2021年9月17日に配信が始まった、Netflixオリジナルの韓国ドラマ『イカゲーム』が全世界で大ヒットしている。世界90カ国で視聴回数1位を記録。人気が過熱し、登場人物が着用している白いVANSのスリッポンの売上が、7800%に急増したというから凄まじい。日本の視聴者の間でも話題に。借金を抱えた者たちが、賞金を求めて命懸けのゲームに挑むというそのストーリーから『韓国版カイジ』などと評す声もある。
ただこの『イカゲーム』、ハラハラ、ドキドキを楽しむだけのデスゲーム系作品(登場人物が特定の場所に閉じ込められ、命を懸けるゲームに巻き込まれる設定の作品)かというと、趣きが異なる。「金を稼ぐこと」に失敗すると、尊厳を削られ続けても仕方ないと思わされてしまう現代社会のリアリティーを映しとっている。そんな世界で、私たちが人としてどう生きていくべきかを示唆している作品だと私は思う。
主人公の男、ソン・ギフンは、勤めていた会社を辞め、飲食業を営むも失敗し、借金まみれの47歳だ。妻には離縁され、最愛の娘にささやかな誕生日プレゼントを贈ろうとするものの、金が手に入るとすぐにギャンブルに使ってしまう。
私の周囲には「ギフンが父親としてあまりにもひどいので、憤慨して視聴を続けることができなかった」という知人がいた。確かに、冒頭の振る舞いを見れば、クズであると言わざるを得ない。
ただ、ギフンには借金取りから追われている最中にぶつかった女性に「すみません大丈夫ですか」と謝る素直さがある。汚れた野良猫に食べ物を分け与えるような優しさがある。
彼はクズなのか? いや、違う。この社会では「金を稼ぐ」というゲームで負けを喫すると、クズのように扱われる。自分のことを「クズだ」と思い始めたら、あとは転落する一方だ。人は、クズのように扱われるからクズになる。
金がなくて途方に暮れるギフンのもとに、身なりのいいもう一人の男が現れ、こう語りかける。ゲームをしてみませんか。メンコ遊びで私に勝ったら10万ウォン(約1万円)差し上げます。負けて払う金がない場合は1発殴らせてもらいますが、悪くない話でしょ? ボコボコに殴られながら辛うじて1勝をもぎとったギフンを、男は特別な「ゲーム」が開催される異空間へと誘う――これが物語の始まりだ。
※以下の部分は、物語の内容や結末に関わる重要な部分に触れています。
正体の知れない何者かがつくり上げたその空間には、総勢456人が集められていた。ギフンをはじめ、いろいろな経緯で負債を抱え、クズのように扱われるようになった者ばかりだ。彼らはそこで、「だるまさんがころんだ」や「カルメ焼きの型抜き」、「綱引き」といった、子どもの頃に親しんだ遊びで勝ち負けを競うことになる。聞き慣れない「イカゲーム」という言葉も、韓国の伝統的な子どもの遊びの一つらしい。すべてのゲームを勝ち抜けば、456億ウォン(約43億円)を獲得できる。
いわば現実で負けた者たちのチャレンジマッチ。しかし、「トライアル」のメンコと、「本番」は違う。負けたら平手打ち一発では済まない。速攻で殺されてしまう。
『イカゲーム』が独特なのは、現実で「負けた者」とされた挑戦者たちが受ける、ある種の「尊重」だろう。参加は強制ではなく、一応は自由だ。ペナルティーの内容を知らされずに「だるまさんがころんだ」に挑んだら、脱落者がいきなり銃殺される1戦目の展開は全く理不尽だと個人的には言いたい。だが「こんなゲーム狂ってる!」と参加者の過半数が中断を望めば、危害を加えられることなく外界に送り返してもらえる。「民主主義」なのである。
空間を統率する正体不明の人物は「不平等と差別に苦しんできた人々に公平に競える最後のチャンスを与えたい」とも言う。ゲームに挑むためのペアを組むよう命じられたとき、周囲から疎まれあぶれてしまった参加者を不戦勝として、「阻害された弱者は捨てない」と崇高な理念っぽいものが語られる場面もある。このゲームは単なる享楽のためではない。現実に怒り、失望しているから開催しているのだ――とでも言いたげな様子だ。
