさそうにみえる』んだけど、『よろしくない方向にもいっちゃう』っていうようなことに、俺はすごく注目していて。(この本は)そんなほんのちょっとの積み重ねがいっぱいあって、全体的な価値観が出てくると思うんだよね」
有緒さんの呟きが、そんな白鳥さんの言葉にシンクロする。
「どうでもいい会話の積み重ねの先に、本質的な対話があったりする。どうでもいい会話が実は大事なものを支えているのかもしれないなぁって」
白鳥さん、見えるようになりたいですか?
コロナ禍では、人との接触が必要最低限に規制されて、無用な会話、雑談は、目的や意味のない語りとして否定された。でも、それが無駄なものなのか、誰が決められるのだろう。
適当な雑談ではない、本質的な会話だけで日常が構成されたら。まあまあしんどい。わりとしんどい。コロナ禍を過ごした私たちはそのことを体験しているはずだ。
どうでもいい話をしてもいいんだ。それがどうでもいいかどうか、誰にもわからないんだから。
『白鳥さんとアート』はそうも教えてくれた。
マイティがこんなことを言っていた。視覚障害者と一緒に見る美術鑑賞法が「プログラム」となった瞬間に、どこか「枠」にハマった窮屈さがあるように感じるのだと。
「白鳥さんと見にいくのは、いつだって面白いんですけどねえ」
その言葉にはっとする。 視覚障害で「見えない」人は、「見える」人の言葉を原理的に否定できない。ただ、「見えない」人の誰もが白鳥さんのように面白がって「見る」とは限らない。
好奇心いっぱいで、「わからなさ」を面白がる白鳥さんがいるから、作品を見る「場」がふくよかになる。交換不可能な存在として、「その人」がいるから面白いんだ。
マイティ、すごい(物語の発端ともなる個性の強いキャラ)。
あるとき有緒さんが、それまで聞きたくても聞けなかったこととして、白鳥さんにこんな質問をする。
この先に医療が発展して、手術などで目が見えるようになるなら、見えるようになりたいですか、と。
白鳥さんは即座に答えたと言う。
「俺はなりたくないね。小さいころから目が見えないままでやってきて、いまさら見えるようになったら余計大変じゃないかなー」
いいこともあるかもしれないけど、どうせ見えるようになるのなら子どものころからやり直させてほしい。今から選択できるとしたら、「もう選ばないんじゃないかな」と。
白鳥さんは「過去の自分」をも「わからない」存在、他者として「見て」いるのかもしれない。そんな白鳥さんは「たった今の自分」を楽しんでいるのだと、有緒さんは白鳥さんを真っ直ぐに「見る」。
「書く」ことでしか「見えない」こと
「白鳥さんのように見る」ことは、「見える/見えない」に関わらず、誰にもできるのではないか。白鳥さんのように、先入観なく、こんなふうに世界を見たら面白いよ。
そんな場で生まれる声から、ふと気づくこと、お互いが揺さぶられることがあるよね。
「見る」「見えない」って何? そんな自問から始まって、さまざまな声によって少しずつ変化していく有緒さん自身の姿から、シンプルだけれど深いメッセージが強く届いてくる。大きな物語の力を感じる。
メンタルの不調は他の人には見えにくい。「困りごと」は確かにあるのに、自分でもよくわからなくなり混乱した。そんな「自分」を否定せず、あるがままに見て話を聞いてくれる仲間の声を通して、「今ここ」の瞬間の「自分」を信じることができた。その積み重ねで世界が再び自分の居場所として戻ってきた気がする。仲間、やっぱり大事だ。雑談、尊い。
有緒さん、すごい(物語中、白鳥さんと双璧のキャラでもある)。
本の終盤でも書かれているように、有緒さんは『白鳥さんとアート』ときょうだいのような関係の短編ドキュメンタリー『白い鳥』を、友人である映画監督の三好大輔さんと製作した。
現在、その続編となる長編を製作しているという。
そうか。有緒さんは「白鳥さん推し」なんだ。本のタイトルにまでして語っているではないか。今さらのように気づく。自分の「推し」力なんて、まだまだ、と唸る。
書く人は、「書く」ことでしか「見えない」ことがあるから書く。映像もまた、「撮る」ことでしか見えないものがあるのだろう。
撮りながら「見る」仲間の三好さんと生まれる声の先に、どんな白鳥さんが見えてくるのかなぁ。もちろん見たい。
あ、そうか。その映画作品は、ファンにとって『白鳥さんとアート』ロスの受け皿になるのでは……。たまらん。
推しがある生活、悪くない。むしろ、いい。