2001年9月11日、米国同時多発テロの日、あなたは何をしていただろうか。
私は26歳で、その前年に1冊目の本を出していた。その日は編集者の女性と打ち合わせがあり、その後、二人で目黒のカラオケ屋で呑気に歌っていた。
深夜、帰ってテレビをつけると、どこかの国の高層ビルに飛行機が突っ込む映像が流れていた。ただただ映画を見るようにポカンと画面を眺めていた。それがあの日の記憶。
テロだと認識してから頭に浮かんだのは、その2年前に訪れていたイラクだった。
1999年、私は人生2度目の海外行きでイラクを訪れていた(一度目は北朝鮮)。当時の私は物書きデビュー前のフリーター。なぜイラクに行ったかと言えば国際音楽祭に出演するためだ。当時、イラクでは年に一度「バビロンフェスティバル」という音楽祭が開催されていて、その国を代表するようなミュージシャンらが出演していたのだが、そんな由緒正しき音楽祭に、日本の誰も知らず、全く人気のない右翼バンドが出ることになったのである。それが私が当時ボーカルをつとめていたバンド。イラクのバース党とつながりの深かった新右翼団体・一水会の木村三浩氏に誘われてのことだった。
そうして訪れたイラクは、衝撃の連続だった。
あちこちに残る湾岸戦争の爪痕。空爆に遭った建物や破壊されたインフラもそうだったけど、もっとも雄弁に戦争の悲惨さを物語っていたのは、小児病院にいるガンや白血病、先天性異常の子どもたちだった。その8年前、イラクには劣化ウラン弾が降り注いでいたのだ。初めて実戦で使用されたそれは、核や原発のゴミを兵器に転用したもの。イラク人医師たちは、子どもたちの病気を劣化ウラン弾によるものだろうと口にし、治療したくてもできないのだと空っぽの薬の棚を見せた。経済制裁により、イラクは圧倒的な薬不足にあえいでいた。
そんなイラクでは、出会った多くの人たちからアメリカへの怒りの言葉を聞いた。それだけではない。一応「日本代表」としてライブをしたからだろう、なぜか大統領宮殿に招待され、当時のサダム・フセイン大統領の長男であるウダイ・フセイン氏とも会っている。そんなことを書くと「嘘つけ!」「妄想では?」とよく言われるのだが、証拠写真はここにある。第7話だ。出発前、イラク大使館に通い、アラビア語で覚えたイラクの歌を砂漠のステージで歌うと会場は大盛り上がりとなった。
9・11テロからすぐ、アフガン空爆が始まった。これを受けて、世界中でアフガン空爆反対デモが巻き起こる。日本でもデモが開催され、私も参加した。これが私の「デモデビュー」だったと思う。
そのうち、イラクが大量破壊兵器を保有しているという話になり、アメリカの標的はイラクへと移っていった。
ただでさえ経済制裁で疲弊しているイラクに、また劣化ウラン弾が落とされてしまったら――。
何かできることはないかという思いでいたところ、戦争反対をアピールするため、みんなでイラクに行こうという話が持ち上がり、急遽再びイラクに行くことになった。総勢二十数名ほどで成田空港を飛び立ったのだが、その中には、一水会の鈴木邦男氏や元赤軍派議長・塩見孝也氏、頭脳警察のPANTA氏、ロフトプラスワンの平野悠氏などなど一緒にいるだけでなんらかの罪で逮捕されそうな物騒すぎるメンツも混じっていた。そうして一行は開戦1ヶ月前のバグダッドに乗り込み、連日「戦争反対」デモをしたりさまざまな集会に参加したりという日々を過ごした。
当時のイラクには、世界中から「人間の盾」と呼ばれる人々が集まっていた。「ここに爆弾を落とすな」という意味でバグダッドに集った反戦活動家たちである。
イラクでは、写真撮影禁止のところを撮影したなどの理由で元赤軍派議長の塩見さんが一時、秘密警察に拘束されるというちょっとした「事件」も起きた。その上、塩見さんはものすごいインフレが起きているイラクで結構な額の現金を換金し、抱えきれないほどのイラクディナールを所有するハメになり、ホテルの自室で「塩見銀行」を開いたりもした。共産主義者なのに。
しみじみと「反米」を感じる出来事もあった。それはイラクでも有名なアルラシィドホテルに行った時のこと。ホテルの入り口の床には父ブッシュの顔が描かれていたのだ。いわば「踏み絵」である。イラク人たちは嬉々として父ブッシュの顔を踏んでいた。そんなイラク滞在中、どれほど鈴木邦男氏から、「アルラシィドホテルには、ブッシュの踏み絵があるらしいど」というオヤジギャグを聞かされたことだろう。帰国してからもしばらくは嬉しそうに繰り返していた。
