京王線の電車内で男が火を放ち、乗客を刺した事件は、私たちが電車内で身の危険にあうかもしれない可能性を突きつけた。
男は、8月に起きた「小田急線刺傷事件を参考にした」と供述したと報じられた。さらに、この京王線刺傷事件を「真似た」という男が九州新幹線内で火を放つ事件も起きた。
立て続けに起きる乗客を狙った無差別事件を前提に、私たちは電車内で身に危険が迫る事態に備えないとダメなのか。
鉄道業界に10年ほど勤務する、鉄道会社の運転士経験者がハフポスト日本版の取材に応じた。京王線事件を踏まえて、運転士の目線から、少しでも冷静に行動するために乗客に知ってほしい5つのことを語った。
① 非常通報装置が押されてから電車が止まるまでにタイムラグがある
運転士経験者によると、電車内の非常通報装置(非常ボタン)が押されても、電車は必ずしもすぐに緊急停車するわけではないという。
「個別の路線の特徴を踏まえて、運転士の判断でトンネルや橋の上など避難できない場所を避けて止まります」と説明する。
そのため、非常ボタンが押された後も電車が走行し続けたとしても「非常通報が無視されていると思わないでほしい」と呼びかける。
京王線事件では、布田駅を通過中に非常ボタンが押された後、電車は次の国領駅で緊急停車。京王電鉄は、通話式の通報装置ごしに乗客の反応はなく、乗務員が車内の状況を把握できなかったため、社の運行ルールに従って次の国領駅まで走行したと説明する。
だが、乗客はこうした事情を知らない。毎日新聞によると、先頭車両までたどり着いた男性が、運転席のドアをたたき、何度も「とにかく止めてください」と運転士に叫んだという。
運転士経験者は「非常ボタンを押して『止めろ』と言っているにも関わらず、止まってないじゃないかと思ったはず」と推察する。
「運転士の立場から見れば、トンネルの地下区間の途中ではなく(避難や安全性の観点から)なるべく駅のホームに入ろうとしているから、止まっていないのです。そのことを通報した方も理解してもらえれば、少しは冷静になってもらえるのではないでしょうか」
② 状況を伝える立場になったとき、乗務員に正確に伝える
乗務員にとって、緊急事態に対応するには車内の状況把握が欠かせない。乗客からの通報や報告は、最初の情報手段として大きな役割を担っている。
もし自分が状況を伝える立場になったら、何を伝えたらいいのか。
運転士経験者は「自分の身の安全を優先してもらうのが前提」と前置きした上で、正確には無理でも「真ん中の車両で火災が起きている」「端っこの車両に刃物を持った人がいる」といった伝え方が望ましいと語る。
比較的新しい車両は、何号車で非常ボタンが作動したのか、乗務員室から把握できる場合もあるという。
「場所は言わなくても大丈夫かもしれない。何が起きているのか、簡潔に言ってもらえれば緊急時は事足ります。『急病人です』『火災です』最悪それでも構わないです」
京王線事件では、複数の非常ボタンが作動したが、乗客から聞き取ることができず、車内の状況把握に時間がかかった。
運転士経験者は、仮定の話と断った上で、乗客と乗務員の情報のやりとりの重要性についてこう話す。
「仮に情報が正確に伝わっていれば、車内放送で『刃物を持った人がいるので逃げてください』と乗客に喚起できたかもしれません。また乗務員が『駅まで行くので慌てず行動してください』と伝えられていれば、(乗客がドアコック開けずに済み)ずれた停止位置を戻して、ホームドアと電車のドアを開けられたかもしれません」
当該車両には、防犯カメラが設置されていなかった。毎日新聞の調査によると、京王電鉄の車内への防犯カメラの設置率は17%。
JR東日本と首都圏の大手私鉄9社でみると、全車両に搭載されている東急電鉄とJR東(首都圏の車両)以外は、設置率はいずれも50%を下回るという。
各社は新車両への設置は進めているが、既存車両への取り付けは、費用面や工事中に車両が使えないことなどが障壁になっているという。乗務員の初動対応は、乗客からの情報に頼るところが大きいのが現状だ。
③ 最後の手段の「ドアコック」
京王線事件で注目された「ドアコック」。
緊急時などに手動でドアを開ける装置で、車内のドアの上やドア付近に設置されている。
事件では、乗客がドアコックを使用した影響で電車を動かせず、ずれた停車位置を戻せなかったため、車両全体のドアが“開けられない”という判断になった。