しかし、それは詭弁である。外界でクズとされた人たちは、この空間でも変わらずクズとして扱われている。果物がジューサーでキュッと絞られるのと同じくらいの軽さで、殺されていく。尊厳もへったくれもない。そもそも前哨戦のメンコだっておかしい。金がなかったらなぜ「殴られてもしかたない」なんて話になるのか。しかし、挑戦者たちは「異様だ」と思いながらもゲームを降りられない。ワンチャンで「勝者」になることへの欲を捨てられないし、そうでもしなければ「クズのまま一生を終えることになるんだ」と考えてしまうからだ。
徒党を組む者、いかさまをしようとする者、助け合おうと約束したはずなのに裏切る者。救いようがないほど邪悪で、暴力的で、ゲームの外で殺人さえ実行する者。「勝ち負けがすべて」の状況にさらされたとき、「人間らしさ」は失われる。
いやこの醜さこそが、人間の本質なのか。観る側が頭を抱えさせられるようなエピソードを畳みかけていく。それでも、最終的には「いや人間はそうではないはずだ」という強烈なアンチテーゼを提示している点が、『イカゲーム』の面白さであり、新しさでもある。
「人がいい」ことと、往生際が悪いことくらいしか取り柄がなかったはずのギフンは、破れかぶれで生き残っていく。だが、そのありさまは独特だ。「だるまさんがころんだ」では、ズッコケて「これまでか」という瞬間、背後にいた別の出場者に体を支えられ切り抜ける。おはじきを使ったゲームでは、対戦相手から勝ちを譲られる展開になる。
よほどひねくれた見方をしない限り、これに対して「主人公だからってチート(制作者側のいかさま)だ」と憤る視聴者はいなかったはずだ。理不尽で殺伐とした「外の世界」みたいな異空間で、ギフンの周りはいつだって少し温かい。彼は器用でも有能でもないが、他者を信じようとするし、助けようとするからだ。
負けたら死ぬ世界で「勝ち負けなんてどうでもいい」とは言えない。でも振り返って思い出すのは「どう勝ったか」じゃない。彼や、彼の周りのさまざまな人たちが、何に迷い、立ち向かい、そのときどんな表情をしていたかということだ。本作は、生きざまをこそ魅力的に描き出している。ちなみに私は、ペアを組んだどちらかが必ず負けなければならないゲームの中で、制限時間ギリギリまで相手とおしゃべりし、たった1人の女友達をつくることを選んだ少女が好きだった。
一方、ギフンとは対比的に描かれる、チョ・サンウという人物の造形が物語の輪郭を際立たせている。サンウはギフンの幼なじみだが、ソウル大学を卒業し証券会社に就職したエリートだ。ところが、横領した顧客の金で先物取引をして失敗。詐欺などの容疑で追われる身となって「ゲーム」に参加することになった。
勝ち続けることで地位を獲得してきたからなのだろうか。彼は決して悪人ではないのだが、「自分の勝ち負け」が絡んだとたん、非情なことをいとも簡単にやってのけてしまう。
例えば、彼はその頭脳を駆使してゲームの「勝ち筋」を見極める。チームを組んだギフンら仲間に共有し、感謝されるシーンは一度ではない。彼自身、できれば「善良で、尊敬されるに値する人として生きたい」と渇望しているように映る。しかし、その身には「勝ち負けがすべて」の論理が染み込んでいる。仲間を助けることが自分の負けにつながるかもしれない局面では豹変し、その知恵を自分が「勝つ」ためだけに使う。
「勝ち負けがすべて」を続けるか。第三の道を求めるか。最終戦となる「イカゲーム」では必然、ギフンとサンウが対峙することになるわけだ。
イケてることを言っているみたいな雰囲気で、わりと詭弁ばかり言う例の主催者側の人物は最後に、ゲームは競馬と同じだ、と言い残す。作中、このゲームにはただ鑑賞するだけの「VIP」と呼ばれる輩がいて、彼らは有り余る富を「誰が勝つか」に賭けて楽しんでいるからだ。ギフンは「俺は馬じゃない、人間だ」と憤る。そして彼がゲームを開催し続ける者たちの「正体」を探り始めるところで物語は終幕へと向かう。
このラストは、散りばめられた謎の全容解明を望む視聴者にとっては物足りないだろう。これだけのヒット作となれば、続編が制作される可能性は高いとも思う。私も観たい。が、ここで終わったとしても、ある意味で示唆的といえるのかもしれない。敵は「隣にいる弱者」ではない。では、何と戦うべきなのか。その答えを自分で考えずに、エンターテインメントの中だけに求めようとするのは、ちょっと虫が良すぎるというものだろう。
(文:加藤藍子@aikowork521 編集:若田悠希@yukiwkt)