滞在中、イラクの街頭を歩くと、毎日のように結婚式に出くわした。これから戦争が始まるかもしれないというのに、街には不思議とのどかで、特に結婚式なんかをやっていると幸福感に満ちていた。しかし、帰国してから、イラクでは戦争を前にして「駆け込み結婚ラッシュ」だったと知った。開戦前の、あの不思議に平和な空気を、私は一生忘れないと思う。
そうして私たちが帰国した翌月、イラクは戦場になった。
イラクに爆弾が落とされるのをテレビで見ながら、イラクで出会った人たちを思い出していた。外国人と見ると見境なく口説いてきた若者。毎晩のようにホテルの部屋に湾岸戦争時の死体写真を売りに来たおっさん。いつも「ノーピクチャー」とうるさかったけど優しくもあり、ずっと同行していた役人。そして街にいるストリートチルドレンたち。小児病院の子どもたち。
そんなイラク戦争で、一度だけ会ったウダイ・フセイン氏は米軍との銃撃戦の末に殺され、その無残な死体写真がネットで世界中に公開された。
5月には戦闘の終結が宣言されたが、その後も泥沼は続き、米軍によるアブグレイブ刑務所でのイラク人への虐待が大きな注目を集めもした。
04年には、現地の武装勢力が高遠菜穂子さんら3人を人質に、自衛隊をイラクから引き上げるよう要求。3人は無事に解放されたが、同年10月、今度は24歳の香田証生さんが人質となり、殺害された。殺したのはISの前身であるイラクアルカイダ。
イラク戦争終結から時間が経ってもイラクは安定にほど遠く、その泥沼はISを産む土壌にもなった。そうして14年、ISはイラクのモスルを制圧、建国を宣言。翌15年、湯川遥菜さんと後藤健二さんがISに殺害されたことは多くの人が覚えているだろう。
9・11テロをきっかけに世界が大きく変わる中、戦場に駆り出された米兵も傷ついてきた。対テロ戦争を経て自殺した米兵は3万人を超えると推計され、戦死の4倍以上(2021年8月24日朝日新聞)。一方、イラクに派兵された約5500人の陸上自衛官のうち、21人が在職中に自殺している(海外派遣自衛官と家族の健康を考える会・編『自衛官と家族の心をまもる 海外派遣によるトラウマ』)。「対テロ戦争」は、決して対岸の火事ではないのだ。
世界を変えた9・11から、20年。
この国の多くの人にとって、イラク戦争はすっかり過去のことだろう。が、当時の小泉政権は米英のイラクへの武力行使を真っ先に支持している。この検証はなされないままでいいのだろうか。
例えばイギリスは16年、イラク戦争についての報告書を公表している。数年間にわたって独立調査委員会(チルコット委員会)が検証を続け、膨大なページ数の報告書にまとめたのだ。そこでは、不正確な情報をもとに戦争に突き進んだ当時のトニー・ブレア首相が厳しく批判されている。一方、イラクに大量破壊兵器がなかったにもかかわらず、当時、武力行使を支持した当時の小泉政権の責任は問われてはいないし、イラク戦争を検証するような委員会も設置されていない。
そんなイラクで強烈に覚えているのは、バグダッドでデモをした時のこと。
自宅からシーツを持参し、ドン・キホーテで買ったポスターカラーで、滞在していたパレスチナホテルの私の部屋でみんなで「NO NUKES」という横断幕を作った。そう描いたのは、「ここに劣化ウラン弾を落とすな」という意味だった。
まさかそれから8年後、原発事故後の日本で同じ横断幕を持ってデモをすることになるなんて、あの頃、誰が想像しただろう。
原発事故からも、今年で10年。
あの事故についても多くのことが曖昧なままで、そして今、コロナ禍で自宅放置された中から多くの死者が出ていることも、今年8月の変死者のうち、実に250人がコロナに感染していたこともおそらくきちんと検証されることもなく、忘れられてしまうだろう。
だからこそ、こうしていちいち記録し、焼き付けておきたい。
(2021年9月15日の雨宮処凛がゆく!掲載記事『第569回:9・11から20年〜イラク戦争直前に訪れたバグダッド。の巻(雨宮処凛)』より転載)