ドアコックの使用はどう考えたらいいのか。
「基本的には乗務員や係員が開ける」のを大前提に、命に関わる緊急事態も念頭に置くと「ケースバイケースとしか言いようがない」と運転士経験者は説明する。
2011年に起きたJR北海道の石勝線特急脱線事故でも、列車の火災で車内に煙が流入し、乗客がドアコックを使用して自力で脱出した。多数のけが人が出たが死者はなく、火災で全6車両が焼損した。
この事故を例に「乗務員が判断がつかない間に煙が充満していき、おそらく乗客が自らの判断でドアを開けて逃げなければ危なかった。この時は、乗客の判断が正しかった」と説明する。
その上で次のように念押しする。
「降りる場所によっては反対側の線路から電車が来ることや、ホームでなければ電車の床から地面までかなりの高さがある。そういうことを考えると『なるべくお客様が使わないで、係員の指示が基本です』としか言いようがないです」
④ 車両は燃えにくい素材でできており、燃え広がったとしても時間がかかる
現在の電車の車両は、過去の事故などを教訓に燃えにくい素材でできている。仮に火災が起きても、燃え広がるまでに脱出する時間の余裕はあると、運転士経験者は説明する。
「事件当時の映像では炎や煙がすごい上がっていましたが、事件後の写真を見ると椅子の一部が燃えた程度でした。九州新幹線の放火未遂事件でも、火は燃え広がらずすぐに消えました」
運転士経験者がこう訴えるのは、避難のための冷静な判断や、2次被害防止につながると考えているからだ。
「京王線事件では車内は満員ではなかったようですが、煙や炎を見てパニックになって、反対側に殺到して、(ドミノ倒しのような)2次被害を起きることも恐ろしい」
「電車は非常に燃えにくく、時間稼ぎできることを知っていれば、すぐには自分のところまで燃え広がらないと思える。もちろん煙は非常に危険ですが、次の駅に止まって脱出するまでは何とか命は助かるだろうと思えれば、少しでも冷静に行動できるのではないでしょうか」
⑤ 新しい車両ほど窓からの脱出は難しい
乗客が窓から脱出する光景に、運転士経験者は「そんなことができるのか」と衝撃を受けた。運転士や鉄道会社側からすると、こうした避難方法は「想定されていない」と説明する。
運転士経験者によると、むしろ新しい車両は、窓が開く隙間が狭いつくりになっており、窓から外に脱出することは難しいという。
「今はコロナ禍で換気のため窓が開いていますが、それ以前は空調設備やエアコンも進化して、窓を開ける必要がなかった。ドアコックもありますし、かえって窓から手や首を出して電車にぶつかる安全面を考えたら、開かない方が良いだろうという流れでした」
「窓から逃げるのは、ホームドアがなければかなりの高さから飛び降りることになる。電車設備や駅の施設、乗務員も、こういう事件があること、ましてこんなに頻繁に起きることを前提としていません。今後はもしかしたら、今回のことを受けて窓が開くようになるかもしれません」
運転士から見た京王線事件
京王電鉄は車両とホームのドアを開けなかった。この判断は、運転士経験者の目にはどう映ったのか。
「安全のため開けないのが基本というのは理解できますが、何カ月か前に小田急線で事件があったことを念頭に置けば、開けていた方が良かったと思います」
停車位置がずれたままドアを開けると、乗客が線路に転落する恐れがあったという京王電鉄の判断に対しても疑問を呈する。
「車両の半分がホームからずれていればドアを開けられないですが、2メートルならほぼホームにおさまっています。火災が発生していたことや、お年寄りや妊婦の人が窓から逃げられるのかというのを考えると、判断としてどうだったのか。乗客が窓から逃げるのは異常です」
「乗務員が正確に状況を把握できなかったことが影響したと思います。2次被害の危険もあったでしょうし、『停車位置がずれていたら絶対に開けるな』と言われていればそうするしかないので、鉄道会社にもよります」
乗客の安全を預かる運転士の立場として、事件を起こした容疑者に対して「許し難い」と憤る。
「誰でも安心して乗れるという前提で公共交通機関が成り立っています。それををぶち壊しにする行為は非常に許し難い。ただ、こうした行為を完全に防ぐのは難しい。義務ではないですが、お客様一人ひとりの協力も必要なことだと思います」